マリーナ

micco

マリーナ

「ああ、胃が痛てぇ」

 マシュはどかっと椅子に腰掛けながら悪態を吐いた。

「行きたくねぇ」

 船内カフェで、彼と相席になったニナは呆れたように肩をすくめた。

「今度の調査のこと? それ、アタシもサポート役になったからよろしく」

「なんだ、お前もか。趣味の悪い任務だって思うだろ?」

 マシュはふてくされた顔で頬杖をつき、丸窓越しに宇宙を眺めた。

「まぁ、任務なんだもの仕方ないわよ。ほら、明日から携帯食ばっかになるんだから好きなの食べたら?」

 ニナは再び肩をすくめてから明るい口調で話題を変えると、テーブルに置かれた端末を持ち上げた。マシュに「塊肉は?」と強引にメニューを見せる。

 彼は頬杖をついたまま、それに胡乱に見遣った。

「……俺は胃が痛てぇからソーダフロートでいい。あと、エクレア」

 ニナは端末を操作しながら、「うへぇ」と舌を出した。

「あなた甘党よね」


          🌑 🌑


 マリーナは目をぱちくりさせた。変な服を着た男の人が目の前に突然現れたからだ。

「だあれ?」

 まるでトビウオの鱗のような色の、ぴたりと体に張りついた服。夜の海のような髪の色。マリーナはきれい、とにっこり笑った。

「お、なんだ子どもか。翻訳機に問題はなさそうだな……というか珍しいな、ここは人型生命体の分布が……」

「ほんや……ぶんぷ?」

 マリーナが聞いたままを繰り返すと、男の人はマリーナの顔をのぞき込んだ。無精髭に高い鼻。

「あぁいや、何でもねぇよ。へぇ、俺達と身体組成もほとんど変わらないのか」

海を映したような青い瞳。マリーナはきれい、と呟いて、もう一度尋ねた。

「あなた、だあれ? お魚さん?」

「俺? そうだな……俺は『おじさま』だ。お前さんは?」

 マリーナはその深い青が優しく細まった瞬間、おじさまを好きになった。

――マリーナは海が好きだった。朝日に輝く水平線も、ざざ、とマリーナの足を濡らす波も、眠るときに語りかけるような凪いだ歌も全部好きだった。だからマリーナは、毎日海に出掛ける。すると時折、おじさまに会える。

「おい、マリーナ。またひとりで来たのか。お前小さいんだから、ひとりでうろつくなって言っただろう」

「だって皆、忙しいもの。わたしはまだ働けないから遊んでなさいって」

「ふぅん、お前の家族は皆、何して働いてんだ?」

「花火を作っているのですって! おじさまは花火を知ってる? とってもきれいなのよ」

 マリーナは早く大きくなってきれいな花火を作る仕事をしたい、と思っていた。

「……お前さんにはまだその仕事は早いだろ。ほれ、その辺で遊んでな」

 マリーナは「はあい」と返事をして貝を集めたり、岩陰の小さな魚を見たりして夕方まで遊ぶ。

 時には木陰でおじさまとおやつを食べるときもある。マリーナが木の実を摘んでおじさまに一つあげるのだ。

「甘くて美味しいわよ、おじさま」

「甘い?……うぇ!」

「美味しい?」

「……調査員は地域の社会・文化等を重視し、特に地域内の従来及び現在の活動状況、社会情勢、経済、文化上の特性等を考慮するべき、だが……うぇぇ……こんなの甘いうちに入るかよ!」

 顔をしかめてブツブツ言うおじさまの隣に並んで、マリーナは好きなだけ実を食べる。おじさまは「不味い」と嫌な顔をしても、マリーナが手渡せば一緒に食べてくれるのだ。

 そうして、おじさまはいつも「暗くなる前に帰れ」とちょっと怒る。必ず家の近くまで送ってくれる。

 マリーナはそんな優しいおじさまが好きだった。おじさまに会う度にますます海が好きになった。



          🌒 🌒


 マリーナは工場で働く年になった。

 花火を作る仕事は思ったよりも大変で、毎日真っ黒になって帰る。マリーナの金髪も肌色だった爪も黒く汚れるようになった。それでも休みの日には海へ出掛けて波打ち際で遊ぶ。

