ただ咲いている桜の下で

小里 雪

ただ咲いている桜の下で

「だからさ、なんで一人で行かないんだよ。絶対電車で行った方が早いじゃん。どうしてきみがお祖母さんの家にお使いに行くのに、おれが車を出さなきゃいけないんだよ。」


「いいじゃん。どうせあんた暇でしょ。おばあちゃん、足が悪くてさ。こないだ私が代わりに古本屋で買ってきた本を届けなきゃいけないんだよね。これたくさんあるし、すごく重いんだよ。それに、私ぜんぜん急いでないしね。今日中につけばいいし。信号、青になったよ。」


「なんでおれが暇だってことがきみに分かるんだよ。だいいち、おれ明日までにレポート書かなきゃいけないんだからさあ。」


「でも、『夜、帰ってきてからでもたぶん間に合うな』って目算があったからちゃんとこうやって来てくれたんでしょ。あんた賢いしさ、そういう打算は絶対してるし。」


「打算じゃねえ。物事に優先順位をつけるのは当然だろ。きみのお使いの手伝いよりも、バイト先の女子高生から勉強を教えて欲しいって言われたら、そっちを優先するよおれは。ああ、また右折で詰まっちゃってるよ。左車線にいればよかった。」


「ゆっくり行こうよ。左は左でバスが停まったりするし。どうせ橋本の五差路のところでどん詰まりになるしね。っていうかさあ、あんたが無邪気に優先順位の無矛盾性を仮定して話してるのがちゃんちゃらおかしいんだけど。」


「ああ、あの五差路なあ。でも知らない裏道に行って変な所に連れてかれたらたまったもんじゃないから、このまま国道十六号で行くか。まあ、そりゃあそうだな。優先順位を決める要素は多次元で、どれに重みをつけるかなんて恣意的なもんだからな。」


「ふふふ。さらにさ、私はその『女子高生』の実在も疑っているよ。いたとしてもさ、あんたみたいに理屈っぽくてめんどくさい人に勉強を教えてもらうなんていうイベントが発生しそうなくらい親しくなってるなんて、まあありえないよね。桜、きれいだね。天気もいいしドライブ日和だよ。」


「あーもう。確かにバイト先に女子高生いるけど、仕事の上で必要な会話以外、話なんてしたことないよ。きみが正しいです。まあ、なんだか『女子高生』っていう単語を記号として使っちゃったなあ。その記号が暗黙のうちに含む悪意のようなものについて、おれは無自覚だったよ。反省する。ちょっと窓開けようか。」


「そうだね。前のトラックどっか行っちゃったし。うん、国道の上でも春の匂いがするね。本来、『女子高生』は記号だよ。『女子高生じゃないもの』と区別する役割を持つだけのね。ただ、その記号の表す対象シニフィエが高校に在学している女性という素朴な集合じゃなく、その当人にとって好ましくない意味を帯びてしまってるのは間違いないよね。ちょっと前までその当事者だった私も、それで嫌な思いを何回もした。」


「『色のない緑色の考えが猛烈に眠っている』みたいな文章でも、何かの暗喩ととらえれば意味をこじつけられるしな。桜の葉っぱはまだ出てなくて、その緑はまだ色づいていない。そして乱舞する花びらを支えるために今は深く深く眠りについている、みたいにね。ただ、素朴なシニフィエと意味を押し付けられたシニフィエが同じ表現シニフィアンで表される場合、その対象はもう前と同じじゃいられなくなっちゃうのかもな。」


「うわー。今考えたの? それ。それだけ意味づけしてくれたらチョムスキーも満足してくれるんじゃないかな。やっぱりすごいねあんた。そうなんだよな。桜はこの時期に咲く淡紅色の花弁を持つバラ科の木本もくほん植物なのに、私も、多分この桜を見ているどの人も、それに別の意味付けをしている。桜はただそこで咲いてるだけなのに。」


