目眩 四
見事に金魚が咲いた木をぼんやりと見上げて、りえは呟いた。
「指輪、食べられちゃった」
まぁ、あの指輪はここに置いてくるつもりだったので、問題はないのだけれど。しかしそれよりも。
「ん?」
りえは木のまわりを泳ぐ金魚達の姿がチカチカと瞬いたように見えて、目を擦った。
「なんか、透けてる?」
金魚が身体をくねらせるたび、木漏れ日に照らされてキラキラと透けて光るのだ。
りえが思い出したのは、学校の理科室に置いてあった、魚の標本だ。透明骨格標本というもので、生物の骨の形を染めて作られたそれは、生き物というよりはまるで硝子細工のようだった。
指輪を食べてしまった金魚の腹に、その指輪がうっすらと透けて見えた。
よくよく見れば、どの金魚も腹に何かを抱えているようだ。
指輪だけでなく、それは例えば万年筆だったり、時計だったり、人形だったり、スノードームだったり、統一性のない雑多でとりとめのない品々。
「この金魚達って、みんなして食いしん坊なの?」
先ほど指輪を飲み込んでしまった金魚のように、他の金魚も小物を飲み込んでいるらしい。
「おっと、いけない。私は落とし物を探さないと」
いつまでも呆けているわけにはいかないのだ。
「そうだ、何か役に立つアイテムが入ってるのかも」
りえは放り出していた荷物の存在を思い出し、ごそごそと風呂敷を漁った。
てるてる坊主で雨が降ったのだから、指輪を見つける道具か何か用意されているに違いない。
「どれどれ……」
風呂敷には、てるてる坊主以外にいくつか荷物が入っていた。りえはその中でも特に目を引いた大きなつづらを手に取る。
しかし、ドキドキしながら開けみたら、なんとお弁当だった。花柄のお弁当箱に、春の山菜を散らしたおにぎりとタコさんウインナー、卵焼きなんかのおかずが詰め込まれていた。風呂敷には一緒に、水筒や、地面に敷くためのビニールシートも入っていた。やたら可愛らしい、赤のチェック柄の水筒とビニールシートだ。
まるで小学生の遠足の支度みたいな装備を前に、りえはがっくりと肩を落とした。
「確かにピクニックには最適の場所かもしれないけど」
ここが普通の草原なら、それも良かったのだろうが。この世でもない場所で呑気にピクニックなんて、普通の感覚では思いつかないだろう。
雇い主である胡散臭い男を思い浮かべて、りえは焦りながら風呂敷を漁った。
「まさか、本当にこのピクニックセットだけってことはないよね?」
そしてりえのイヤな予感は的中し、なんと風呂敷の中は、これですべてだった。
「えー……」
期待はずれも甚だしいというか、これでいったいどうしろと。本当にピクニックしろとでも言うのだろうか。
りえは愕然としつつ、目の前のとても美味しそうな弁当を見下ろした。
依頼人の赤い女の話だと、雨が止んだらもとの世界に戻っていたということだが、しかし、すぐに戻れるような気配もないし、この金魚の木のことも、彼女の話にはなかった。
草原に初夏の風が吹いて、金魚は気持ち良さそうに泳いでいる。穏やかな光景ではあるが、ただ一人で草原の真ん中に突っ立っていると、あまりにも静かで、ふと不安になる。
「……てゆーか、ちゃんと戻れるよね……?」
口にしたらどんどん不安になってくるが、そこは風渡を信じるしかない。
りえは不安をごまかすように、お弁当を手に取る。
「……せっかくだし、食べるか……」
半分以上はやけくそでビニールシートを地面に敷いて、腰を下ろす。お弁当セットを広げると、もう立派すぎるピクニックである。
色鮮やかな金魚が泳ぐ木の下で、もぐもぐとおむすびを咀嚼する。塩気がきいていて、美味しい。
「花見ならぬ、金魚見?」
ちょうどお腹はすいていたので、つい、次のおにぎりにも手をのばしてしまう。
しかし、いつの間にこんなものを用意したのだろう。
「このお弁当、まさか風渡さんの手作りじゃないよね?」
エプロン姿のスーツ男を思い浮かべて、りえはあまりの違和感に慌てて頭をふった。
ふいに、つん、と頬に冷たい感触があって、りえは目を丸くする。
「ん?」
木の枝の間を泳いでいた金魚の一匹が、りえのすぐ近くに近寄ってきたのだ。指輪を飲み込んでしまった金魚ではないようだが、この金魚達はどの子も人懐っこいらしい。
