解脱

悠井すみれ

第1話

 江戸の市中で浅草の観音様を拝みに行く、と言えば、男は意味ありげに笑い、女は顔を顰めるだろう。もちろん浅草寺も観音様を祀ってはいるが、この言い回しは浅草裏手の吉原よしわら通いを暗に示している。豪華絢爛に着飾った美貌の花魁おいらんを観音様に喩えたということだ。派手な立兵庫たてひょうごに結った花魁の髪を飾るのは、金銀や鼈甲べっこう、螺鈿細工のくしこうがい。左右対称に挿すかんざしは時に十数本にものぼる。陽が落ちてなお白昼のごとき眩さを誇る吉原の街で、道中に臨む花魁は、なるほど確かに後光を背負っているようにも見えるだろう。




 だが、花魁といえどもただの女なのだ、と。青花楼せいかろうに登楼するたびに辰吉たつきちは思う。美貌と教養で大名とも渡り合う太夫たゆうなど今の吉原にはいないのだ。傾城けいせいだの呼び出しだのと気取った名前で呼ばれてもてはやされてはいても、床入りする時には豪奢な髪飾りも打掛うちかけも脱ぎ捨てるのだから。閨の中ですることは相手が花魁だろうと岡場所の遊女だろうと同じこと。まあ、大見世の花魁なら閨での手管も仕込まれてはいるのだろうが。そのために何両も払う価値があるかというと、怪しいものではないだろうか。


 障子の外が白み始めた。別れの時が近づいているのを悟ったのだろう、辰吉の腕に収まった梅枝うめがえ花魁が、名残惜しそうに彼の肌をなぞった。


「辰さん、次はいつ来てくれえすか」

「どうだろうな……親父がそろそろ身を固めろってうるさいからな」


 ならばなぜ彼が足しげく吉原に通うかと言うと──自腹を切るのはせいぜいが三回に一度だからだ。辰吉はこの梅枝花魁の間夫まぶに収まった。それこそ手練手管を尽くして、擦れた遊女に彼の真心──と見せかけたもの──を信じ込ませた。

 最初は親の金で足しげく通い、馴染みになったところで足を遠のかせる。文のやり取りは欠かさず、時に菓子や小物も送って会えない辛さは仄めかす。ただ、若輩ゆえに花魁にとって上客でないのが申し訳ない、家業で認められたらいずれ必ず──と悔しげに文を綴れば、女のほうからどうぞ来ておくんなんしと誘いが届くようになった。揚げ代は自腹を切るから、それでもどうしても会いたいと言って。辰吉との夜のために身揚げ──遊女が自身を贖うこと──した分の金は、そのまま梅枝の借りになるという訳だった。

 廓勤めで毎夜客に身を任せる遊女は心弱いものだ。惚れた男に会えるなら借金を重ねて年季明けが伸びても構わないと思うらしい。手練手管で男を惑わすはずが、まったく他愛ないものだった。無論、辰吉のほうでもあれこれと心を砕いたし、彼の見た目の良さも大いに影響しているのだろうとは分かっているが。


「そんな。辰さんとの逢瀬だけがわちきの生きがいだというに」

「お前はほかの客にも同じことを言うんだろう? 俺の切なさも分かってくれよ。お前ばっかり辛そうな顔をしてさあ」

「いいえ、辰さん以外にはかようなことは、決して……!」


 くしゃりと顔を歪めて抱き着いてくる梅枝は、道中での盛装したいで立ちを見れば確かに浅草の観音様、に相違ないのだ。眩いばかりの美貌に、禿かむろや芸者を引き連れて。華やかな打掛の裾を高下駄で跳ね上げながら外八文字で優雅に歩く──江戸に出たばかりの田舎者なら、尊い神仏にも見えて、拝み始めるかもしれない。辰吉だって、この女を落せば自慢になると、そう思って始めたのだ。


「辰さん、あの、もう少し──」

「金も払わねえ若造が居続けなんかしたら、妓夫ぎゅうに叩き出されちまう。俺に情けないところを見させないでくれよ。な?」


 だが、深みにみればただの面倒な女だな、とも思う。花魁を愛人にしてやった、と吹聴するのは愉快だし、贅を凝らした緞子どんすの布団で美女と同衾するのも気分が良い。ただ、櫛も簪も打掛も、すべて取り払ってしまえば花魁といるという優越感も薄れてしまう。共に過ごした夜が明けるごとに嘆いてはすがり付く梅枝のことを、辰吉は少し鬱陶しく感じ始めている。


「……次の紋日もんびは七夕でありんしょう? いつも通り、わちきが身揚げいたしいす。だからどうか……牽牛織女を気取らせておくんなんし。そうすればたとえ一年逢えずとも耐えられんしょう」

「馬鹿な。紋日に身揚げなんてさせられねえよ」


 月に何度かの行事がある日のことを、吉原では紋日という。揚げ代が普段の倍になるがゆえに客を通わせるのは難しく、馴染みの客に泣きつくのが多くの遊女の倣いとなっている。それにあえて応じて無理をしてでも気を惹こうという男もいれば、客がつかずに借金を重ねる女も多い。吉原では恋も愛も金でやり取りするものだ。

