【KAC20219】祖父のソロコーラス

鶴崎 和明(つるさき かずあき)

『青い空は』

 ふと思い出したように言い出したじいちゃんの言葉が、全ての始まりだった。


「圭祐、お前のパソコンで、じいちゃんの歌を一つに纏めてくれんか」


 思わず漏れた間の抜けた声に爺ちゃんは笑うと、その高らかな声を冷たく澄んだ空に響かせた。


「圭祐はそういうのが得意だったろう。やけん、じいちゃんの一人で歌った歌ば合唱のごと纏めてくれんね」


 爺ちゃんは八十も近いというのに、歌が上手い。

 下手の横好きと言いながら、今でも近所のカラオケ大会で出ないでくれと言われるほどには上手で、僕なんかよりも声がよく通る。

 でも、一人で合唱など聞いたことがない。

 一人カラオケやソロキャンプよりもハードルが高い。


「じいちゃん、なんでそんなことをすると?」

「青い空ば、残したかけんよ」


 笑うと丸めた紙のようになってしまう爺ちゃんの顔を見ていると、断る気持ちもどこかへ飛んでいき、気付けばその申し出に頷いていた。




――青い空は 青いままで 子供らに伝えたい


 爺ちゃんから一週間後に渡されたレコーダーをパソコンにつなぐと、合唱という名の独唱が流れてくる。

 それはあまりにも若々しい声で、僕のものよりも遥かに堂々としていた。


「じいちゃん、やっぱり歌上手いよね」

「なんば言いよっとか。じいちゃんば褒めてもなんもなかぞ」


 笑う爺ちゃんに対して、子供の頃に歌わされていた曲の見事さに舌を巻く。

 気持ちの部分かもしれないけれど、僕が歌った頃にはなかったものがそこには在るような気がする。

 ただ、そこに何かもやが広がっているのを感じ、それが僕の物だと分かったときには、爺ちゃんに問いを投げていた。


「じいちゃん、でも、この『青い空は』は先生たちが好きで歌わせるだけで、綺麗好きがすぎるよ」

「そうかも知れんばってん、圭祐がまんか歌いよったとば聞きよったら、なかなかよか歌やったけん、皆で歌いたかったとよ」

「でも、こんなの……」

「まあ、よかたい。年寄りの夢やかね」


――燃える八月の朝 影まで燃え尽きた


「ねえ、じいちゃんの時もこんなだったの?」

「なんば言いよっとね。じいちゃんはそん時小さかったけん、なーんも分からんかった。それに、朝に原爆の落ちたとは広島やかね。こっちに落ちたとは昼前やけん、こん歌とはちぃと違うやろうね」


 続く爺ちゃんの声はやがて終焉を迎えると、次の音声が始まる。

 それは先ほどよりも声が小さく、それでもより整った音程を紡いでいた。


――父と母と兄弟たちの 命の重みを 肩に背負って 胸にいだいて


「よっちゃんは、よう一緒に遊びよったけど、一度も家に連れてってくれんやった。お母さんとお父さんのおらんとば気にしとったとやろうね」

「どうして」

「聞いとったとは、原爆ん時にたまたま出かけとって、おらんようになったらしか。爺ちゃん婆ちゃんに育てられとったばってん、中学校ば出てすーぐ働きに出たとよ」


 そん後はどがんしたとやろうか、そう言った祖父の目は潤いに満たされており、どこか切なくて、どこか豊かなものであった。


――あの夜 星は黙って 連れ去っていった


 また別の音声ファイルを開けると、今度はやや高音で紡がれていて少しだけ耳につく。


「あの日やあの夜に連れ去られんかった人たちも大変やったとよ」

「でもじいちゃん、生きてたんだから」

「みよちゃんのお母さんは顔に大きか火傷ん残っとって、だいぶ気にされとった。年ばとってから、近所ん子供が『バケモン』言うたとば聞いた時には、じいちゃんも怒ったとよ」


