目眩 六
突然、足元が崩れた。
それは、りえを飲み込んでいた龍が崩れたせいだとわかったのは、空中に放り出され、尾の先から崩れる龍の姿を目の前にしたからだ。
「ひぇっ」
指輪をぎゅっと手のひらの中に握り込む。
悲鳴も喉につかえて出てこないくらい驚いたが、しかし、恐怖に硬直したりえが地面に叩きつけられる参事は起きなかった。
まるで水の中にゆっくり沈むように、ゆるゆると穏やかに下降していく身体。
指の隙間から、赤い糸がこぼれた。
指輪に結びつけられていた赤い糸は雲の上へと続いて、その先を見ることはできなかった。
りえは足の先から、すとん、と着地する。
「お見事です」
「……風渡さん?」
地上でりえを受け止めたのは、胡散臭い笑みを浮かべた黒いスーツの男だった。
りえが戻ってきたのは、あの金魚の木だ。赤いチェックのビニールシートに、逆さまのてるてる坊主も、空の弁当箱もそのままだ。まるでさっきまでのピクニックの続きのような。
見上げれば、龍の姿はほとんど崩れていた。
剥がれた鱗が落ちてくる。しゃらしゃらと音をたてて降る鱗。嵐のような、鱗の雨だ。
「無事に龍の中で指輪を見つけられましたね」
「ひどいですよっ、いきなり私一人でなんてっ」
風渡の顔を見た途端、雇い主の無茶ぶりに怒りが込み上げてくる。ぷんすか怒るりえに、風渡はまぁまぁと宥めるように、ビニールシートに座らせた。
「あら、お嬢ちゃん一人でやるじゃない」
横からするりとのびてきた白い腕は女のものだ。
風渡の隣に依頼人の女の姿を見つけて、りえは目を見張った。
前に会った印象のまま、派手で少し時代遅れの感じがする赤い女だ。彼女はりえが握りしめていた指輪をつまみ上げた。
指輪には、まだ赤い糸が繋がっている。女はそれをまじまじと見つめていた。
「……確かに、あたしの指輪ね」
女は甘い匂いのする煙草を吹かした。
「昔ね、こうしてピクニックしたのよ」
左手に戻った指輪を眺めながら、女は呟く。
「途中で雨が降ってきてね。木の下で雨宿りして、お弁当を食べて、二人で雨を眺めて、てるてる坊主を吊るしたの」
自分自身に語りかけているような女の言葉。そもそも、なんで女がここにいるのか問うべきなのだろうが、なにしろ空から落ちてきたばかりで、りえもだいぶ動揺していた。おとなしく女のとりとめない思出話に頷くしかない。
「ねぇ、喉が乾いちゃった。クリームソーダない?」
「えっ?」
女が突然言い出して、りえは困惑する。
「あたし、クリームソーダが好きなの」
用意できるわけもなく、困って眉を下げるりえに、女はカラカラと笑った。
「よく旦那にも君は気まぐれすぎるって怒られたわ」
女はずいっと顔を近づけた。その赤い唇が、艶やかに光る。
「あなた、なんだか金魚みたいね」
「はい?」
やはり女の言葉は突発的だ。翻弄されるりえは目を白黒させる。
「あら、かわいいって意味よ」
女はりえに煙を吹きかける。
「あたし、金魚って好きなの。小さくて、しっぽを振って、口をパクパクさせて、エサを食べるのにも泳ぐのも、すべてが一生懸命に見えてね」
「はぁ」
「口元に持っていくと、なんでも食べちゃうのよ。食いしん坊なのね」
「はぁ」
女の話しはあっちにいったりこっちにいったり、つかみどころがない。風渡は隣でニコニコしているだけで、会話には入ってこない。結果、りえが一人で女の話し相手になっていた。
「あら、雨が止んだわね」
女の声につられてりえも空を見上げると、鱗の雨の最後の一片が、消えた瞬間だった。もう空には龍の影も形もない。
どこまでも続く草原に金魚がゆうゆうと泳いでいる、あの光景に戻っていた。
「……そろそろ行こうかしら」
女はポツリと呟いて、風渡をまっすぐに見た。女の顔を風渡は見つめ返す。
「では、切ってよろしいのですね?」
風渡の問いに、女は頷いた。すっと指輪の乗った左手を差し出す。
「この指輪ね、結婚するとき願掛けしたの。あの人と出会った神社でね。ずっと離れないようにって」
でも、もう終わりにしましょう。
女は赤い唇を三日月に歪ませると、煙草を捨てた。
風渡は女の正面に立ち、音もなく刀をひと振りする。
赤い糸が、するり、と外れた。
糸はそのまま、地面に落ちる。
どこにもない繋がらなくなった赤い糸。
