2

 祖母の生家は裕福だった。戦前に比べれば質素な生活を強いられていたが、それでも東京に屋敷と言っていい大きさの家を持ち、敷地内に蔵もあった。

 蔵の中で祖母が一枚の油絵を見つけたとき、彼女はまだ14歳の少女だった。

 その絵は額縁に入ったまま床に置かれ、壁に立てかけられて埃をかぶっていた。両手を広げたくらいの横幅で、ヨーロッパあたりの風景だろうか、夜空を背景に浮かび上がる白壁の城と、そこに向かっているらしい騎馬の人物が描かれている。まるで絵の中に吸い込まれそうな不思議な魅力があり、彼女はそれが大いに気に入った。

 父親に尋ねると、どうやら祖父が買い求めたものらしく、作者や由来などはよくわからないという。とにかく大した値打ちもなかろうから好きにしていいと言われた。

 質素倹約が尊ばれる時世だったから、自室に豪華な絵を大っぴらに飾ることはためらわれた。しかしその絵に強く惹きつけられていた彼女は、それを自室に運んで布をかぶせると、蔵にあったときと同じく壁に立てかけておいた。これといって思惑はなく、ただ傍に置いておきたかったのだ。


 その夜、眠っていたはずの祖母は――いや、まだ十代の乙女だったのだから祖母と呼ぶのは似つかわしくない。彼女の名前で呼ぶことにしよう。眠っていたはずのちよさんはふと、自分が土の上に立っていることに気づいた。

 そこは森の中だった。空は暗く、見慣れない種類の木々が風に枝をしならせている。見たことも、行ったこともない場所だ。

 立ちすくんでいる彼女に夜風が吹きつけた。戦時中のこと、空襲があればすぐに逃げられるよう昼間と同じモンペ姿だったが、それでも風は冷たかった。足袋を履いたきりの足にも、じわじわと冷たさが染み入ってくる。寒さと心細さに震えながら辺りを見回すと、行く手に明かりが見えた。それを目指して暗い森の中を半泣きで歩いていくと、やがて開けたところに出た。

 明かりに見えたのは大きな城だった。尖った屋根を備えた白い城壁を見た途端、ちよさんはそれまで感じていた恐れとは別の感情を覚えて立ち止まった。この風景をどこかで見たことがある、そう強く感じたのだ。

「どうかしましたか」

 突然声をかけられた。いや、声をかけられたというよりは、「どうかしましたか」という言葉の意味が、頭に滑り込んでくる感じがした。ちよさんは驚いて振り返った。

 森の暗がりから、白馬に乗った男が現れた。その出で立ちを見た途端、彼女にはこの場所に感じていた既視感の正体がわかった。ここには、今日蔵で見つけた絵に描かれた風景そのものが広がっているのだ。まるで絵の中に入り込んでしまったかのようだった。

 馬上の男は、少女にはまるで巨人のように大きく見えた。恐怖で固まってしまったちよさんの前に、馬がゆっくりと歩を進める。目の前で馬から降り立ったのは、ひと目で西洋人とわかる彫りの深い顔立ちに、栗色の髪と青い瞳の、まだごく若い青年だった。とっさに米英国人を連想した彼女の恐れは増したが、一方でなぜか冷静に、なぜこの人の話す言葉がわかったのだろう、と不思議に思った。

 その青年もちよさんと同じく不思議そうな、怪しむような顔をしていた。もっとも彼は、彼女を敵国の人間として認識したわけではなかった。ただ突然東洋人の若い娘が、見慣れない服を着て現れたから驚いたのだ。

 何をされるかとちよさんが怯えていると、青年は羽織っていた短いマントのようなものを脱ぎ、彼女の肩にかけてくれた。

「寒いでしょう」

 そう言って微笑んだ青年の顔を、ちよさんはとても美しいと思った。同時に味気ないモンペ姿で、髪もろくに整えていない自分が恥ずかしくなり、顔を伏せて小さな声でありがとう、と言った。晩年まで「もっと大きな声でちゃんと言えばよかった」と祖母が悔いたお礼であった。

「どうしてこんなところに君のような子供がいるんですか? 危ないですよ」

 青年の態度はあくまで優しく、ちよさんは安堵のあまり泣き出してしまった。泣きながら「気がついたらここにいた」ということを何とか伝えた。自分が発している言葉は日本語なのに、目の前の青年にはやはり不思議と通じているらしかった。

 青年は彼女の話に納得したのかしないのか、「とにかく、私の家にお連れしましょう」と言って目の前の城を指さした。

「怪しいものではありません。私はシュタウフェンベルク家の者です。ベンと呼んでいただいてかまいませんよ」

 ちよさんはうなずいた。ベンは馬を曳き、彼女はその横を歩いた。歩きながら時折ちらちらと、彫刻のような青年の横顔を見上げた。

 やがてふたりは橋に差し掛かった。そのとき突然周りの風景がぼやけ始め、あれよあれよという間に真っ白な霧のようなものに包まれた。

 ちよさんは「ベンさん!」と叫んだ。青年の声が切れ切れに耳に届いたが、よく聞き取れなかった。


 気がつくと、ちよさんは普段どおりきちんと布団に寝ていた。視線の先には見慣れた自室の天井があった。

 してみると、今までのことは夢だったのだ。ほっとしたような残念なような、不思議な気分だった。

 彼女は起き上がると例の絵にかけた布をとり、そこに描かれた城を、夜の森を、そして顔の見えない騎上の人物をまじまじと眺めた。湿った地面の感触も、肩にかけられたマントの暖かさも、まるで本物のような現実感に満ちていた。とはいえ、やはり夢は夢である。この絵があまりに印象深かったから、あんな夢を見たに違いない。

 そう思ったものの、その日一日、ちよさんは夜が待ち遠しくてたまらなかった。もう一度同じ夢を見られるような気がしたのだ。それはほとんど確信に近い気持ちだった。夜になると彼女は着物の衿をきちんと直し、きれいな足袋を履き、黄色いリボンで髪をまとめて布団に入った。これが当時の彼女にできる、精一杯のお洒落だった。

 どきどきしてなかなか眠れなかったが、いつの間にか意識が遠くなり、気がつくとちよさんはまたあの夜の森に立っていた。今度は少しも恐ろしくなかった。胸の中に熱い火が燃えているようだった。

「ベンさーん」

 森の中に向かって叫ぶと、「ああよかった」と言いながら青年が現れた。馬は連れておらず、ちよさんの顔を見ると嬉しそうに笑った。

「何だかもう一度貴女に会えるような気がして、待っていました」


 あれから何十年も経ったけれど、このときほど胸が高鳴ったことは一度もない。

 祖母はきらきらした瞳で、そう語った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る