目眩 五

「いやぁ、鯉は天に登ると龍になると申しますが」

 目次はのほほんと空一面を覆う鱗を見上げた。

「金魚は鯉じゃないです」

 りえは同じように空を見上げて、呆然と呟いた。

「はっはっはっ、若いうちからあまり細かいことを気にしてはいけませんよ」

 いや、細かくはないと思う。というか、なんで手のひらサイズの金魚が、超巨大な龍になるのか。

 龍はとぐろを巻いてぐるぐる回転している。腹の鱗は半透明で、龍の鼓動に合わせて波のように揺らめいた。空の上の出来事であるというのに、地上にまでその鱗の擦れる音が聞こえてくる。それは楽器が奏でる音楽のようで、鱗に透ける光の乱反射と共に、雨のように降りそそぐ。

 とぐろの中心から、龍の頭がつきだしていた。ゴツゴツとした岩のような顔は、やはりびっしりと鱗で覆われている。長い髭に、鋭い角。目玉は虹彩に縁取られていたが、何故か片目を瞑っていた。

 そして、口には細く赤い糸を咥えている。

「どうするんですか、これ……」

 りえは震える手で釣竿を握りしめた。龍を釣り上げるなんて、無理に決まっている。

 りえの青ざめた頬を、つん、と金魚がつついた。りえにごはんをもらってから、この金魚はずっとくっついてくる。この事態にも怖がることなく呑気にごはんを要求してくる姿に、りえは肩の力が抜けるのを感じた。

「ごめんね、今は遊んであげられないの」

 指で金魚の頭をつつくと、かぷかぷと小さな口で指をかじってくる。その可愛らしい姿に、りえは一瞬なごみかけた。

「おや」

 だが、空を見上げていた目次の声に、我に返る。

 そして。巨大な龍と、がっちり視線が合った。

 りえの頭よりも大きな目玉が、りえを睨んでいる。

「ひえっ」

 思わず飛び上がって悲鳴をあげる。

 ぐわり、と龍が口を開けた。

 びっしりと生えた牙の一本一本が、人間一人ぶんくらいある。龍は眼光をりえに向けたまま、地面に向けてずるずると下降を始めた。

「ちょっ、なんかこっち来ますけど?!」

「おや、もしかして私らを餌だと思ったんですかね?」

「なっ、なに恐ろしいこと言ってるんですかっ。てゆーか、あれを釣ろうって言ったの、目次さんですよっ。責任とってどうにかしてくださいっっ」

「ふむ。そうですなぁ……とりあえず、逃げましょうか」

 言うやいなや、目次は踵を返してすたこら走り出した。

「えっ、ちょっ、先に逃げるなんてズルいですっ」

 りえは目次を追って全力疾走した。

 龍は餌を逃がす気はないらしく、まっすぐにりえ達に向かって突っ込んでくる。こうなると、もはやパニックだ。

「こ、来ないでぇっ!」

 龍はあっという間に、りえ達のすぐ後ろにまで迫ってきた。顎を大きく開いて、獲物を飲み込もうと襲いかかる。

「はっはっはっ、龍とおいかけっことは、この年になってもついはしゃいでしまいますなぁ!」

 目次はすぐ後ろに龍が迫っているというのに、鬼ごっこでもしているかのように楽しげに走っている。

 しかし、それがいけなかったのか。龍は最初の食事に、目次を選んだようだ。

 ぱくり。

「っ、目次さんっ?!」

 隣を走っていた目次が龍に飲み込まれるのをばっちり目撃してしまったりえは、一瞬気が遠退きかけた。

 龍は一旦閉じた口を、もう一度開く。次の狙いは、当然りえである。

 そして頭が真っ白になったのがいけなかったのだろう、りえはそこで盛大に転んだ。

 ずしゃぁっと、地面を勢いよくスライディングする。柔らかな下草がなければ、だいぶひどい怪我をしていただろう。

 しかし、転んだことが幸いした。

 りえの頭の上を、龍の顎がスレスレで通りすぎた。

「ラッキー!」

 地面に張りついて難を逃れたことに胸を撫で下ろしたりえだったが、龍の突き進む先に目をやり、顔をひきつらせる。

「あっ、危ないっ」

 そこには、りえにくっついてきてしまった金魚がいた。金魚なんて、龍に比べれば蟻と象、いや、恐竜とミトコンドリアくらい差がある。

 もしかしたら、龍には金魚の姿なんて見えていなかったのかもしれない。

 それでも、とっさにりえは飛び出していた。

 龍のあぎとに飲み込まれようとしていた小さな金魚を、胸に抱き寄せた。

 ぎゅっと目を閉じる。

 りえの身体は、金魚ごと龍に飲み込まれた。




 目を開くと、どこまでも続く闇の中だった。

 肌にくすぐったいような小さな刺激があって、りえは目を覚ました。

 黒い世界に、ほんのりと灯りのような赤色が滲んでいる。それが金魚の鱗の色だと、りえは急速に覚醒した頭で理解する。

 金魚が、りえの額にかぷかぷと噛みついていた。起こそうとしたのだろうか、りえが目を覚ますと、金魚は嬉しそうにくるりと一回転して、尾ひれをひらめかせた。

「よかった。君も無事だったんだね……って、全然無事じゃないか」

 りえはおそらくここが龍の中だということを思い出し、がっくりと肩を落とした。

「私たち、食べられちゃったんだよね……」

 りえが倒れていたのは、さほど広くない通路のような場所だった。

 昔、鍾乳洞を見学した時のことを思い出す。冷たい岩肌は夏だというのに寒いくらいで、天井から壁から押し寄せる圧迫感。自分以外の音も熱もない、ひたすらに冷たくて静かな場所だった。