女はわずかに憐れみのような慈しみのようななんとも言えぬ顔をすると、糸の切れた指輪をりえに放ってよこした。
「えっ?」
慌てて指輪を受け取ったりえに、女は笑う。
「それ、あげるわ」
「え、でも?」
困惑するりえに、女は、指輪はひとつでいいのよ、と手を振った。
いつの間にか、女の左手には再び指輪がはまっていた。しかしりえの手のひらにも、同じ指輪がある。
りえは首をかしげて、そういえば、捨てるために自分が持ち込んだ紳士の指輪を思い出す。あの人懐こい金魚に食べられてしまった指輪だ。
「もう行くわ。ありがとう」
その言葉と同時に、女の姿が変わる。
それは、赤い金魚だった。屋台の金魚すくいにたくさん入っている、小さくてかわいらしい一匹の金魚。
さよなら、と女の声が金魚の口からこぼれた。
赤い金魚は尾ひれをなびかせて、空に向かって泳いでいった。
うっすらと透ける腹には、銀の輪が光っていた。
それは指輪を飲み込んだ金魚だった。この世界に存在する二つの指輪の片方、捨て去られることを望まれた指輪を腹に抱えて、金魚は泳ぐ。
そして、木のまわりに泳いでいたたくさんの金魚の中に紛れて、どれがもう、あの女であったのかわからなくなってしまった。
「お疲れさまでした」
風渡の声に、りえは自分が桜の木の下に戻っていることに気づいた。
「あの人は……」
女の姿はない。
静かに首を横に振る風渡に、りえはもうあの彼女と二度と会うことはないのだと理解する。赤い女は金魚になって、あの目眩の世界に行ったのだと。
もう、すっかり夕暮れだった。赤から藍のグラデーションは一瞬の鮮やかさで、濃黒の夜の色に空は染まっている。
闇に赤く光る煙草の火。風渡が吹かしていた煙管は蛍のようにゆっくりとした緩急を持って明滅し、それはまるで蛍のようだった。
「彼女は、店にいらっしゃった時点で、もうこちらの方ではありませんでした」
風渡はりえの顔を見て苦笑した。
「あのお二人を無理矢理繋ぎ止めていた縁の糸は、断ち切りました。お二人とも、もう自由ですから、そんな顔をしないでください」
「縁の糸って、あの赤い糸のことですか?」
ええ、と風渡は首肯する。
するり、と赤い糸が風渡の手からこぼれ落ちた。切れた糸の切れ端だった。
「しかしこれは、もう繋がる先のない縁です」
指輪に結びつけられていた赤い糸。どこからともなくのびていて、りえを導いてくれたようにも思える。
「りえさんは、龍の中で指輪を見つけたでしょう」「はい。なんか、黒い糸がこんがらがっていました。絡まりをほどいたら、中から指輪が出てきて……」
「それが、指輪に無理矢理結びつけられていた縁です。縁結びといえば本来悪いものではないのですが、今回のはややこしい状態でしたね」
風渡は、女に渡された指輪を見下ろす。
「指輪とは縁の象徴。なにかとなにかを繋ぎ、ある意味、繋がれたものを拘束するものでもある。この指輪は、そういう力が込められている。本来、繋がらなかった縁を、無理矢理に繋ぎ止めてしまうほどの」
それは、あの紳士と彼女の事であろうか。
「あの縁は、本来繋がるものではなかった。それが無理矢理繋げられた為に、こんがらがって悪影響を出していたのですよ」
「それを、風渡さんが切ったんですか?」
「そうです。指輪を起点に術がかけられてしましたから、これを切ることで、悪縁を断ち切ったのです」
風渡の、悪縁という言葉に、りえはなんとなく悲しい気持ちになった。ピクニックの思い出を語る女は、渡された写真に写る彼らの笑顔は、悪縁というには眩しすぎた。
「結婚指輪というものは、丸いものが二つでひとつ。目玉と似ていますね」
りえの手のひらの上の指輪をつまみ上げると、風渡はその空虚を覗き込む。
「さて、この妙な縁結び、とても自然のものとは思えませんね。天の邪鬼の意地悪か、どこぞの神の悪戯か……」
調べないといけませんね、という風渡の呟きは、りえの耳には届いていない。
さてと、と風渡はりえに向き直る。
「おめでとうございます。これで試験期間は終了、本採用となります」
「はい?」
風渡の言葉に、りえはようやく悟る。
「……もしかして、今回って、私の試験だったんですか?」
「ええ。言っていませんでしたか?」
「聞いてません」
プルプルと首を振る。
だから、一人で行かせたのか?