 僕は爺ちゃんが怒ったところを見たことがない。

 笑いながら話す爺ちゃんだからこそ、その言葉が重しとなるのかもしれない。


 爺ちゃんは次々と収められた音声に人の名前を充てていく。

 それは爺ちゃんが小学六年生の頃の級友たちであり、四五個の機械的につけられた名前は、やがて人名と調整の在り方に変えられていく。

 同じ歌い手に依りながら、その一つ一つが命を持っているようであり、その一つ一つが語りかけてくるようであった。


――全ての国から いくさの火を消して


「でも、じいちゃん、戦争がなくなったわけじゃないよね」


 僕の問いかけに、爺ちゃんは手許のお茶を啜ってから穏やかに答えた。


「そうやね。無くなってほしかと思っても、なかなか無くならんね」

「なら、こんなの嘘じゃないか。今だって、いつ戦争が起きてもおかしくないんだから、戦争を失くそうなんて綺麗ごとで……」


 偽善じゃないか、と言おうとして爺ちゃんの穏やか顔に止められる。

 口の動きは音を伴わず、物言わぬ視線が雄弁に語る。

 芋けんぴを一つ口にした爺ちゃんは、また、さっきと変わらない口振りで続けた。


「そがん難しか言葉ば圭祐もよう知っとうね。確かに、気持ちだけで戦争ののうなったらよかことやけど、そがん上手うもういかんとも現実やね。兵隊さんのおらんかったら、戦争で守ることもできん。そいはわかっとうとよ、じいちゃんも」


 兵隊さん、という言葉がどこか優しい。

 それは機械の向こうの歌声と同じように明るく、そして生々しい。


「ばってん、守る支度ばするとと戦争の無くなってほしかと願うことが一緒にあったらいかんなんてことはあるやろうか。まんか事かもしらんけど、偽善のあっとやったら『偽悪ぎあく』もあるかもしらん。そがん人に少しずーつ届いて、少しでも力になればよかとじゃなかね」


 僕が習わされてきた平和への在り方は巷に溢れる「真実」によって上書きされ、いかにも賢しらな仮面が心の中に掲げられている。

 爺ちゃんの言葉はいかにも牧歌的で、しかし、それは大地を掘り進む土竜のように酷く力強いものであった。


――平和と


「くにちゃんは平和のために動かんばて言うて、学生運動に入ってから仲間ば殺めよった。ほんによか考え方が一つあればよかとかもしれんばってん、そがんなっとらんとが人生たい」


 他の歌声よりも二拍ほど遅れたその歌は、いかにも力強い。


「それで、その人はどうなったの」

「塀の外に出てきてから、別ん人に命ば奪われた。そがんとばっかりたい」


――愛と


 弾けるような歌声を前に、爺ちゃんの目は遠くを見据えていた。


「くみちゃんは東京に出てから、よかとこの男ん人と結婚する予定やったとよ」

「予定だったって、何かあったの」

「向こうのご両親から反対されたとよ、原爆病の移る言われて」


 部屋の隅に並んだ本の一冊が、歴史となった原爆の姿を残す。

 もしかしたら、爺ちゃんの目はそこを見ているのかもしれない。


「昔は、大変だったんだね」

「そいが、昔の話やったらよかとけどね」


――友情と


「離れ離れんなって、彼岸ば越えたともおるけど、こん長崎に残されたじいちゃんはもう少しやらんばことのあるとやろうね。じいちゃんは原爆の落とされた時には生まれとって、そいでも、青空しか知らんで、そいでよかったと思っとうとよ。うなかことも悲しかこともあったばってん、そいば孫やそんさきに残したかと思うとはじいちゃんの我儘わがままよ」

「今でも、皆のことを覚えてるの?」

「一緒にきつか時代ば越えてきた仲間たちやけん、忘れるわけなかたい」


――命の輝きを この堅い握手と うたごえに込めて


 全ての編集を終えた僕は、エンコードされていく動画を呆然と眺めていた。

 あの日から微調整を繰り返した爺ちゃんの「合唱」は、夜明けを前にした今、一つの実態を持つものとなりつつある。

 この一週間、自分の時間は全てこの一本に費やされ、何かに憑かれたようであった。

 この歌がどのような意味を持つかは分からない。

 動画サイトに投稿すれば、低評価が大量につくかもしれない。

 それを見ても、爺ちゃんはきっと笑って済ませるだろう。


 ただ、爺ちゃんから引き継いだこの四五の声は、もっと多くの力を持っているのかもしれない。

 すぐに全てが変わるほどこの世界の歯車が急速に動くことはなく、だからこそ、どこかで観察者のような目をした自分の姿が在るのも事実である。

 それでも、老父の背を追いかけるように歩き出した子供と同じく、どこかの誰かが動いてくれるといいな、と思う僕が画面に映っていた。


 遠くの方が少し白み始めた空を眺める。

 今日も青空であることを、僕は僅かに祈っていた。

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