「おかえりなさい」
つきの
『ただいま』
もう、日付が変わろうとしていた。
我が家へと向かう帰り道。
ぽつり、ぽつりとともる街灯に照らされて桜の花びらが春の風に揺れている。
もうすぐ残りの蕾も開いて、そろそろ満開になるだろう。
『そういえば』
と彼は思う。
『もう3月も終わるんだな』
こうして家に帰ることにも、やっと慣れた気がする。それでも寂しくないといえば嘘になるけれど。
***
彼女とは幼なじみで、5年とその後の5年の遠距離恋愛を経て10年、やっと結婚したのだった。
新婚旅行から帰って、教会前の小さいアパートで向かい合った時に彼女は
「やっと、こうして一緒の家に帰って来られるのね」
と、幸せそうに笑ったっけ。
それでも皮肉なもので、彼はいつか、彼女のいる生活に慣れてしまった。
仕事の忙しさと人間関係のストレスで、好きだった酒も、楽しむより気分を紛らす為に量が増えていった。
イライラを当たり散らすと、産まれたばかりの息子を抱いた彼女は哀しそうな顔をして俯く。
心配して何か言い返されても、黙ったままいられても腹が立つ。
八つ当たりだとはわかっていた。
朝になれば、申し訳なかったと反省して謝る。彼女は、うんうん、と許してくれた。
甘えていたんだろうなと思う。
育児で必死になっている彼女を気遣う余裕も無いまま、休日返上で働き続ける日々。
***
そんな日の朝、それは突然やってきた。
心筋梗塞。
突然すぎる別れ。
あっけなすぎて信じられなかった。
どうして?もっと気をつけていれば……。
どれだけ後悔したかわからない。
──それでも全ては遅すぎた。
***
ああ……家に着いた。
灯された豆電球が、真新しい仏壇のある部屋に敷かれている布団を照らしている。
そこに、彼女と、まだ幼い息子が眠っていた。
彼は、そっと側に佇む。
もう触れることの出来ない、彼の愛しい家族。
彼女の頬には涙の跡。
『ごめんよ。悲しい夢を見ているんだろうか……』
こうして家に帰ることにも、やっと慣れた気がする。
ほんの少しだけしか、側にはいられないけれど。
それでも、せめて、せめて……。
この彼岸の間だけでも……。
『ただいま』
彼女の寝顔にそっと話しかける。
「おかえりなさい」
聞こえたはずはないのに、彼女は微かに微笑んで、そう寝言をいった。
小さな息子が寝返りをうって、布団を蹴飛ばす。
***
彼岸の一日が始まる。
夜明けの光が、この世とあの世に離れてしまった家族を、そっと包むように照らしていた。
(了)
◆BGM「ただいま」手嶌葵 を聴きながら。
「おかえりなさい」 つきの @K-Tukino
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