「尊い」の壁
小早敷 彰良
尊いってなに?
チャイムが鳴る。鴻上広瀬は欠伸まじりに教科書を片付けた。
長い授業の時間も終わって、ようやく部活の時間だ。彼は機嫌よく立ち上がる。
今日は新しく買ったシューズを卸す。履き心地も良いうえに、お気に入りのブランドの限定モデルだ。皆に自慢してやろう。
気だるそうな猫背とは裏腹に、彼の心は踊っていた。
ふと、彼は振り向いて、背後の席の同級生に声をかける。
「どしたん、何か用?」
言われた女子はわかりやすく、身体をはねさせた。
「は、え、いや。」
どもりながら、授業中も黒板も見ずに、見ていた鴻上から視線を外した。
鴻上は、彼女のことをほとんど知らない。
名字が甲斐で、漫画とゲームが好きらしいことと、ほとんどの時間見つめてくるくらいしかわからない。
彼女に声をかけたのは、新しいシューズに浮かれた今の勢いなら、よくわからない同級生につっこめると思ったからだった。
「そう?」
色素の薄い彼の目が、じっと彼女を見つめる。
みるみるうちに、彼女、甲斐サキの顔は赤くなっていった。
「ほんとか?」
顔も上げられない様子の彼女を、彼は鼻で笑う。
「何もしないって。それでも無理か?」
返事として勢いよく横に振られる首に、鴻上はほんの少しだけ、傷ついた顔をした。
サキは叫ぶ。
「鴻上くんは無理!」
「そうか。」
鴻上は短く返事をする。
真っ赤になって俯く彼女に、もしかしたら、見られているというのは勘違いで、嫌われているのかもしれない。
そうでなければ、ここまで拒絶するなんてありえないだろう。
彼は心から気まずく思いながら、ひらひらと手を振って、教室を後にした。
残されたサキは机につっぷした。
ぱたぱた、と、足をばたつかせる。
同じ足音を立てて、友人たちが駆け寄ってくる。
「バカじゃないの?」辛辣に由紀は言う。
「いや、予想は出来たでしょ、あんなに見てたら声かけられるって。」冷静なのはコウ。
「まあ、あれは事故みたいなもんでしょ。鴻上くんかわいそう。」そう、華は笑っている。
「だって無理! 話しかけられるとか、ほんと無理!」
「それだけ聞くと、鴻上くんのこと大嫌いに聞こえるけど。」
「はあ? そんな人ありえないんですけど。全人類鴻上くんのこと好きになるんですけど?」
「まじで主語がでかい。誇張しすぎ。」
由紀が霹靂としているのは、サキが何度も同じことを言っているからだ。
「サキ、鴻上くんのこと、好きすぎでしょ。」
「うん、まじで好き。鴻上くん、尊いよ。」
だからこそさっきの失敗がつらいと、彼女はうめいていた。
鴻上のことを「尊い」とサキが感じたのは、5月の連休明けのことだった。
休みボケが抜けきっていない頭に、ぴんと張った背すじが、一瞬比喩でなく、まぶしく見えたのだ。
目をこすり、背中を凝視していると、彼はついっと振り返った。
ばちんと目が合った瞬間、彼はにやりと笑った。
サキがそのとき思ったのは、あ、笑顔が尊いなと、客観視する自分の存在だった。
この人は尊い人だ。そう、腑に落ちた音が、彼女の胸に響いていた。
一度尊さに気づけば、坂道を転がり落ちるように、彼女は鴻上の尊さを見つけていった。
真剣に黒板を見るとき、きゅっとすぼまる口元が尊い。
友達と目がなくなるほど笑うのが尊い。
意外と大きな口で、どんな料理も雑に食べていくのが尊い。
靴が好きなのか、珍しいスニーカーを履いている人の足元を盗み見ているのが尊い。
シャーペンで勉強しすぎて黒くなったり、バスケ部の練習で赤く擦り切れていたり、しょっちゅう汚れている大きな節ばった手が尊い。
「ああ、尊い。推せる。」
サキはため息をついた。
その尊い鴻上にしてしまった反応を思い出す。
彼を前にするといつもこうだ。思い通りにならないこの口を撃ちぬきたい。サキは思いながら、またため息をついた。
「いつも聞こうと思ってたんだけどさ、その尊いってなに?」コウは心から不思議そうだ。
「好きって意味でしょ?」
由紀はいつだって端的に言葉を発する。
「違うと思うよ。」答えたのは華だった。「尊いは違う。単純に好きって意味じゃない。」
「はあ? あれだけ好きって言っといて?」