「おじさま!」

 マリーナは相変わらず『おじさま』が好きで、見かけると必ず抱きついた。

「なんだ、今日は休みか」

「そうなの! 先月は全然会えなかったから寂しかったわ!」

「悪いな、こっちも仕事なんだ」

 そう言って、おじさまは手に持った薄い黒い板をなぞったり軽く叩いたりする。おじさまは背が高いので、マリーナからは何をどうしているのか、全然分からない。

 マリーナはおじさまの仕事を何度も尋ねた。分かれば街でも会えるかもしれない、と思ったからだ。しかし、おじさまは「秘密だ」とニヤリと笑うばかりで教えてくれない。相変わらず、不思議な色のぴたりとした服を着ているわと、マリーナはしげしげとおじさまを観察した。よく見れば黒い薄い板も、見慣れない金属でできているようだった。時々それが自分で光り始めたり、女の人の声が聞こえてきたりしてびっくりすることもあった。

「もしかして」と、マリーナはポン、と手を打った。

「おじさまは、この辺に住んでる人じゃないの?」

 黒い板を見つめていたおじさまは、マリーナに視線を移すと、少し驚いたようだった。

「よく分かったなマリーナ。少し賢くなってきたか? もう目の前で端末は触れないな」

 マリーナは褒められて、話を最後まで聞かずにえへへ、とおじさまに抱きついた。おじさまはマリーナの頭をくしゃ、と撫でた。

 マリーナの父も母も少し前、花火を作っている間に事故で死んでしまった。花火は作るのに失敗すると、恐ろしい火を噴く。何人もの大人が一気に死んでしまう大事故が起きる。

 近くの大人に引き取られたマリーナには、傍に抱きつく人がいなかった。誰も頭を撫でてくれる人がいなかった。

 もう、甘えられるのはおじさまだけになっていた。


          🌓 🌓


 マリーナは背が伸びた。花火の仕事も難しい組み立てを任されるようになっていた。そして自分が作っているのは花火ではない、という噂を耳にして物事を注意深く考えるようになった。何か恐ろしい物だ、ともっと慎重に仕事に取り組むようになった。

 こんなに毎日、金属を張り合わせて作り続けても、間に合わないほどの花火を使うわけがない。一体何なのか、不安で仕方がない。それでも、食べるためには作り続けるしかなかった。

 仕事が変わり、マリーナの髪も爪も少しずつきれいになった。しかし今度は、引き取られ先の食事の準備や洗濯をしなければ、酷くぶたれるようになった。せっかく黒くなくなった手は、いつも荒れていた。休みなんて週に半日もなくなった。

 だから夜、マリーナは家から抜け出して真っ暗な海を眺めるようになった。いつの間にか海が少しずつ大きくなって、広かった砂浜は狭く細くなっていたが、波の音はいつもマリーナに優しい。

「……マリーナか? お前大きくなったな」

「おじさま! もう会えないかと思ったわ!」

 マリーナは幼い頃と変わらず『おじさま』に抱きつく。マリーナの背はおじさまの肩ほどまで届くくらいになっていた。おじさまは火ではない、白い眩しい灯りをかざしてマリーナを照らした。

「そろそろ海面が秒単位で上昇し始めたか……おい、どうした、泣いてるじゃないか」

 赤く腫れた頬と、濡れた目蓋を露わにする。

「マリーナ、誰かにぶたれたのか?」

「いいえ、おじさま。ちょっと転んだの、それで落ち込んで海に来たのよ」

 マリーナは何でもないように笑うのに慣れていた。「そうか」とおじさまは短く言ってマリーナの頭をくしゃ、と撫でる。そして胸に、しばらく頭を置かせてくれた。

「おじさま、また会える?」

「分からん。……ほれ、もう暗いから帰って寝ろ。心配させんな」

 マリーナは熱く痛む頬に冷えた心地よい手が触れるのを感じて、ぽろ、と涙を流した。ざざ、と夜の波がマリーナの足を濡らした。


          🌔 🌔


 マリーナは大人になった。

 工場で働く男の人から日に日に求婚されるようになった。だがマリーナはいつも「ごめんなさい」と断わった。男達の中には諦めが悪い者もいて、無理に家に押し入ろうとする人もいた。