「実を言えば、正確には今考えたんじゃないんだよ。前にこのチョムスキーの話を聞いたときに、自分なりに何か意味付けしようと必死に考えた。それを、いま窓の外にある桜でちょっとアレンジしただけ。桜はただそこで咲けるけれどね。人はただそこにいるだけというわけにはいかないから。やっぱりおれ、ちょっと無神経だったな。もうちょっとことばを丁寧に扱わないといけないよな。無神経にことばを使って、そこに貼り付いた意味について無自覚でいると、おれの認知が歪んでしまう。それどころか、その対象にまで影響が出てしまうことも珍しくない。誰かや何かに誠実でありたいと思うなら、ことばを吟味しないといけないよな。ごめんな桜。きみは美しいとありたいと思ってなくても、美しいからさ。きみはそこで咲いてたいだけかもしれないけどさ。」


「代名詞。」


「ん? 何のこと?」


「私と、桜に対して、同じ代名詞を使った。別に嫌じゃないよ。根拠はないんだけど、あんたが『きみ』って呼ぶときに、それが表す目の前にいる人という意味以外にかすかに貼り付いてる意味が、私は結構好きかもしれない。やっと五差路抜けたねえ。これで少しは動くかな。」


「親とか、弟に対しては照れくさくて二人称代名詞を使わないな。自分ではあんまり意識してなかったけど、おれが『きみ』って口に出すとき、確かに相手に対して好感を持っているような気がする。走り始めると脳のリソースをそっちに取られるから、さっきみたいな気の利いたたとえ話とかできなくなりそうだけど。」


「ごめんね、いつも『あんた』呼ばわりしちゃって。」


「実はさあ、おれ、きみにそうやって呼ばれるの結構好きなんだよな。確かにきみの『あんた』は、その対象であるおれ、という意味以外の何かをグイグイと押し付けてくる感覚はあるんだけど、なんていうか、きみの中にいるおれと出会うのは楽しい気もするし、きみがおれの中に意味を見つけ出そうとしてくれていることそのものが嬉しかったりするし。変態かなおれ。まあ、ムカッと来てひどい言い方しちゃうこともあるんだけどさ。」


「よくしゃべるね。あんたほんとに運転にリソース割いてる?」


「あ、今、来た。ムカッと。」


「三つ先の信号。いまバスが曲がってるところ。あそこを右折ね。」


「スルーかよ。」


「あんたの運転を心配している私と出会っただけだ。そう言えば、今日、音楽もラジオも一回も聞かなかったね。」


「きみとの会話は、ものすごくリソースを食うんだ。運転と、会話だけで精一杯。音楽やラジオの音が入ってくる余裕なんてないよ。」


「私も別にほかの音が欲しいとも思わなかった。でも、しゃべり疲れたからちょっと眠くなっちゃったよ。」


「おい! おれきみのお祖母さんち知らないからな。寝たらたどり着けないぞ。」


「分かってるって。ふああ。眠いけど頑張るよ。ああ、ここも桜だ。ここに咲いてるだけの桜。咲いているだけの桜に、今日、また新しく意味が貼り付くようになったな。」


「そうやって人は世界を世界のままで感じられなくなっていくのかもよ。」


「たぶん、もとから人は世界を世界のままでなんて感じられないんじゃないかな。私たちは見て、聞いて、触れて、嗅いで、味わうけれど、それはことばによって意味づけられて結合している。私は桜を見るたびに、桜を見なくても、ことばと世界に対するあんたの誠実さをきっと思い出すよ。ああ、もうかなりきつい。眠気が。そこの標識を左に曲がったところに時間貸駐車場があるからそこに入れて。」


「はいよ。ああ、花びら入って来たね。」


「うん。この桜の見え方の方がずっといい。今までのより。」


「はっはっは、ほとんど目、開いてないじゃん。ほんとに見えてるのかよ。さあ、着いたよ。って、一瞬で寝たのかよ。」




「キスした?」


「した。」


「なんで。」


「寝てたから。」


「理由になってないよ。」


「おれも、貼り付けたくなった。桜に。意味を。」


「歪んじゃったね。世界。ごめんね。」


「ごめんね。どんどん、ただ咲いてるだけじゃなくなっちゃうね。」


「あんたに謝ったんだよ。桜にじゃなくて。」


「知ってるよ。」

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