 立ち上がると天井はそれなりに高いようだが、両側にはさほど余裕はない。前後に長く続いているのが、見えないまでもなんとなくわかった。

「ううっ、ここって龍の胃袋とか、そういう……」

 りえは金魚を抱きしめた。

「消化される前に、早く逃げなくちゃ」

 りえはとにかく出口を探そうと、キョロキョロと辺りを見回した。

 りえに抱えられていた金魚が、ぴょんっと跳ねてりえの腕からすり抜けると、何かをぱくりと咥えた。

「本当に食いしん坊だなぁ」

 この金魚は、とにかく目についたものを何でも口に入れてしまうのかもしれない。

 りえは苦笑しながら、金魚が咥えたものを見る。

「あれ、これって、さっきの釣糸かな?」

 金魚が咥えていたのは、赤い糸だった。

 そういえば釣竿はあの騒ぎで放り出してしまったが、まだ龍は釣糸を飲み込んだままだったのかもしれない。

 赤い糸は空中をゆらゆらと漂って、そのまま闇の中へと続いていた。あたりは他に何も見えないくらい真っ暗なのに、不思議なことにその赤の線だけははっきりと見えた。

 金魚は赤い糸を咥えたまま、ひらりと泳いでいってしまう。

「あっ、待って!」

 りえは金魚の揺れる尻尾を追いかけた。

 相手は金魚とはいえ、こんなところに一人は嫌だ。先に飲まれた目次の姿はどこにもない。もしや既に消化済みかと、恐ろしい考えを振りきるように、りえは走った。

 金魚は身体の小ささのわりに、泳ぐのが早い。りえは見失わないように必死に足を動かした。

 進んでも進んでも、代わり映えのしない暗闇だ。

 その暗い道を提灯のように淡く照らす金魚。

 走っているのに、不思議と息も切れない。水の中を波に流されているかのように、身体が軽かった。

「どこまで続いているんだろう?」

 いったいどれくらい走ったのか、ようやく金魚が止まった。

 どうやら障害物に阻まれて、先に進めないようだ。金魚は困ったようにぐるぐるとその場で旋回している。

「なに、これ」

 りえは目を丸くした。

 金魚の先にあったのは、こんがらがった糸の塊だった。それ以外に表現のしようもない、本当に糸の塊だった。それもかなり巨大で、おそらく道を完全に塞いでしまっている。

 糸は黒くて、ボロボロだ。いや、元はもっと別の色をしていたのかもしれないが、固く絡まり長い時間が経って変色してしまっているのかもしれない。

 それがとぐろを巻いて塊になり、通路を塞いでしまっているのだ。両脇の隙間は広げれば無理に通れなくもないが、かなり厳しいだろう。

 たどってきた釣糸は、この黒塊に飲み込まれている。赤い糸の先に現れた瘤は、この暗闇の中にあってひときわ不気味な気配を撒き散らしている。

「こんなの飲み込んでたら、喉がつっかえちゃわないのかな」

 金魚がものすごく一生懸命にりえをつつくるので、りえは首をかしげた。

 見れば、金魚は小さな口で黒い糸をモゴモゴやっている。

「こんなの、食べちゃダメだよ。お腹壊すよ」

 食いしん坊金魚を引き離そうとするが、金魚は何度もりえの手をすり抜けて、塊に突進していってしまう。

 しかし、食べようとしているにしては、様子がおかしい。りえは、はっと気づいた。

「もしかして、ほどきたいの?」

 そうだ、と言わんばかりにぴょんっと跳ねる金魚。

 その嬉しそうなようすに、りえは自分の考えが当たったことを知る。

「まぁ、確かにこれをどかさないと、先には進めないか」

 今来た道を戻ると言う手もあるが、どちらに進むのが正解かわからないのだ。ならば、もう少しこの先を確かめて見てもいいだろう。

「よし、やってみるか」

 りえは腕まくりして、黒い塊に挑む。まずはちょっとだけひっぱってみるが、さほど力をかけるでもなく、糸がパラリとほどけた。

「あ、わりといけそう?」

 そう思って、今度は思いきって腕を塊に突っ込んでみる。適当に糸の束を掴むと、力任せに引っ張り出す。

「うっ、結構複雑に絡まってる」

 糸の束はやはり汚れた黒色で、しかも途中で結び目になったりぐちゃぐちゃに絡まっている悲惨な状態だった。ハサミでもあればもっと簡単だったのだろうが、あいにくと着の身着のまま龍に飲まれている。素手でどうにかするしかない。

 りえは丁寧に糸のひとつひとつをほぐしていった。

 糸はボロボロのわりにはどんなに力を入れてもちぎれることはなく、ほぐせばわずかな弾力と光沢があった。元はこんな汚い塊などではなく、もしかしたらとても美しい糸であったのかもしれない。

 りえは無心になりながら、ひたすらに糸の塊と格闘する。次第にほどけた糸が、足元にこんもりと山になっていく。

「あと、ちょっと」

 金魚が応援するように、りえの横でぴょんぴょん跳ねている。

 そして長い長い格闘の末。

「と、解けた!」

 ついに、糸の塊が崩壊する。

 あらかたの絡み付きがなくなれば、糸は自然とほぐれて地面にバラバラと落ちていった。

 金魚が高く跳ねた。

 黒塊に飲み込まれていた赤い糸が、こぼれ落ちる。それは釣糸のはずなので、当然そこには釣り針があるはずだ。

 しかし。

 りえは目を瞬かせた。

「……指輪?」

 りえの手のひらに落ちてきたのは、赤い糸に結ばれた小さな小さな銀色の輪っかだった。

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