エル・ポルテロの悲劇
てこ/ひかり
エル・ポルテロの悲劇
笛が鳴った。
同時に相手のキッカーが勢いよくボールに駆け寄って来て、鋭く右足を振り抜いた。
同点のまま迎えたロスタイム。試合はPK戦へともつれ込んだ。お互い4人目まで終わり、両チームとも1人ずつ外し、1人ずつキーパーがスーパーセーブして、そして5人目。手に汗を握る展開だった。全員固唾を飲んで、祈るようにグラウンドを見つめていた。スタジアムは静まり返っている。最初にこっちのチームが決めた。ヴォルテージは最高潮に達した。
ボールが飛んで来た。
これを止めたら、勝つ。
球は激しく回転しながら、キーパーの俺から見て枠内の右に向かった。大気を切り裂く音が聞こえて来た。
俺は限界を超えて、うんと手を伸ばした。回転するボールに、指先が触れるか触れないかの、
その瞬間。
時が、
止まった。
◇
キーパーには人生で数回、こう言うことがある。ボールが止まって見える。極限まで研ぎ澄まされた精神力と集中力で、時間が圧縮され、止まったように感じる。人は「作り話だ」、「冗談だ」と笑うが、俺は本当だと思う。現に今、俺はそれを体験しているのだ。
そして今、止まった時の中で、俺は目の前に見知った人物が立っているのに気がついた。ふと気がつくと、辺りがまるで霧にでも包まれたみたいに真っ白になっている。
「親父……?」
俺は着地し、周囲を振り返った。満員の観客も、そばで肩を組んで見守っていた仲間や相手の選手も、いつの間にかいなくなっていた。目をこする。これも、集中力が見せる世界なのだろうか?
「拓郎」
立っていたのは、間違いなく俺の親父だった。ちょうどPKのボールの位置に立った親父が、ぶっきらぼうに俺の名を呼んだ。俺は戸惑った。親父は何十年も昔、俺が小学生の頃、事故で亡くなっているのだ。
「どうしてここに……」
そう声を出そうとして、俺は、自分の体が縮んでいることに気がついた。親父がでかい、見える景色が低い。時間空間を超越した不思議な空間の中で、俺は小学生時代の姿に戻っていた。
「親父……いや、父さん。ぼく……」
俺の喉から、声変わりする前の、甲高い声が出て来た。親父は両手にサッカーボールを大事そうに抱えたまま、黙って俺を見下ろしていた。生前、親父はサッカーが大好きだった。地元にJ2のチームが出来たと喜んで、仕事の合間を縫っては、できたてのスタジアムに足繁く通った。俺にサッカーを教えてくれたのも、この親父だった。
「見て。ぼく、サッカー選手に……日本代表にもなったんだよ」
「…………」
「いっぱい、いっぱいがんばったんだよ」
「…………」
「この試合に勝ったら……W杯、優勝するんだ」
「…………」
「父さん、ぼく……」
「……頑張ったな、拓郎」
親父はボールを持ったまま、不器用そうにはにかんだ。いつの間にか、視界がぼやけていた。喋りながら、俺は泣いていたのだった。勝っても負けても、試合が終わるまでは泣くまいと決めていたのに。最後の最後、PKの最中に死んだ親父と再開して、涙が止まらなかった。
「父さん!」
「拓郎!」
俺は小学生の格好のまま、親父に駆け寄った。親父はボールを離し、力強く俺を抱きしめてくれた。それから俺と親父はたくさん話をした。話すことはたくさんあった。親父が亡くなった後のこと。お袋のこと、弟のこと。それから俺の妻のこと。そしてもちろん、サッカーのこと。もっと言わなきゃいけないことが、たくさんあるような気がした。
「親父……」
……そして気がつくと、俺は親父の墓の前で眠りこけていた。体も、いつの間にか元に戻っていた。一体どうして……いや、きっと理屈ではないのだろう。
「親父……ありがとな」
俺は墓の前で、静かに手を合わせた。家に帰ると、妻の沙知絵が待っていた。
「久しぶりに、親父の夢を見たよ」
「まぁ」
「懐かしかったなぁ」
「お義父さん、今でも貴方のこと天国で見守ってらっしゃるのね」
沙知絵がほほ笑んだ。俺も笑った。胸の奥が、何だかぽかぽかと暖かかった。いい気分だ。景気付けにビールをジョッキで浴びるように飲み、テレビをつけた。ちょうど日本代表戦をやっていた。画面の中で、解説者が叫んでいた。
『ゴール、ゴール、ゴォォォォォルッ!!! これはどうしたことでしょう!? 一体どこに行ったんだ!? 今どこにいるんだ!? キーパーが消えた! PKの瞬間、突然キーパーが消えました!!』
エル・ポルテロの悲劇 てこ/ひかり @light317
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます