ダンデライオンの憂鬱
藤咲 沙久
先生、書いてください。
僕にはファンと呼べる読者がいない。同じ境遇を分かち合える仲間など、もっといない。
「そんな馬鹿みたいにいじけないでください
先日顔を合わせたばかりの新担当は、まるで旧知の仲のような軽さで僕の愚痴をあしらった。次回作の打ち合わせだと言い決して小さくないノートパソコンを背負ってくるだけあって、逞しい女性だ。
貶してはいないが、褒めてもいない。正直まだ僕も距離感を測りかねている。
「もう少し優しく慰められないのか、カバ君」
「初対面の時にも言いましたけどね、私この
カツカツ、彼女の短く整った爪がキーボードを押し込まない程度に叩く。
ふん、苗字がなんだっていうんだ。まだ今後変わる可能性があるじゃないか。さすがに口には出せなかったが、チラと視線だけで確認すると彼女の薬指はまだ空席だった。
「とにかく、僕は駄目なんだ。筆が進まない。筆なんぞ使ってはいないが」
「知ってたけど面倒くさい人ですね。何をそんなにメンタルやられることがありましたか。次もウチから本出しましょって言ってんですよ?」
「君は存外口が悪いな」
本が出せる、それは有り難い。大変光栄な話だ。でも次までイマイチに終わってしまったらどうする。恐くてたまらないじゃないか。
僕は散乱させた白いままの原稿用紙の上にペンを転がした。なにも今時、手書き原稿というわけではない。これは草案をメモするためのもの。いわば作家らしい雰囲気作りで使用している。
「デビュー作がたまたま、そこそこ、ほどほどに注目されただけだった。僕はそこで終わってたんだ。次もその次も売上並びにアンケート結果が良くはなかっただろう、もう
春風、なんてわざわざつけたペンネームに聞こえるが本名だ。まったくもって僕には似合わない名前。カバ君にも負けず劣らずだと思う。だが僕はこんな野暮ったい外見にそぐわず恋愛小説家なので、表紙に並べ易いのだけが救いだった。
いや、僕の名前なんてものは別にいい。問題は作品の人気が薄いことだ。可もなく不可もなく、ヒット作が出せていないという意味では不可に近い。
「よく喋る物書きだことで。だいたいそれ、今回から先生の担当編集者になった私に言います?」
「そうだよカバ君。そこだ、担当が変わった。僕のデビューを世話してくれた
「公英です。あれはただの人事異動ですよ」
人事、異動。確かに春はそんな季節だ。それでも別れを告げられるのは大変心が辛かった。あまりにも辛かったので、いつかこの感情をモデルに失恋物を一本書き上げられるのではないかと思うほどであった。
先生、原稿偉いですね。先生、絶対食事だけは抜かないのすごいですね。先生、息抜きの天才ですね。先生、先生、先生……。百合根君の優しい笑顔が脳裏に浮かぶ。時々何かしら刺があった気がしないでもないが、彼に限って悪意などありえないだろう。
「彼は誰の担当に変わったんだい……」
「百合根は文芸から少女漫画部門に行ったんです、今話題の『花とミチル』を掲載してる編集部ですよ羨ましい。私だって
「ほら君だって僕みたいな沈みかけの泥舟は御免だと思うんだ」
「とりあえず先生に友達がいない理由はよくわかりました」
打ち合わせが進みやしない、とカバ君がまたカツカツと音を鳴らす。どうやらそれは彼女の癖らしい。ちょっと急かされている気持ちになる。なるだけだ。
原稿用紙をひっくり返して、僕はペンでぐるぐると落書きを始めた。カバ君がまた爪先を揺らしながらこっちを見ている。
「僕を励ましてくれるのはもう、タンポポの君だけなんだ……」
「タンポポの君? なんですかそのダサい呼び名」
カバ君がピタリと指を止めて聞き返してきた。いいだろう別に、源氏物語みたいな感じがしてお洒落じゃないか。
「僕が小説投稿サイトのユーザーでしかなかった頃から、欠かさず感想をくれていた御仁でね。
「可憐な女性……って。会ってもないのに、どうしてわかるんです?」
「会ったことくらい」
「ありませんよね」
「……くっ、確かにないが。でも感想を綴る豊かな語彙と繊細な表現、文字の丁寧さ、どれをとっても可憐な女性だろう。これで筋肉質な男なぞ出てくるものか。カバ君もそう思わないか?」
「き・み・え。というか、いるじゃないですか熱烈なファン。アマ時代からの追っかけなんて」
ファンだなんておそれ多い! 思わずそう声をあげると、カバ君はよほど驚いたのか少し肩を跳ね上げた。マスカラで飾った睫毛をパチパチとさせる様は、やや幼くも見える。
そういえば歳はいくつなんだろう。実は顔合わせの際、百合根君がいなくなるショックできちんと話を聞いていなかったのだ。名刺ももらったはずだがどこかに片付けてしまったので、僕はカバ君の名前がどんな漢字で書かれるのかも覚えていない。
そうやってふと思考が寄り道したせいで言葉が止まり、カバ君から不思議そうな視線を向けられてしまった。僕は咳払いをひとつして、改めて口を開いた。
「彼女は僕に温かい言葉を投げ掛けてくれる唯一の
本音を言えば、そこだった。僕が恐いのは女神であるはずの彼女だ。タンポポの君から相手にされなくなるのが恐い。しかし書き続けないと、それはそれで彼女が離れていってしまうかもしれない。ああジレンマ、ジレンマ。
どうすれば喜んでもらえるだろう。彼女の心を打てるだろう。ついそんなことを考えて構想に迷いが出る。もちろん売上やアンケートだって恐い。恐いものだらけだ。
「綿貫先生は、読者に怯えすぎなんですよ」
突然、先ほどまでよりほんの少し声を柔らかくしてカバ君が言った。僕は原稿用紙の裏に落書きする手をなんとなく、止めた。
「……怯え」
「そう。先生のデビュー作は同人作家時代、もう読者からのリアクションを気にするのは疲れたとブチギレながら書き上げてサイト投稿した一本だった……と、風の噂に聞きました。それでいいんです」
ウッと喉が詰まりそうになった。一度だけ、確かに一度だけキレた。キレて書いた。でもそれは投稿後の後書きに記した内容のはず。よくそんな噂が出回ったものだな。
これは僕を担当するにあたり、編集として調べたのかもしれない。中々仕事熱心な女性だと思った。
「そ、そうはいくものか。それにまだ新人みたいな僕が好き勝手書くことは編集部が許さないだろう」
「でも先生は臆病です。先生にとって好き勝手だと感じるくらい、編集としての許可範囲内です。安心してください、綿貫春風先生は立派な小心者ですから」
「褒められているんだろうか……?」
褒めてますとも、とにっこり笑われた。言葉自体はさほど丸くなかったが、少なくともその笑顔に刺は感じなかった。
「それに先生はその名前みたいに、春の風がごとく優しくて爽やかな作品を書かれます。私は……嫌いじゃありませんよ」
「キミエ君……」
「公……あ、はい公英です。ただあれですよ、ダメ出しはしっかりさせて頂きますからね」
春の風がごとく。古風にも思えるその言い回しは、僕の胸に大変心地よく感じた。そしてそのフレーズに覚えがある。
自分の名前が嫌いなことは変えられないが、わずかに心を救ってくれる、温かい表現。僕はそれを知っている。
「……昔、タンポポの君にも同じようなことを言われたよ。作風が名前によく合っていると」
「そ、そうですか」
「君はこんなに逞しく口も悪いが、彼女と同じような感性の持ち主なのかもしれないな」
おっと、一言二言多かった。最初と違ってポジティブな感情から出た言葉ではあったが、せっかく寄り添ってくれた相手に対してさすがに失礼だったと唇を押さえる。
キミエ君を見ると、なんとも言えない複雑な表情をしていた。物書きの端くれたる僕が言い表せないのだから、それほどということだ。
「……先生」
「なんだ」
怒られるだろうかと少し身構える。そんな僕のことをしばらく眺めてから、キミエ君がひとつため息をついた。
「私、
「知っているぞ」
「蒲公英なんですけど」
「だからなんだって」
「……綿貫先生、やっぱり馬鹿なんです?」
「君はやはり口が悪いな」
カツン! 異議を申し立てるようにキミエ君がキーボードを叩く。今度は急かしているというより、拗ねているような音に聞こえた。そんな、憂鬱な響き方だった。
「はい、いい加減に仕事の話しましょ! それにタンポポの正体なんて気にしなくてもいいじゃないですか」
名乗るに名乗れなくなってるのかもしれない、どうせ彼女も臆病者ですよ。なぜかやや怒ったようにそう言って、キミエ君は大変速い指使いで何かを入力し始めた。反論を許さない雰囲気だった。僕は仕方なく原稿用紙の表を向ける。文字を書くためだ。
僕にはファンと呼べる読者がいない。同じ境遇を分かち合える仲間など、もっといない。
だが、キーボードを爪で叩く癖のある気の強い編集者なら、傍で口悪く励ましてくれるようだ。
ダンデライオンの憂鬱 藤咲 沙久 @saku_fujisaki
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