【KAC20218】神君カエサルとオクタヴィアヌスの憂鬱

鶴崎 和明(つるさき かずあき)

アウグストゥスとして集めるもの

 共和制復帰宣言から三日後となる紀元前二七年一月十六日、春の陽気に満ちた元老院において一つの提案が議決された。

 それは、エジプト王国との戦いで勝利を収めたオクタヴィアヌスに対し、アウグストゥスの称号を贈るというものであり、これに伴って元老院は国の全権掌握を彼にした。

 ここに、約五二〇年に亘って続いた共和制ローマは人知れず幕を閉じ、帝政という新たな時代を迎えることとなった。


 ただ、これを諦観を以って受け入れ、現実を直視していた男が一人だけ存在した。

 それは称号と全権を授与されたオクタヴィアヌス本人であり、既にローマ帝国内の軍団指揮権を手にしていた彼は安堵と共に重い溜息を吐いてからその日の議場を後にした。

 純白に赤紫の縁取りをしたトガを身に着けた彼は、周囲の喝采を一身に浴びながら、青空の向こうにあるものを見据えるように、一つ冷たく笑った。




 一五年前の年初めに、元老院は彼の「父」であるガイウス・ユリウス・カエサルの神格化を決定したのだが、オクタヴィアヌスの浮かべた冷笑はその日のものに相似していた。

 その時こそ偉大な功績が認められ、ローマを護る神々の一柱として崇められる立場となったのであるが、その「父」を殺したのもまた元老院議員たちであった。

 それを表に出すことを二一歳であったオクタヴィアヌスはしなかったが、居並ぶ面々を見て尊敬など酷く脆いものであることを強く噛みしめることは止めなかった。

 当事者として物事を解決する能力を失いつつある錚々たる顔ぶれを前に、危機感を持って対処しなければならぬという決意はこの時に固まったと言ってよい。

 そこから第二次三頭政治を基にカエサル暗殺に関係のあった者達を排除したオクタヴィアヌスは、肩を並べるレピドゥスを排し、今、最大の難敵であったアントニウスさえも葬るに至った。

 対抗ができる存在などなく、それこそ他国であれば王として君臨し尊敬を一手に浴びる者と成れたことであろう。


 しかし、その絶対的な力を手にしたオクタヴィアヌスはカエサルの副官であったプランクスに一つの想いを打ち明けた。


「私は今の特権を返そうと思います」


 それに驚いたプランクスは思わず声を上げたが、その時に浮かんだ彼の穏やかな表情にその奥底にあるものを見たような気がした。


「私は『父』とは異なります。やはり多くの方が支えなければ、この国は立ち行かなくなってしまいます。私一人が全てを持っている現状はよろしくありません」

「そうですか。非常に残念ですが、それがローマのためということであれば、仕方がないことなのでしょう」


 プランクスは小刻みに震え、その身を固くする。

 オクタヴィアヌスの言葉の裏にあるものが見えてしまっただけに、彼は己が身を護るためにも頷くより他になかった。


「しかし、貴方はカエサルによって指名された息子なのです。このローマのためにどのように働かれようとお考えなのですか」

「もちろん、必要な仕事をしていくことは変わりません。それこそ幹のように在るつもりです。ただ、その幹をどのように束ねるか、それだけは少し思案しているところなのです」


 少し寂しそうな表情をする時、オクタヴィアヌスの整った顔がより蠱惑的なものに映る。

 まだ少年として表舞台に立ってからというもの、時に垣間見せるその表情はプランクスを彼の庇護者に仕立て上げる。

 カエサルとは異なるものではありながら、自分の存在が不可欠であると思わせる魔法のような感覚が、この時のプランクスには満ちていた。

 そこで、彼はオクタヴィアヌスと語らい、彼に一つの呪文をかけることを提案した。

 その提案はやがて形となり、称号となって彼の首に掛けられることとなった。




 言われた通りの呪文をかけられたオクタヴィアヌスは、護られながら帰る中で何度となくその言葉を浴びせかけられる。


 アウグストゥス――尊厳者。


 一見すると何の権力も持たないその言葉は、しかし、ローマの内乱を鎮めたという実績と集めた様々な権力と元老院の第一人者という肩書によって絢爛な白馬のチャリオットにも劣らぬ輝きを見せる。

 その輪の中心で市民に手を振る青年は、穏やかな笑みを崩すことなくその歓声に冷ややかな目を向けていた。


(果たして、私が持った尊さという称号は私を護る鎧となるのだろうか)


 舗装された道から伝わる石の固さが靴を通して伝わってくる。

 一歩踏み出すごとに広がるものを感じ、それだけで天が今にも落ちてくるような錯覚に陥る。


 その時、視界の端で一人の老人が躓いたのを認めた。


「警吏よ、手を貸して差し上げなさい」


 一人がその老人の手を取って起こすと、オクタヴィアヌスはその場に跪き、老人の視線に合わせた。


「お怪我はありませんでしたか」


 その様子を見た観衆が、さらなる歓声をオクタヴィアヌスに捧げる。

 それに目を丸くした彼は、しかし、それと同時にアウグストゥスという尊称を提案したプランクスの妙に舌を巻いた。


 尊ばれる存在とは、ただそこに在るだけではなく自らもそれを求めねばならぬ。

 カエサルのように死後に尊ばれるのではなく、うつつに在って尊ばれるにはこの歓声を誰よりも浴び続けねばならぬ。

 老人からの礼に自分へとかけられたものの重みを実感したオクタヴィアヌスは、等しく並ぶ市民の中に在って満面の笑みを浮かべた。

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