説明くらいしてくれてもいいだろう、とか、そもそもバイトに誘ったのはそちらなのに、試験するのはひどいとか、言いたいことは山のようにあった。
しかし、それらを一切言わせない風渡の笑み。
「では改めて、よろしくお願いいたします」
にっこり。
差し出された手を、りえは諦めとため息と共に握り返した。
「私の依頼も、忘れないでくださいね……」
「では、これでご依頼は完了となります」
「はい、確かに。ありがとうございました」
紳士は深々と頭を下げた。
その顔はどこか憑き物が落ちたような、さっぱりとした顔だった。
「おかげさまで、あれから指輪が現れることはなくなりました」
風渡は微笑む。
「落ち着かれたようで何よりです」
二人が向かい合っているのは、目玉屋の店ではなく街中の喫茶店だった。昭和の時代がそこかしこに残る古びた店は、寡黙なマスターがきゅっきゅっとグラスを拭く音がBGMだ。
「クリームソーダ、お待たせいたしました」
年代物のテーブルは、肘をつくだけで、ぎし、と軋む音をたてる。
背の高いグラスにいっぱいのエメラルドグリーン、細かな泡がキラキラと光っていた。氷の上のアイスクリームに、ちょこんと乗った真っ赤なチェリー。
クリームソーダは紳士の目の前に置かれた。風渡の前にはブラックのコーヒーとミルクのみ。
大の男がおかしいでしょう、と紳士は照れたように笑った。
「私はもともと甘いものは好きではなかったのですが、最初の妻が好きだったもので、私も一緒に頼むようになって、それから習慣になってしまって」
紳士は目を細めた。
「では、最初の奥さまは、事故で?」
ええ、と紳士は頷くと、ストローでアイスをつついた。
「最初の妻を亡くしてから、何度も結婚と離婚を繰り返して、今度こそはと思ったのですがね。結局ダメでした」
紳士はため息をつく。
「どうにも巡りが悪いと言うのか、うまく噛み合わないというのか。結局、誰も最初の妻より長く連れ添うことはありませんでした」
「奥さまは、どんな方だったのですか?」
そうですねぇ、とクリームソーダをすする。
「こういう、チープで派手なひとでしたよ。地味で堅物な私なんかとは正反対の。逆にそれがよかったのでしょうね。若い頃に知り合って、子どもには恵まれませんでしたが、十年以上連れ添いましたから」
紳士はもう指輪のない自分の左手を見下ろした。
「もしかしたら私は、最初の妻と似た女性を探しては、彼女と比べていたのかもしれません」
ガチャン、と氷が鳴った。
「今はもう大丈夫なのですが、以前はどうにも、いまだに彼女と繋がっている気がしてならなかったのです。何か細い細い糸のようなものが絡まって、いつの間にかだんごになってこんがらがって、抜け出せなくなってしまった、そんな圧迫感に囚われてしまって」
「もう、その圧迫感は消えたのですか?」
「ええ、不思議と。喉のつまりが取れたようです」
それは良かった、と風渡は頷いた。
風渡は、封筒から一枚の写真を取り出した。
「こちらを」
テーブルの上に置かれた写真に、紳士は目を見張る。
「おや、懐かしい。最初の妻と昔撮った写真です。……しかし、こんな写真、私がお渡ししましたっけ?」
首をひねる紳士に、風渡は丁寧に説明する。
「いいえ。失礼ですが、ご依頼の一貫として、私の方で調査させていただきました」
調べたという風渡に、紳士は幾度か目を瞬かせたが、納得したように頷いた。
「そうですか。いや、必要なことでしたら、構いませんよ」
風渡は、写真に写る女の手に指を添えた。
「つかぬことをお聞きしますが、奥さまの結婚指輪はどうなさいましたか?」
紳士は一瞬驚いた顔をした。
「失くしました。ちょうど、この写真を撮った場所です」
紳士は写真を手に取った。
「ピクニックをしたいと妻が急に言い出しましてね。気分屋で突然わがままを言うものですから、毎度付き合わされましたよ。その日も日帰りで行けるところに手頃なものがなくて。あいにくと花のない季節に行ったもので、これといって見るものもなく。まぁ、弁当やら持っていって、のんびり過ごしたのでそれはそれで良かったのですが」
紳士はくしゃりと顔を歪めた。
「雨が突然降ってきたので雨宿りして、その時に濡れたので指輪をとってふいていたんですが。その時、妻が指輪を落としてしまったんです」
探しましたが、運悪く池にでも落ちたのか、日暮れまで探しても見つかりませんでした、と紳士は呟く。
「さすがに結婚指輪を失くすなんてと、ケンカになってしまいました」
紳士は首を横にふる。
「妻が亡くなったのは、その数日後でした」
写真の微笑む妻の顔を、じっと見つめている。
「ピクニックの後、一人で失くした指輪を探しに行ったようなのです。その道すがらの事故です。もともと脳に持病があって、頻繁に目眩を起こしていたようですが、その日、運悪く横断歩道で起きてしまって。赤信号になっても動けず、車に……。私が怒らなければ、妻はもう一度指輪を探しになんて行かなかったのでしょうに」
紳士は項垂れた。
「ずっと心残りでした。他愛のない喧嘩で、それが最後になるなんて」
「もう、終わったことです」
風渡の言葉はひどく冷たいようで、紳士は顔を上げる。しかし、その言葉に彼はどこか救われたような顔をしていた。
「指輪はもう、あなたの前には現れません。亡くなられた奥さまの幻影も、あなたを苦しめることはない」
風渡の言葉に、紳士はひどく驚いたようだった。
「ご存知だったのですか。私が亡妻の悪夢に悩まされていたことを」
風渡は頷いた。
「奥さまも、自由になられましたよ」
紳士はそうですか、と呟いて、心の底からほっとした顔をする。
「……本当に、ありがとうございました」
クリームソーダの中に、沈んだチェリーから分裂したような赤い金魚がくるりと尾をひらめかせる。
その姿は、風渡にしか見えていない。
紳士はクリームソーダを、うまそうに飲み干した。
目玉屋 @248773
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