心をまあるく

花岡 柊

心をまあるく

 彼と同棲して三年。初々しさや楽しさは、いつの日か薄れていた。家のことも、お互いに仕事をしているし、できる人がやればいい。そう考えていたのだけれど、結局のところ負担を強いられるのは私ばかりになっていて不満が募る。


 慎一は、仕事から帰ると何もせず。いつもスマホを眺めながらテレビばかり見ていた。私が食事の準備をしていても、掃除をしていても、ゴミをまとめて出しに行っても。殆ど動くことがない。


 今日も仕事から戻ると、私は急いで食事の準備に取り掛かかる。慎一はいつものようにスマホとテレビばかりで、手伝おうとする気さえ起きないようだ。スイッチ一つで沸くお風呂でさえやろうとしない。


「沸いたら、先に入ってよ」


 料理をしながら声をかけると「真希が先に入れよ」と言われてカチンときた。


 食事の用意をしているのに、入れるわけがないじゃない。だったら、慎一が料理をしてよ。


 イライラとして、フライパンをコンロに乗せる音がガンと大きく響く。


「なんだよ。もうちょっと優しくやれよな」


 驚いたようにこちらを振り返る慎一を見て怒りがわく。


 だったら少しは動いてよっ。


「なんで私ばかりが、家のことをしなくちゃならないのよ」


 怒りに任せて訴えてみたけれど、テレビの音量が大きいせいかよく聞こえなかったようで、慎一は眉間にしわを寄せながら首をかしげている。


 私はツカツカと慎一の傍に行き、テーブルにあったリモコンを乱暴に手にしてテレビを消した。


「料理も買い物も。お風呂も掃除も洗濯もっ。全部私だけがやってるじゃん。慎一は、早く帰ってたって、お風呂のスイッチ一つ入れてくれない。私はあなたの家政婦になる為に一緒に暮らしてるんじゃないっ!!」


 頭にきた私は、つけていたエプロンをとって床に投げ捨てた。怒り出した私に驚いて固まる慎一を無視して、ダイニングのイスに置きっぱなしになっていたバッグを引っ掴んで部屋を飛び出した。

 慎一の焦ったような声が聞こえたけれど、私は振り返りもせず夜へと走り出した。


 怒りに任せて部屋を出たあと、駅へ向かってきたのはいいけれど、行く当てなどどこにもない。

 歩いているうちに、さっきまで怒りで上がっていた熱が引いていき、今度はとてつもなく悲しくなってきた。


 こんな風に喧嘩がしたいわけじゃない。少し協力してくれるだけでもいい。いつもありがとうって労ってくれるだけでも違うのに。スマホやテレビじゃなくて、私をちゃんと見てよ。


 再び怒りがわいてきたけれど、頬には涙が伝っていた。


 横断歩道の前で、ぼんやりと信号待ちをしていた。


 慎一は、今頃何をしているだろう。怒っているだろうか。それとも、私を探し回っているだろうか。まさか、またテレビを観ながらスマホをいじっている、なんてことはないよね……。


「落ちましたよ」


 自分にかけられた声だとは気づかずにいると、横から顔をのぞき込むようにしてハンカチを差し出された。


「これ、あなたのじゃない?」


 落ちたと差し出されたのは、真っ白い生地の端に花の刺繍があるものだった。私は、そんな清楚なハンカチなど持っていない。


「いえ、違います」

「あら、そうなの。あなたから落ちたように見えたものだから」


 そう話しかけてきたのは、お婆さんだった。


 こんな夜に一人? 老人が一人で夜の町にいることがなんとなく不自然な気がして、辺りに知り合いがいないかと窺って見たけれど、そのような人物は見当たらない。


「あなた、これから帰るの?」


 親近感のあるにこやかな表情で話しかけられて、帰るどころかついさっき部屋を飛び出してきた私の顔が歪む。


「お腹。空いてない?」


 お婆さんは親しみのある笑みを浮かべ、まるで近所に住む小さな子供を相手にしているように話しかけてきた。


「お隣さんから煮物をたくさん戴いたのよ。一人じゃ食べきれないし。それに、お菓子もたくさんあってね。食べて行きなさいな」


 私を小さな子供とでも思っているのだろうか。もうお菓子を貰って喜ぶような年齢ではない。


 見ず知らずの家に行くこと自体、このご時世ではありえないだろうし。まして、食事をご馳走になるなんてこともありえない。けれど、お婆さんの表情にはどこか懐かしさもあり、親しみを込めた話し方にすんなりと誘いを受けいれられる気持ちになった。

 お婆さんは「絹」と名乗った。


「私は、真希です」


 躊躇うように下の名前を告げると「素敵な名前だこと」と笑みを浮かべる。絹さんは、腰をしゃんとして歩き私を自宅に招いた。


 絹さんはうちのアパートから程近い、昔ながらの木造平屋に一人で住んでいた。老人一人では、家の手入れもままならないのか。玄関先に置かれたままの鉢植えの中には、土と雑草が残っているだけで、以前どんな草木が咲いていたのかわからないものが放置されていた。