 その煩わしさに、マリーナは海のそばの小さな小屋を譲ってもらって移り住み始めることにした。近ごろ海が大きくなりすぎて危険だと、ここなら誰も追いかけて来ない。

 既にマリーナを引き取った家の人も皆、死んでいた。近頃は急激に気温が上がっていつも半袖で過ごさなければならないほど気温が高い。健康な者でも、少しのことで病気になってしまうほどだった。

 小屋は古くて夜は海風が音を立てて入り込むし、工場はとても遠い。それでもマリーナは、前よりずっと幸せになった。

 朝は白く炎が立つような水平線を見れば、清々しさに勇気づけられた。疲れ果てて帰れば、波がざざ、と迎えてくれる。時には、半年に一度だけ空に懸かる大きな月をぼんやり眺める。海はいつも心を落ち着かせてくれた。

 そして海の側に住んでから、『おじさま』に会うことが多くなった。それが何より嬉しかった。

「おい、マリーナ! ひとりでこんなところに住んだら危ないだろう……クソ、随分海面が上がってきてるな……街へ戻るんだ」

「大丈夫よ、おじさま。私、ここがいいの」

 おじさまは、時々マリーナの家に勝手に上がり込んで小言を言う。波の音がざんざ、と暗い小屋に強く響く時は特に。

 その頃、海は更に大きくなって小屋のすぐ下まで波を寄せていたので、マリーナはそれを口には出さずとも、酷く心細く感じていた。だから、おじさまの持つ眩しい灯りや、おじさまの優しい青い瞳はマリーナを安心させた。

「お前、ちゃんと食ってんのか?」

「今夜は何も……いいの、明日何か食べるから」

 街中が飢えていた。気温の高さに何もかも手に入らなくなった。それでも、花火の工場で働くと食糧が手に入るので、マリーナは元気な方だった。

「ちっ、労働階層に脱出船作らせてメシも食わせねぇとはな」

「え、何?」

 おじさまは困ったように唇を尖らせ、腰につけた入れ物から何か取り出した。

「……仕方ねぇな。ほれ、これ食え」

「なあに?」

「チョコだ。ったく、もう残り少ないんだ。大事に食え」

「わぁ! 甘い! 美味しい……! ありがとうおじさま!」

 おじさまはもう一つ取り出すと、自分も同じ物を囓った。

「な、これが甘いってやつだ」

 ニヤリ、と得意げに笑うおじさまに、マリーナは嬉しくて抱きつく。マリーナの背はまた伸びておじさまの肩に頬ずりできるようになっていた。暑さで肩まで晒した腕を伸ばして、ぎゅうと抱きしめた。「あんまりくっつくな」と、おじさまがマリーナを引き剥がす。

「どうして? 私、おじさまが好きなのに!」

 マリーナはその瞬間、どうして自分が男の人に「ごめんなさい」ばかり言いたくなるのか、やっと理解した。そして酷く息が苦しくなって夢中で彼に抱きついた。離れたくなかった。ずっとくっついていたかった。

「おじさまお願い、ずっと一緒にいてほしいの。好きなの」

 その銀色の服に押しつけた頬は、彼の体温が移って熱いほど。マリーナはくっついていない背中が寒く感じて、殊更、彼に体を押しつけた。

 おじさまは長い長いため息を吐いた。

「……ああ胃が痛てぇ。勘弁してくれ」

 それでもその夜、おじさまはマリーナが寝るまで一緒にいてくれた。手を繋いで、まるで子どもを寝かしつけるようにして。

 しかし、ふとマリーナが目を覚まし薄ら目を開けたときだった。おじさまは青白く光る黒い板に向かって何か話をしていた。「衝突まであとどれくらいだ、ニナ。早く計算してくれ」「科学レベルは近代……量産する脱出船は……」「何か方法は」と、早口で低い彼の声は、焦っているようだった。返ってくる女の人らしき高い声。