金魚は、りえの周辺をふよふよと泳いでいたが、りえの食べかけのおにぎりに興味があるのか、しきりにご飯をつつこうとする。
「いいよ、食べても」
りえは可愛らしい金魚の姿にほっこりして、おにぎりを差し出す。すると、金魚は嬉しそうにつつき始めた。
金魚の一口なんて微々たるものなので、米粒ひとつひとつを少しずつ食べていく。
「ふふっ、おいしい?」
おにぎりを食べる金魚を見守っていると、いつの間にか他の金魚達もりえの周りに集まってきた。
金魚達がわっと集まってくる。それからだんごになって、おにぎりをつつき始めた。
「わっ、くすぐったい」
おにぎりと一緒にりえの手もつつくものだから、りえはくすぐったくて仕方がなかった。
そして金魚達に食べられて、あっという間におにぎりはなくなってしまった。
「あっ、君、さっきの」
指輪を飲んだ金魚だ。りえのまわりをうろうろとしているので、まだエサをもらえるのかと思っているのかもしれない。
「もうご飯ないよ?」
金魚と戯れつつ、お弁当を完食する。
「はー、お腹いっぱい……って、それどころじゃない!」
満足げにお腹をさすり、りえは我に返った。つい、本当にピクニック気分になっていた。
「これからどうしよう……」
金魚の木を見上げてため息と共に呟く。
しかたないですね、今回だけはサービスですよ
ふいに、そんな声が聞こえた気がした。
「え?」
ぽとん、と地面に落ちた一冊の帳面に、りえは目を見張った。
「これって、風渡さんが使ってたやつ?」
あの不思議な虫を閉じ込めた、一冊の手帳。一見するとただの紙の束だが、そうでないことは目の前で見たので知っている。
目録、と彼は呼んでいた。
「今の声って、風渡さん……?」
聞き間違いだろうか?
しかし、どこからともなくそれは落ちてきた。まるでりえが困っているのを見かねたように。
色々とおかしいところが満載だが、とりあえず足元に落ちた帳面を拾う。
「これを使えってこと?」
パラパラとめくってみても、やはり以前見た通り、文字がずらずら並んでいるだけだ。
「確か、これであの人を呼び出してたよね」
目録屋という謎の職業の男。この手帳を使うには、彼をまず呼び出さなくてはならないのだろう。
「えっと、風渡さんはなんて言ってたんだっけ?」
目録屋を呼び出すのに何か言っていたのだが、台詞までは覚えていない。
「えっと、御用があるので、おいでください? だったかな?」
りえは帳面を頭の上に持ち上げて叫んだ。
「と、とにかく、何でもいいから出てきてくださいー!」
りえが叫ぶと同時に、つむじ風が巻き起こる。
「はいはい、お呼びでございましょうか」
風の吹いた後には、そこに中年の男が立っていた。
「ホントに来た!」
「そりゃあ、呼ばれましたからな」
目次はパチパチと目を瞬かせる。
「これはこれは、珍しい方からのお呼びだしでございますねぇ」
目次はさっそく、りえとの距離を詰めにくる。
りえは目次が一歩近づくと、一歩離れた。適正距離を保ちつつ、風渡の指示通りに目次に頼む。
「あんなに適当な呪文で呼び出せるなんて」
「呪文? はて、なんのことでしょうか」
目次は首を傾げる。
「何か勘違いなされておられるようですが、別に私はランプの精じゃあ、ありませんので。普通に名前を呼んでいただけたら、お返事いたしますよ」
普通にお呼びくださいと言われてしまい、りえは顔を赤らめた。別に叫ばなくても来てくれたらしい。
目次はキョロキョロと辺りを見回し、金魚の木に目を止めて、歓声を上げた。
「おやおや、これはまた見事な金魚木ですねぇ!」
鮮やかな赤い花のような金魚達に、手を叩く。
「昔はその辺でよく見かけたもんでしたがねぇ。今じゃ、とんと少なくなって」
目を細めて、昔を懐かしむ老人みたいなことを言っている。
「こんな珍しい場所でのお呼びだしとは。はてさて、どんなご用向きでございましょうかな?」
目次は金魚の木からりえに視線を戻す。
「えっと、指輪を探しているのですが」
りえは今回の依頼内容を、手早く目次に伝える。