「あまりきれいじゃないけど、上がってちょうだいな」


 人が訪ねてくることが嬉しくてたまらないというように、絹さんの声は弾んでいる。


「すぐに用意するから、待っていてね」


 茶の間に通され、座布団を勧められテーブルの前に座る。汚れていると言っていたけれど、けして汚いというわけじゃない。それなりに掃除していることは、整っている物の配置や、置いている物に埃がないのを見ればわかる。ただ、高いところに手が届かないのだろう。床に荷物が置かれたままになっているものがちらほら窺えた。力のない老人一人では、どうにもならないだろうことが多々あるように思えた。

 キッチンの電気がチカチカしているのも、自分では電球を取り替えられないのだろう。


「あら、ごめんなさい。そうよね。気になるわよね。手が届かなくて、そのままにしてしまっていて」


 電球を見ていた私に気がつき、絹さんは少しだけ苦笑いをする。


「さーさ。それはおいといて。まずは、ご飯よ。お腹いっぱいになれば、気分も晴れるわ」


 お盆に乗せた料理を並べながら、絹さんが優しく頷く。まるで、私が喧嘩をして飛び出してきたことを知ってでもいるように思えた。


「ごめんなさいね。実は、浮かない顔をしているあなたのことが、気になってしまって」

「あ、もしかして、落ちていたハンカチって」


 私が訊ねると、絹さんがふふっと笑う。つられて私も同じように笑った。


「お隣さんが、たまに作り過ぎたって言ってたくさんくれるのよ。鈴木さんていうんだけどね、煮物がとても上手なの。食べてみて」


 薦められるまま、煮物を口にした。里芋がほっくりとしていて、味が染みている。


「美味しいです」


 笑みを浮かべて頬張ると、絹さんはとても嬉しそうにする。


「いつもこんな風に、知らない人に声をかけてるんですか?」


 素朴な疑問を投げかけると、絹さんはコロコロと楽し気に声を上げて笑う。


「遠くへお嫁に行ってしまった娘に似ていたものだから、放っておけなくて」

「娘さんは。どちらに?」

「九州なのよ。元気なうちは何度か顔を見に行くこともできたけれど、年を取るとなかなか身体もいうことを聞かないものだから」


 絹さんは少しだけ寂しそうに呟いた。

 その表情は、田舎の母を思い出させた。私が東京へ出ると決めた時、応援してくれていたその陰で、切ない表情をしていたのを思い出す。


「私、一緒に暮らしている彼と喧嘩して、部屋を飛び出して来ちゃったんです」

「あらあら」

「お互いに仕事を抱えているのに、家のことはほとんど私がしてるんです。不満にもなりますよ。先に帰っていても、スイッチ一つでできるお風呂さえ沸しておいてくれないんですよ。挙句、遅く戻ってきた私が急いでせっせと料理をしているのに、自分はスマホやテレビを観てばかりいて」


 私の愚痴を聞きながら、絹さんはうんうんと頷き穏やかな表情をしている。

 絹さんがあまりに聞き上手で、嫌な顔一つしないものだから。私は今までずっと溜め込んできた愚痴を、ここぞとばかりに吐き出していった。


 食事もすみ、絹さんが緑茶を淹れてくれた。


「羨ましいわね」

「え……、喧嘩がですか?」


 私は、情けない笑いを零してしまう。


「喧嘩ができるなんて、心を許し合っているってことでしょう。関心がなければ、怒りもわかないものよ」


 言われてみれば、そうかもしれない。


「うちはね、娘が十歳にも満たない頃に、夫が他界してしまって。私一人に全部を押し付けてって、喧嘩することもできなかったから」


 絹さんは、仏間を振り返りまた私を見る。


 飾られている白黒写真の若い男性は、絹さんの旦那さんなのだろう。とても優しそうな表情だ。


「喧嘩できるなんて素敵なことよ。私にしてみたら、とても尊いことだわ。でもね、喧嘩なんて、しなくていいならその方がずっといい。少しだけ、言葉を足してみたらどうかしら。例えば、帰宅する前にお風呂を沸してくれると嬉しいな。なんて伝えるの。真希さんが喜ぶことなら、彼もきっと快く動いてくれると思うわよ」


 そこで、絹さんが「そうだ」と手を打った。


「年寄りの説教なんてものより。お菓子よ、お菓子。私一人じゃ食べきれなくてダメにしてしまうから、沢山持って帰ってね」


 絹さんは、テーブルの上にお饅頭やお煎餅。クッキーやチョコなどを次々と置いていく。


「こんなに沢山は……」


 テーブルの上に乗る、山になったお菓子を見て絹さんが笑う。


「持ち帰るのも大変よね」


 絹さんは、可愛らしく肩を竦めた。

 そうだ。


「あの、絹さんがご迷惑でなかったら、また来てもいいですか? 今度は、彼もつれてきます」

「まぁ、それは賑やかでいいわね。じゃあ、持ち帰れない分は、またその時に」


 絹さんのにこやかな笑い顔は、さっきまでトゲトゲとしていた私の心をまあるく柔らかいものに整えてくれた。

 喧嘩できることを尊いと教えてくれた絹さんだけれど。絹さんが私という存在に気付き声をかけ、こうしてお家に連れてきてくれたことも同じように尊いと思える日だった。

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