リノリウムに足音の鳴る

陽澄すずめ

リノリウムに足音の鳴る

 きっちり締まった校門の横にある、小さな出入り口を開けると、キィ、と軋んだ音がした。


 スタートはここ。ゴールもここ。

 心の中で、私は呪文みたいにそう唱える。

 教室まで行って帰ってくるだけ。置き忘れたメガネを取ってくるだけだから、何事もなく終わるはず。そうやって自分に言い聞かせる。

 吸って、吐いて、深呼吸。

 いち、にの、さんで、一歩を踏み出す。


 お天気のいい、土曜の午前。

 まだ全然見慣れない、遊具も何もない寂しげな校庭には、人っ子一人見当たらない。

 立ち並んだ桜の木は、もうずいぶん花が散ってしまっている。地面のあちこちにへばりついた薄ピンクの花びらを踏みながら、私は小走りで校舎に近づいた。


 心臓がドキドキしている。誰かに見つかったらどうしよう。

 昇降口は扉が閉まっていたけれど、鍵はかかっていなかった。重いガラス戸をそうっと引いて、私はするりと中に入った。

 校舎の中はしんと薄暗くて、ひんやりしている。

 メガネがないせいで何もかもがぼやけて見えて、なんだか心細い。


 私は自分のクラスの下駄箱の間を通って、たたきにスニーカーを揃えて脱いだ。上履きは、昨日持って帰ってしまったから。

 靴下のまま上がった廊下は、びっくりするくらい冷たかった。


 ——この床、リノリウムっていうんだって。莉乃ちゃんの名前に似てるね。


 そう教えてくれたのは、小学校で一番仲良しだった藍ちゃんだ。莉乃っていうのが、私の名前だから。

 藍ちゃんとは中学校が違う。なかなか会えなくなってしまった友達のことを思い出すと、胸がきゅうっと苦しくなった。

 苦手なことや嫌なことは、小さなゴールを決めて、ひとまずそこまで頑張ってみる。その方法を教えてくれたのも、しっかり者の藍ちゃんだった。

 これから先、藍ちゃんのいない教室で、私はどうやって過ごしたらいいんだろう。毎日の帰りのホームルームを小さなゴールにしたら、一人でも中学校生活を頑張れるんだろうか。


 ひたひたと忍び足で歩く廊下は、小学校のよりも長い気がする。色合いも、こっちの方がちょっと暗い。でも、リノリウムっていうのはきっとおんなじだ。

 職員室の横を、音を立てないように通り過ぎる。

 もう少しで階段に行き着くところで、後ろから突然がらりと扉の開く音がした。

 全身がびくっと勢いよく跳ね上がる。

 恐る恐る振り返ると、背の高い男の先生が職員室から顔を出していた。


「あれ?」


 その先生が、私の方へ近づいてくる。


「どうしたの?」


 心臓がばくばくうるさく鳴っていて、今にも口から飛び出そう。脇の下を、つぅっと汗が伝っていく。私はその場から動けなくなってしまった。

 ここは中学校なのに、今の私は制服じゃなくて普通の服だ。チビだから小学生に見えるかもしれないし、勝手に校舎に入り込んだことを怒られるかもしれない。


 からからになった口をぱくぱく動かして、私はどうにか声を出した。


「あ、あの……忘れ物を……メガネを、机の中に忘れちゃって……」


 目の前にいる先生の顔も、ちょっとだけぼやけていた。大人の人の年はよく分からないけど、若そうな先生だ。


「あぁ、忘れ物ね。一年生?」

「あ、はい……一年二組です」

「小出先生のクラスだね」

「はい」


 そっかそっか、とその先生は頷いている。

 とりあえず、私がこの学校の生徒だってことは分かってもらえたみたいだ。まだ心臓は苦しいけれど、少しだけほっとする。


 先生が私の足元をちらりと見て言った。


「足、冷たくない?」

「い、いえ……大丈夫です」

「うーん、でも、廊下けっこう冷えるからねぇ」


 そう言って、先生はスリッパを脱いで私の前に揃えて置く。

 それは深緑色をしていて、甲のところにかすれた銀色の文字で中学校の名前が書いてあった。


「これ、履いときな。先生が履いてたので申し訳ないけど」

「え、でも……」

「先生、今からちょっと外に出るとこなんだ。だから履いてていいよ」

「あ、はい……すいません」


 スリッパに足を入れる。爪先があったかい。


「それ、下駄箱の前にでも置いといてくれればいいから」

「はい」

「さ、忘れ物取っておいで。帰りも気を付けてね」

「はい、すいません」


 私は先生にぺこりと頭を下げて、いそいそと階段に向かった。

 一段一段、踏み外さないように気を付けて昇っていく。私にはちょっと大きいスリッパの底が、その度にぱたぱたと軽い音を立てる。

 この階段も全部リノリウムなのかな。そんなことを考えているうちに、二階に到着した。


 誰もいない廊下を、一人きりで歩いていく。

 ぱたぱたぱたん。ぱたぱたん。

 自分の足音が響いても、もうそんなにそわそわしなかった。


 一年二組の教室の、後ろの扉をそろりと開ける。ここに入るのには、まだ少し緊張する。

 扉のすぐ近くの、廊下側のいちばん後ろが私の席だ。身をかがめて机の中を覗く。

 あった。蓋の端っこにマジックペンで『渡辺 莉乃』と書かれた、ピンク色のメガネケース。

 私はメガネをかけて、教室を後にした。


 またぱたぱたと足音を鳴らしながら、来た道を戻った。

 今度はいろんなものがはっきり見える。

 さっきまで慣れなかったこのリノリウムの廊下は、窓から射し込む光で明るく照らされていた。日向と日陰を順番に、端から端まで一直線を進んでいく。


 行きと違って、帰りは下駄箱まであっという間だ。

 スリッパ、本当にここに置いておいていいのかな。きょろきょろと先生を探したけれど、まだ戻ってきていないみたいだった。

 私はスリッパを揃えて脱いで、スニーカーに履き替えた。


 昇降口の扉を押し開けて、外へ出る。

 その途端、眩しくてあったかいお日さまの光に包まれた。

 爽やかな風が吹く。残り少ない桜の花びらがふわりと散って、青い空に舞い躍る。木の枝には、きらきらした緑の葉っぱが顔を覗かせている。


 吸って、吐いて、深呼吸。

 あぁ、新しい季節の匂いがする。

 それは甘くて、ちょっとくすぐったい。


 あの先生、何て名前なんだろう。どの教科の受け持ちなのかな。

 次に会ったら、お礼を言おう。

 「すいません」じゃなくて、「ありがとうございました」って、今度はちゃんと。


 よし、校門に到着。

 今日のゴールはここ。それからたぶん、次のスタートもここ。

 胸がドキドキしていた。

 そうして私は、いち、にの、さんで、一歩を踏み出した。



—了—

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

リノリウムに足音の鳴る 陽澄すずめ @cool_apple_moon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