「なるほど、それはお困りですね」
りえから説明を受けた目次は、考え込むように腕を組んだ。
「では。こちらなどいかがでしょう」
早速、目次は目録を開き、どこかのページで手を止める。
するり、と目次がページに手を潜り込ませた。
それはまさに、文字を引き抜く、という行為だった。比喩ではない。本当に、ページから、文字を抜き出したのだ。
文字は紙を離れると、実態へ変化する。
「……えっと、これは?」
「釣り竿でございます」
目次が両手に差し出したのは、まさに釣竿だった。それも昔話にでも出てきそうな、シンプルな竹の竿だ。
「……あの、私落とし物を探してるって言いましたよね?」
「はい、承っておりますとも」
目次はさも当然とばかりに頷いた。
「えっと、釣竿で、探すんですか?」
ニコニコと笑顔を浮かべる目次は、大きく頷いた。
「しかもなんか、糸が赤いんですけど」
普通の釣竿なら、糸は白か透明のような、見えにくいものであるはずだが。目次が持っている釣竿は、糸も針も真っ赤だ。
「もちろん、失せ物探しには赤い糸と相場は決まっておりましょう」
りえは困惑して目次に何度も確認するが、しかし、目次は何が問題なのだと首を捻っている。
「運命の赤い糸、と申しますでしょう。つまり、赤い糸というのは、縁でございます」
目次の言葉の意味は、残念ながらりえには理解できなかった。まぁ、とりあえずご覧ください、と目次は釣竿を振って見せる。
「やってみた方が早いでしょう」
そう言うと、竿を振って糸を金魚の木に向かって投げた。
「金魚釣りとは、久しぶりに腕が鳴りますなぁ」
とかなんとか言って、ご機嫌である。りえは不安を覚えつつも、流れる糸の先を目で追った。
赤い釣糸は、木のまわりをしばらくふよふよと漂っていたが、やがて一匹の金魚の目の前に流れ着く。
それは他の金魚よりも一回り大きな、立派な金魚だった。金魚は目の前にやってきた針を、つんつんと小さな口でつつくと、ぱくり、と飲み込んだ。
「かかりましたな」
目次は待ってましたとばかりに竿を引く。
釣り上げられた金魚は抵抗するように、びちびちと元気に跳ねた。
「逃がしませんよぉ!」
目次も竿を握る手に力を込めた。魚と釣り人の戦いがいくらか続く。
「あっ!」
金魚が身を大きく翻した。
そして、木から離れてずんずんと空に向かって泳いでいく。
ものすごい引きだ。
「おっと、りえさん、手伝ってください!」
「あっ、は、はい!」
慌ててりえも竿を掴んだ。
途端、ものすごい力で引っ張られ、りえは顔をひきつらせた。
これがあんなに小さな金魚の力なのだろうか。
りえは慌てて腕に力を込めるが、ずるずるとひきづられていってしまう。
その間にも、金魚は空へと逃げていき、長く長く赤い糸が空までのびていく。
りえは釣竿を押さえながら、金魚に目を凝らした。
「もしかして、大きくなってるの?」
そう、金魚が上へ登るたび、身体が膨れていることに気づいたのだ。
最初は小さな金魚だったのが、鯛くらいに大きくなり、あれよあれよという間に鮪サイズ、そして鯨サイズと大きくなり、止まることなく膨れていく。
鱗も巨大になり、光を反射して眩しく輝いた。
そして空に到達するころには、とてつもない大きさになっていた。
りえは、釣竿を持ったまま、呆然と空を見上げた。
「何、あれ……」
「ほぉ、これはこれは見事ですねぇ」
目次は首を反らして、呑気に呟く。
「まさか、空を覆うほどの金魚だとは」
そう、金魚はもはや空一面を覆っていた。身体は長く蛇のようにのびてとぐろを巻き、長いヒレが幾重にも波のように広がっている。
あまりにも巨大になりすぎて、視界に収まりきらない。頭がどこにあるか、かろうじてわかるのは、いまだ赤い釣糸を咥えたままだからだ。
空を覆う鱗の生き物、そういえば、女の話にも似たようなものがあったのを、りえは現実逃避ぎみに思い出していた。
「……あれ、金魚で括っていいんですかね?」
そうですねぇ、と目次は呑気に笑った。
「金魚というよりは、もはやあれは龍ですなぁ」
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