エル・ポルテロの悲劇

てこ/ひかり

エル・ポルテロの悲劇

 笛が鳴った。


 同時に相手のキッカーが勢いよくボールに駆け寄って来て、鋭く右足を振り抜いた。

 同点のまま迎えたロスタイム。試合はPK戦へともつれ込んだ。お互い4人目まで終わり、両チームとも1人ずつ外し、1人ずつキーパーがスーパーセーブして、そして5人目。手に汗を握る展開だった。全員固唾を飲んで、祈るようにグラウンドを見つめていた。スタジアムは静まり返っている。最初にこっちのチームが決めた。ヴォルテージは最高潮に達した。


 ボールが飛んで来た。


 これを止めたら、勝つ。

 

 球は激しく回転しながら、キーパーの俺から見て枠内の右に向かった。大気を切り裂く音が聞こえて来た。


 俺は限界を超えて、うんと手を伸ばした。回転するボールに、指先が触れるか触れないかの、


 その瞬間。


 時が、


 

 止まった。



 キーパーには人生で数回、こう言うことがある。。極限まで研ぎ澄まされた精神力と集中力で、時間が圧縮され、止まったように感じる。人は「作り話だ」、「冗談だ」と笑うが、俺は本当だと思う。現に今、俺はそれを体験しているのだ。


 そして今、止まった時の中で、俺は目の前に見知った人物が立っているのに気がついた。ふと気がつくと、辺りがまるで霧にでも包まれたみたいに真っ白になっている。


「親父……?」


 俺は着地し、周囲を振り返った。満員の観客も、そばで肩を組んで見守っていた仲間や相手の選手も、いつの間にかいなくなっていた。目をこする。これも、集中力が見せる世界なのだろうか?


「拓郎」


 立っていたのは、間違いなく俺の親父だった。ちょうどPKのボールの位置に立った親父が、ぶっきらぼうに俺の名を呼んだ。俺は戸惑った。親父は何十年も昔、俺が小学生の頃、事故で亡くなっているのだ。


「どうしてここに……」


 そう声を出そうとして、俺は、自分の体が縮んでいることに気がついた。親父がでかい、見える景色が低い。時間空間を超越した不思議な空間の中で、俺は小学生時代の姿に戻っていた。


「親父……いや、父さん。ぼく……」


 俺の喉から、声変わりする前の、甲高い声が出て来た。親父は両手にサッカーボールを大事そうに抱えたまま、黙って俺を見下ろしていた。生前、親父はサッカーが大好きだった。地元にJ2のチームが出来たと喜んで、仕事の合間を縫っては、できたてのスタジアムに足繁く通った。俺にサッカーを教えてくれたのも、この親父だった。


「見て。ぼく、サッカー選手に……日本代表にもなったんだよ」

「…………」

「いっぱい、いっぱいがんばったんだよ」

「…………」

「この試合に勝ったら……W杯、優勝するんだ」

「…………」

「父さん、ぼく……」

「……頑張ったな、拓郎」


 親父はボールを持ったまま、不器用そうにはにかんだ。いつの間にか、視界がぼやけていた。喋りながら、俺は泣いていたのだった。勝っても負けても、試合が終わるまでは泣くまいと決めていたのに。最後の最後、PKの最中に死んだ親父と再開して、涙が止まらなかった。


「父さん!」

「拓郎!」


 俺は小学生の格好のまま、親父に駆け寄った。親父はボールを離し、力強く俺を抱きしめてくれた。それから俺と親父はたくさん話をした。話すことはたくさんあった。親父が亡くなった後のこと。お袋のこと、弟のこと。それから俺の妻のこと。そしてもちろん、サッカーのこと。もっと言わなきゃいけないことが、たくさんあるような気がした。


「親父……」


 ……そして気がつくと、俺は親父の墓の前で眠りこけていた。体も、いつの間にか元に戻っていた。一体どうして……いや、きっと理屈ではないのだろう。

「親父……ありがとな」

 俺は墓の前で、静かに手を合わせた。家に帰ると、妻の沙知絵が待っていた。


「久しぶりに、親父の夢を見たよ」

「まぁ」

「懐かしかったなぁ」

「お義父さん、今でも貴方のこと天国で見守ってらっしゃるのね」


 沙知絵がほほ笑んだ。俺も笑った。胸の奥が、何だかぽかぽかと暖かかった。いい気分だ。景気付けにビールをジョッキで浴びるように飲み、テレビをつけた。ちょうど日本代表戦をやっていた。画面の中で、解説者が叫んでいた。


『ゴール、ゴール、ゴォォォォォルッ!!! これはどうしたことでしょう!? 一体どこに行ったんだ!? 今どこにいるんだ!? キーパーが消えた! PKの瞬間、突然キーパーが消えました!!』 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

エル・ポルテロの悲劇 てこ/ひかり @light317

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