縁切弁護人

 人生にゴールなんてない。

 死はゴールと数えていれば簡単だが、大多数はそうではない。

 人生はつらいことが多い。終わりのないひどい出来事もある。

 離婚、転職、遺産争い、悪霊退散縁切り。

 他者の力を借りてでも、いったんゴールを設定して、折り合いをつけてやらなければいけないときだってある。

 私たちは何とやってかないといけないのだから。



「俺は死にたくないんです。お願いします、ハンゲショウ先生。」

 着慣れていないスーツに身を包み、難読漢字が使われた相手の名字を淀みなく読んだ青年を前に、半夏生潤はんげしょうじゅんは白い歯を見せた。

 口角が上がっていないその表情に、青年はぎょっと身を離す。

 それを見て、男は傷ついたように、口を閉じた。歯を見せるのは、彼なりに笑っていると示す仕草だ。

「依頼料は振込で頂いた。スーツで来て頂く、弊社のポリシーもご理解頂いた。ご依頼、お請けする。」

 そう言うと、弁護人半夏生はもう一度歯を見せた。

 弁護人は調停を担うことも多い。

 遺産相続で調停人として働く弁護人が、一番わかりやすい。離婚に際して条件を交渉する弁護人も、広く見れば調停人と言える。

「調停に際しての代理人のご依頼。弊社にご依頼頂き、俺をご指名ということは、縁を切りたい人がいるわけか。」

 敬語を使わない半夏生に、青年はとがめるそぶりも見せない。

 彼はそういう人物だと、青年は彼を紹介した大学の教授から、言い含められていたからだ。

 国内最高峰の大学の教授から推薦された弁護士に言いがかりをつけるほど、彼は愚かではなかった。

 調停のプロフェッショナル。どんな案件も終わらせる弁護人。二国間で三世代にわたって争われてきた家督争いを解決したこともある調停人。

 依頼さえかければ誰だって、誰とだって縁が切れる。

 縁切弁護人、これが半夏生の異名だった。

 いつもの依頼だろうと、半夏生は白紙が挟まれたクリップボードを引き寄せる。

「あなたはどなたと縁を切りたいのか。」

 きれいな顔で適度に隙がある髪のセットをした青年は言う。

「それが、わからないんです。」

 半夏生は目をしばたいた。

 どうしようもないかもしれない。ここで弁護終了とすれば、前受け金が儲かると考えてから、弁護人として言った。

「落ち着いて、事情を話せ。」

 青年は頷いて話し始めた。

 彼は一週間前から、怪物にストーカーされているのだという。

「罪を償え」

 そう殴り書かれたチラシを毎晩ポストに投函され、夜帰るときには視線を感じる。窓を開ければ、必ず怪物のシルエットが見える。

「怖いですよね。ひどいです。」

 典型的なストーカー行為だ。弁護人は思う。

「怪物?」

「一度だけシルエットが見えたことがあって、粘性のヘドロが全身にまとわりついた男に見えました。」

 その夜はドアを汚されていたんですよ、一部証拠のために保管してあります、と彼は瓶をかばんから取り出した。

 瓶の中には確かに、濃紺にすら見える色をした悪臭を放つヘドロが詰められていた。

 心当たりは神社で騒いだことだという。

「一番ふざけていたというか、大灯篭の上で全裸になって踊ったりしたというか。」

 歯切れ悪く白状された言葉に、半夏生は頭を抱えた。

「人の感性はそれぞれだ。人間は怖いものだ。それは知っているか。」

「はい。」すんなり頷いた世間知らずに、半夏生は告げる。

「心霊現象ではなく、人間につきまとわれている可能性はないか。どこが人のツボかは人それぞれだ。」

「いえ、だってこのヘドロ、見ました?」

「誰だって身に纏えるだろう、やろうと思えば。」

 青年はまじまじとヘドロを見た。

「こんな、紺色のヘドロ、人外的ではないですか?」

「非科学を考えるのは、最終手段だ。行くぞ。」

「どこに。」

 半夏生は既にコートを着込んでいた。温かくなったというのに場違いな、厚手のトレンチコートだ。

 歯をむき出して半夏生は言う。

「交渉相手と会わなければならない。家に案内を。」

「俺の家ですか?」

「そこが今、最も交渉できる可能性が高い。」

 行動力あふれる弁護人に、青年は笑みを浮かべた。


 移動に乗った電車で、弁護人は話す。

「交渉の基本はゴールを設定することから始まる。

 そこから、こちらがどれだけ譲歩できるか、代案をどれだけ考えられるか、これがゴールからの逆算で自ずと決まる。

 それなのにあなたは、そもそも相手がなぜ怒っているのかがわからない。

 だから、ゴール設定はぐっと難しい。」

 半夏生は夏用のボディーペーパーで、念入りに手を拭いている。

 ボディーペーパーのシトラスの香りが、青年の鼻腔をくすぐる。

「相手は化け物ですからね。」

「そのような言い方は、私は好かない。」

 にべもない半夏生に、思わずといったように青年は問う。

「縁切弁護人の異名通り、依頼で悪霊を祓い、あの世に呼ばれた女子高生の縁切りをしたと聞きましたよ。どうやって、話の通じない相手と交渉を行うのですか。」

「誇張されているな、どの依頼かわからないほど。でも、敢えて回答しよう。」