 マリーナは咄嗟に、繋いだ手をぎゅう、と強く握った。おじさまが他の誰かと話すことが嫌だった。寂しくて、苦しくて、自分だけの傍にいて欲しいと思った。

 彼はマリーナの様子に気づくと、目尻にたまった涙を拭って、「大丈夫だ、マリーナ」と前髪をくしゃ、と撫でた。

 マリーナが朝、目を覚ましたときには、彼はどこにもいなくなっていた。


 それからマリーナは、『おじさま』に会えなくなった。ただ時折、彼女の枕の下には『ちょこ』や甘い食べ物が隠すように置かれた。

「どうして。おじさま……会いたいのに」

 マリーナはひとりの小屋で、泣くようになった。ひとりの寂さを知って、泣いた。


          🌕 🌕


 ――夕方から星が雨のように降る夜のことだった。それだけでも素晴らしいのに、月が大きく大きく輝く半年に一度の夜のことだった。

 どこからか黒い服を来た人達がたくさん来て、工場中の花火をどこかへ運んで行った。工場は空っぽになり、マリーナ達は仕事がなくなった、と言われた。

 困惑する皆を余所に、黒い服の人達は花火に乗って空へ飛んで行く。次々に空へ、空に懸かる月の中へ飛び込むように小さくなった。

 そのときマリーナは初めて、花火が空飛ぶ乗り物だということを知った。そしてそれがどこかへ逃げるための物だったことを。

「逃げよう」

 マリーナは仲の良かった男友達から手を強く引っ張られた。

「どこへ? どうして?」

「どこか安全な場所に逃げよう。月が落っこちてくるって」

 彼女は眉を寄せた後、おかしそうに笑った。

「月が落っこちてくるなら、どこにも逃げる場所なんてないわ」

 マリーナはその手を振り払った。そして走って自分の小さな小屋に帰った。

 月は刻一刻と彼女に覆い被さるように迫ってきた。海は昼間のように明るく照らされて、波がざざざざ、と喚くように寄せては返った。近付く月に吸い寄せられるのか、海水は急速に増え、彼女の小屋の中まで入ってきていた。ずぶ濡れになりながら粗末なベッドに駆け寄り、敷布の裏の革袋を大事そうに取り出した。

 さっきは「逃げる場所なんて」と強がったが、海の近くはもう危険そうだ、とマリーナは恐ろしくなった。海水はみるみる内に膝まで上がった。

 慌てて外に出ると、『おじさま』がいた。

 空を埋め尽くすほどの大きな月を背に、おじさまがマリーナを待っていた。

「おじさま会いたかった! ここは危ないわ、逃げて!」

「マリーナ、逃げるのはお前さんだ。さぁ、来い」

 マリーナは彼に手を引かれ、小高い岩場までやって来た。そこは入り組んだ洞窟があって街の者は近寄ってはいけない、と言われている場所だった。彼は、手に持った白い眩しい灯りで先を照らし、迷いなく洞窟を進んだ。

 すると突然、明るい場所に出た。洞窟の行き止まりは大きな広場ほどの空洞になっていて、空がぽっかり開いている。見上げると、輝く月がまるでこの場所に溶けて落ちてくるように見えた。


 あぁ、私、きっとここで死ぬんだわ。


 マリーナは静かな予感に、前を行く彼の背を見つめた。繋いだ手は硬く握られている。二人が進む間にも、この岩場まで海水が入り込んでくる。

 おじさまが焦った声で振り返った。

「おい、マリーナ! お前も一緒に帰るぞ!」

「帰る?」

 マリーナは目を瞬いた。彼は岩の暗がりに隠された、花火によく似た銀色の何か大きなものに近寄った。繋いでいた手が離れ、彼女は波に足を流されそうになった。必死に踏ん張る。

「一人乗りの船だが仕方ない。お前は軽いから大丈夫だろ」

「これが船? どこへ帰るの、おじさまのお家?」

 船の外側に並んだ釦を押すと、透明な蓋が開いた。

「あぁそうだ。降格と減給、下手すりゃ解任だが、何とかする。ほれ、急げ、海水が入っちまう。できるだけ、調査地の物は持ち込んじゃいけないからな」

 彼が蓋の中に入り、船の中からマリーナに再び手を差し伸べた。マリーナはその手を取ろうと、必死に海水を蹴散らし、船に近付いた。そして大きな手に引っ張られて乗り込もうとした瞬間。