 だが、梅枝のこの申し出は、遊女の癖に彼を買おうとしているようではないか。彼の心が離れかけているのに勘づいて、過分な献身で引き止めようとしているかのような。


「お前のためなら幾らでも積むってお大尽が大勢いるんだろう? せっかくの旦那がたを粗末にしちゃあいけねえよ」


 手玉に取っているはずの女に虚を突かれた、悔しさのような感情が、辰吉の口調を必要以上に強いものにしたかもしれない。他を当たれ、と突き放されて、梅枝は一瞬目を見開き──そしてすぐに力なく微笑んだ。


「……あい。わちきとしたことがお恥ずかしい。勤めに励まねば主さんにも逢えぬというに」

「そ、そうだろう?俺もいつも悪いと思ってるんだ。お前の借りを増やすばかりじゃ寝覚めが悪い」


 梅枝の指が辰吉から離れていく。それを名残惜しく思う自身に驚きながら、辰吉は必死に殊勝な顔を取り繕った。


「次はちゃんと俺の手で稼いで来るからさ。必ずだ。だから──待っていてくれよ」

「あい、きっと」


 彼自身の耳にさえも、いかにも言い訳がましく聞こえた言葉だというのに。梅枝はこの上なく嬉そうに笑み崩れた。体の良いことを言って、もう二度と会わないための言い訳のつもりだったというのに。寝乱れた後朝きぬぎぬの、ともすれば見苦しいはずの遊女の笑みは、着飾った道中の時のそれよりもずっとずっと神々しく見えた。


 だから辰吉は魅入られる前にそそくさと梅枝の座敷を後にした。




 必ず、などと言ったのはもちろん嘘だ。手元の不如意を口実に、辰吉は吉原通いを止めるつもりだった。身を固めろとつつかれているのは本当だし、女房の目を盗んで遊ぶなら、わざわざ吉原に足を伸ばすよりも江戸市中の岡場所で済ませたほうが手っ取り早い。訪れが間遠になれば、何か妙な期待をしているらしい梅枝も察するだろう。

 事実、恐れていたように梅枝が心変わりを詰るような文を送りつけてくることはなかった。辰吉はそれに安堵し、かつ、遊女はしょせん変わり身が早いものだと嘲った。あの夜明けに見た、梅枝のやけに清らかな微笑をまた見たいと思わないでもなかったが、うるさい繰り言で纏わりつかれるのでは、という億劫さを上回るほどではなかった。だから、あの女の面影も、日々の暮らしに紛れていつしか薄れていっていた。


「梅枝花魁は死にましたよ」


 木枯らしが吹くようになったある日のこと、たまたま市中で行き会った青花楼の若い衆に、こともなげにそう告げられるまでは。


「……いつだ。なぜだ」


 まさか俺が捨てたせいで、とひやりとする辰吉を他所に、その若者は気の毒そうに眉を寄せて首を振った。


「何の病と言う訳でもなかったようですが、夏から秋について急に窶れましてねえ。まだまだ稼げたでしょうに気の毒なことで」


 最後に見た梅枝の笑みが、辰吉の目にありありと蘇った。今思うと、この世のものではない美しさだったような。神々しいというよりは、魂が抜けかけたところを目の当たりにしていたのだろうか。辰吉との逢瀬が生きがいだとあの女は言っていた。ならば、その生きがいがなくなったと悟った時に、生きるのを止める──などということができるのだろうか。


「墓は……?」

越後えちごだったかから売られてきた娘でしたので。親を呼ぶ暇もなくて、例によって浄閑寺じょうかんじに。そう、旦那もついでがあればもうでてやってくださいよ。それで厄落としにまたうちに──」


 気の毒そうな表情のまま、青花楼の若い衆の声はにこやかで語る言葉は軽薄だった。それに何をどう返したか分からないまま、辰吉は吉原のさらに奥、三ノ輪の浄閑寺に向かっていた。吉原で死んだ遊女が一緒くたに投げ込まれる場所へ。


 とはいえ、有象無象の遊女にはひとりひとりの墓もない。辰吉が向き合う供養塔は、梅枝だけでなく数えきれない遊女の霊のためのものだった。だから、彼の言葉が届くかどうかは分からない。そもそも、二度と会う気もなかったのに墓参りなど図々しい。それでも、舌が腐れ落ちそうな思いをしても、言わずにはいられなかった。線香の香りに、聞く者のない呟きが混じる。


「待ってろって言ったじゃねえか……」


 嘘の約束で責める自身を、恥知らずにもほどがあるとは分かっているが。逃げたつもりが逃げられたと知ると、惜しくなるのが人の浅ましい性なのだろう。


 遊女の霊を見守る、本堂の阿弥陀如来像の表情は安らかで穏やかなものだった。罰当たりかもしれないが、最後に見た梅枝の笑みにもどこか通じる佇まいにも思えるような。きっとあの女は、辰吉を諦めた瞬間にあらゆる悩みや憂いを捨てて解脱げだつしたのではないだろうか。あの笑みは、生身の人に浮かべられるものではないような。


 ならば、薄汚い煩悩に塗れたままの辰吉は、たとえ死んでも梅枝には会えないままなのだろう。

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解脱 悠井すみれ @Veilchen

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