「好きの同義語ではあるけど、微妙に意味が違うというか。英語だって、LoveとLikeは同じ好きでしょう。」
華は慎重に言う。
「思うんだけど、尊いは他人事で、好きは自分事なんだよ。」
「……感情は自分の中から出るものでしかないのに、尊いは違うってこと?」
「違うって思いたいんじゃない?」
自分の頭上で、友人たちが小難しい話をしているのを聞いて、サキはひしゃげた顔をした。
「華たちの言うことはいつも難しい。」
「同感。」コウが返す。
「でも、さっきのサキはどうかと思うってのはわかる。」
「自分でもわかってるようコウ。」
話しかけられると思っていなかったせいでテンパっていたし、頬には頬杖をついた跡が残っている。
よく考えると、前髪もくしゃくしゃになっているし、唇もがさがさしている。
「鴻上くんに申し訳ない。」
サキは机に突っ伏して悔いた。
「尊い鴻上くんには美しいものに囲まれて、幸せになってほしいのに、こんな姿を見せるなんて。」
友人たちは顔を見合わせた。
「愛が重くない?」
「でも、自分が介在しない世界で幸せになってほしいと思っている。それは愛なの?」
ひそひそと相談する友人たちをおいて、コウが顔を輝かせた。
「あっ、そうだ。なら、かわいくなろう、サキ。」
彼女は自らの名案に得意満面だった。
「鴻上くんの後ろの席なんだし、かわいい人が周りにいたらテンションあがるでしょ?」
サキはぱちくりと目を瞬かせた。
言われてみればそうだ。尊い彼を彩る背景は美しいほうがいい。後ろの席の女子がかわいい方が、彼の生活はマンガみたいに楽しいだろう。
でもなんだか、もやもやする。
「サキ?」
首を傾げるコウと違って、華と由紀は訳知り顔だ。
「尊い彼の背景として、どう思う?」
「由紀、それはきつく言いすぎ。」
「これくらい言わないと自覚できないって。」
彼女たちの言葉はいつだって、サキには難しい。
だからサキは、いつもの通り、自分の気持ちを答えた。
「わからないけど、鴻上くんのためなら、がんばるよ。」
華と由紀が落胆の声を上げ、コウが楽しそうに言った。
「じゃあさっそく、ドラックストア行こう。化粧品とケア用品、試しまくろう。中学んときの先輩がバイトしてて、めっちゃ試供品くれるとこあるからさ。」
サキは、楽しそうな彼女を見て、自分まで楽しい気分になっていた。
鴻上とのやりとりも仕方ない、出来るだけ気にしていないと良いのだけれど、と彼女は祈る。
一緒になって立ち上がる由紀が、疑問を投げかける。
「背景で良いの?」
サキは一瞬だけ立ち止まった。
「自分に自信ないし、鴻上くんの視界に収まっている自分が想像できないっていうか。」
頬を赤らめてもごもごと言うサキに、友人たちはいっせいに呆れかえった。
ここまで言われれば、にぶいコウにも、彼女の言う「尊い」がどのような心持ちか理解できた。
「尊いねえ。」
コウが彼女を抱きしめる。
「推せるね。」「うん。」
二人の友人も何かをたくらんだ笑顔で、サキを抱きしめた。
「こう言っているんですけど、どうでしょう。鴻上くん、尊くないですか?」
抱きしめた形のまま、四人は身体の向きを反転させる。
教室の入り口で、サキが尊いという言葉で気持ちを閉じ込めた思い人が、顔を赤らめて立っていた。
サキは全身の血が沸騰するようだった。
赤い顔の鴻上に、由紀は聞く。
「サキのこと、推せる?」
「推せない。」
鴻上は言う。
「こんなに尊いって言ってくれるかわいい女子は推せない。独り占めしたい。」
歓声をあげる友人に挟まれて、サキはもう、限界だった。
「推しに認知されるとか、無理!!!」
そう言うと友人全員を振り切って、どこかへ走っていった。
残された四人は、茫然と顔を見合わせた。
「とりあえず、嫌われてはいないってことだよな。」
それだけは確定している。皆は頷いた。
「サキは尊いって言葉で逃げないで、ちゃんと好きって言えるようにならないといけないよね。」
今日もサキの友人、華の言うことは難しかった。
「尊い」の壁 小早敷 彰良 @akira_kobayakawa
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