『侵入者確認 侵入者確認 直ちに船は帰還します』

 海鳥よりもけたたましい声が響き渡り、二人は思わず手を離してしまった。マリーナは後ろに倒れ、尻餅をついた。ざぶん、胸元まで海水がマリーナを包んだ。目の前でゆっくりと蓋が閉まっていく。

「マリーナ! 早く乗れ!」

「でも私……侵入者って」

「お前はそんなこと気にしなくていい!」

 そのとき、船から再び声がした。マリーナは、いつかの女の人の声だわ、と海水に浸かったままそれを聞いた。言葉は全く分からない。

 おじさまが叫んだ。

「うるせぇ! 連れてくって決めたんだ、俺のクビなんか喜んでくれてやる!」

 マリーナは波に揺られながら何とか起き上がり、「おじさま!」と、手に持っていた革袋を彼に向かって投げた。

「お、おい!」

「おじさま。私のことはいいの、ありがとう」

 マリーナは微笑んだ。もうすっかり分かっていた。

 作りの違う服、見たことのない精巧な細工の機械、銀色の丸い船、透明過ぎるガラスの蓋。聞いたこともない、美味しい『ちょこ』や食べ物。おじさまの姿は、子どもの時から全く変わらないこと。自分は彼の年格好に追いついていたこと。おじさまはとても優しい人だということ。

 ――そして彼と一緒にここから逃げれば、足手まといになってしまうことを。


 きっと、一緒に行ってはいけない。


 月がますます輝いて、空からぽたり、と雫を落としそうだった。マリーナを吸い込むように近づいてくる。

「ねぇ、おじさまは、『だあれ?』」

 マリーナは明るい月の下で、幸せそうに笑った。初めて会った時と寸分も変わらないおじさま。トビウオの鱗のように光る服を着た、夜の海のようなおじさまは、やっぱりきれいで大好きだと思った。できることなら一緒に、ずっと一緒にいたかった。

「俺は、マシュだ……! マリーナ頼むから早く、手を!」

 蓋の隙間はほとんど閉まりかけている。しかしマリーナは決して急がず、海水に揺られながら立ち上がり船に歩み寄った。マリーナの頬は熱く濡れたが、すぐに海水に洗われた。

 マシュの手が引っ込んだ。最初から隙間などなかったように、蓋は閉じた。

「マリーナ!」

 マリーナはガラス越しにマシュの手に自分の手を重ねた。船は重く低く振動し始めた。

 だい好きよマシュ、とマリーナは笑った。

「さよなら」

 海水は突然深さを増し、立ち上がったマリーナの首まで上がった。船が白く眩しく輝きを放ち、そして消えた。

 マリーナは同時にどぷん、と海に浸かった。月が海の中でぽたり、と雫を溶かしたように見えた。


          🌑 🌑


 自室のドアが背後で開いた。誰かが勝手に入り込んだ音に、マシュは振り向きもしなかった。ただ、薄汚れた革袋を両手で包んだまま、それを見下ろしていた。

「マシュ」

 ニナが気遣わしげに声を掛けた。

「……」

 彼は答えない。のろり、と海水に濡れた革袋から、チョコや飴を一つずつ数えるように並べ始めた。包み紙はまだ濡れており、コト、と囁くような音を立てる度にデスクにシミを作った。かすかな、海の匂い。

「マシュ、あなたそれを持ち込むために降格したって……」

 彼は何も答えない。ただ、俯いて小さな菓子を見つめるだけだ。ニナは彼の肩に優しく触れ、いつもの調子で言った。

「甘党さん、元気出して。ソーダフロートでも買ってきましょうか?」

 彼は僅かに首を振り、海水に濡れたチョコをひとつ摘まんだ。包みを開け、指を海水に濡らしながら、それをゆっくりと囓った。


 彼の青い瞳の先――丸窓の外には夜の海のような宇宙が広がっていた。



(了)


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