 半夏生の使うボディーペーパーはもう十枚目だ。

「仮に化け物で会話が通じないということがあったとしよう。縁切りというゴールを、通常の交渉では達成できそうにない状況ということになる。

 ならば、ゲームのルールを変えてやれば良い。」

 青年には、半夏生の回答は簡潔すぎた。彼は補足として言う。

「例えば、あなたが会社員だったとする。ゴールは一年間後の売り上げ倍増。今売っている製品はどうやってもこれ以上売れない。

 ならば既に売れている製品を、売り上げ目標の対象に含めてやる。売り上げ倍増というゴールは達成できる。」

 青年は疑問符を浮かべた。

「縁切りと何の関係があるのですか。」

「弁護人協会と同じことを言う。」

 半夏生は犬歯までむき出しにした。彼なりの不快の表現だ。

 少し考えてから、彼は言う。

「そうだな。例えばあなたが狼藉を働いた神社は、全国でも有名な荒ぶる神を祀っている。

 明治時代から水に深い関わりのある地母神が、かの神社では共に祀られている。

 だから、神社での狼藉への報復に、水っぽい怪奇現象が起きても、驚くことはないのかもしれない。」

 青年は目を丸くした。

 先ほどまでと明らかに思考方法を変えたような弁護人に驚き、これから事態が自分にとって良い展開になる予感に喜びを感じたからだ。

 半夏生は先ほどまでと同じ声色で言う。

「そんな展開になるならば、ここからは交渉のルールを変えよう。」

 そう言って手を打った弁護人に、青年は思わず笑みをこぼしながら頭を下げた。


 青年の自宅はどこにでもある、一般的なアパートだった。

 二階にある彼の家に近づくにつれて、異様な光景と異臭が目立っていく。

 ドアいっぱいにヘドロがつけられ、ポストいっぱいに詰められた赤い液体の垂れたチラシの群れに、青年は崩れ落ちた。

「ハンゲショウ先生、これ、見てください。」

 いかにもおびえた様子で、青年はドアを指差した。

「これ、この量、こんなの初めてで、まさか、先生に話を聞きに行ったから。」

 半夏生はため息を吐いた。

「何のことだ。」うんざりと言葉を返す。

「あなたは何が見えている?」

 そう言うと、べっとりとヘドロがへばりついたドアに、半夏生は手を這わせた。

「ほら、何が見える?」

 そのまま開いて見せた手には、何もついていなかった。

 青年から見れば、ドアのヘドロは半夏生が這わせた跡をつけている。

「どうだ?」

 悪臭も惨状も一切感じていないように振舞う半夏生が、青年を見つめている。

 りん、とどこかで鈴の音がする。

 そんなはずはない。

 青年は狼狽した。

 だって、このヘドロは、自分がこの評判が良いとかいう弁護人に見せつけるために作って、家のドアに擦りつけたものだ。

 近所の用水路のどぶと、紺色の絵具を混ぜて、このヘドロを作ったはずだ。

 すべては、化け物に憑きまとわれる可哀そうな俺の演出のためだ。

 そして、可哀そうな俺を助けられなかった愚かな大人として、教授と弁護人を糾弾するためだ。

 生臭い風が二人の間に吹き、青年は顔をしかめているのに、半夏生は微動だにしない。

「ハアーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。」

 生臭い息が、青年に吐きかけられる。

 おそるおそる、青年は振り向いて、金切り声をあげた。



 半夏生は一仕事を終えた満足感に、口を半開きにしてソファにもたれかかっていた。

 今回の依頼人は、大学の聴講生として来ている青年と、縁を切りたがっていた。

 神社で裸になったからと化け物に襲われると主張する、そのようなことはもう三度目なのだという。

 教授が弁護人を雇って縁を切ろうと考えるのも、無理はなかった。

「まさかこんな簡単なトリックで騙されるとは。交渉相手が思い込みやすい性格で良かった。」

 ボディーペーパーでパウダーを何層も刷り込み、粘性のあるものを触っても、手に付着しないようにする。そして、なにが起こっても無反応を貫く。

 それだけで、交渉相手の青年は怪奇現象を感じ、引っ越しを行ったうえ、関係者、神社でバカ騒ぎしたメンバーから事情を知る関係者の教授、半夏生の前から姿を消した。

 SNSは更新しているところを見ると、怪異はSNSを使えないと判断するほど元気にしているらしい。

「縁切りというゴールのため、交渉相手の自己愛を刺激する危機感を覚えさせる。」

 今回のゴールに合わせたルール変更も上手くいった。

 縁切弁護人は今夜の酒は美味そうだと、ひとりでに歯を見せた。

「それで本当に、化け物はいたのか?」

 半夏生には、知ったことではなかった。

 ゴールは既に決まっていた。

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縁切弁護人 小早敷 彰良 @akira_kobayakawa

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