目眩 三

 気づけば、りえは草原の真ん中に突っ立っていた。

「本当に、来ちゃった……」

 赤い女の話通り、何もない広々とした野原に、遠くに大きな木がポツンと佇んでいるのが見えた。

「ここが、目眩の世界なの、かな?」

 独り言には当然返事はなく、むなしく自分の声が響くのみだ。

 本当に店主はついてきてくれなかったらしい。

「うう、いきなり一人でなんてヒドイ」

 泣き言を呟いても、もう後戻りはできない。

 りえはまずはあの木を目指そうと、草原をてくてくと歩き始めた。

 さぁっと、風が吹き抜けた。

 見上げる空はどこまでも青く澄んでいて、雨どころか雲一つない。

 紳士と一緒にいた写真の中の風景と、どこか似ている気がする。

 ここが普通の草原であったなら、ピクニックでもしたくなるようなのどかな光景だった。

「にしても、荷物、重いなぁ」

 風渡に渡された風呂敷を、肩に背負うようにして運んでいるのだが、これがなかなか重かった。

「てゆーか、何が入ってるのか聞いてないし」

 たぶん、指輪を見つけるのに必要なものだろうが、せめて説明くらいしてほしかった。

「風渡さんって、やっぱり変わってるよね」

 歩きながら、ついぼやいてしまう。

「私の依頼だって、結局なにもしてくれてないし。本当に解決する気、あるのかなぁ」

 りえがバイトをするのは、風渡に解決してもらいたい問題があるからだ。なのに肝心の風渡は、のらりくらりとするばかり。

「帰ったら、きちんと苦情を言おう。そうしよう」

 拳を握って決意を固める。

 独り言をはさみつつ歩いていると、さほど時間もかからず目的地にたどり着いた。

 りえは下から梢を見上げた。

 傘のような形に枝を大きく広げ、緑の瑞々しい葉を気持ち良さそうに揺らしている。

 日の光にうっすらと葉脈が透けて、さやさやと葉擦れの音が耳に届く。虫の声も鳥の声もなく、ただ静かだった。

 しかし、それだけだ。

 特になにも変わった様子はない。

「確か、木から雨が降ってきたんだっけ?」

 目の前の木は、ただ普通に枝葉を風に揺らしているだけで、雨水一滴ついていない。

「うーん、やっぱり雨なんて降ってないなぁ」

 腕を組んで悩んでみるが、しかし、どうしようもない。とりあえず、りえは風渡に渡された荷物をほどくことにする。

 唐草模様の風呂敷を広げてみると、何やら得体の知れない代物が詰め込まれていた。

「……これ、何?」

 りえは荷物の一番上に置いてあったそれを、疑わしげにつまみ上げた。

 ぷらん、と揺れてこちらを見たのは、白い小さな人形である。

「これって、てるてる坊主、だよね?」

 子どもの頃に作ったことがある。軒下に吊るしておくと、晴れになるというおまじないの人形。

 筆で適当に描いたような目と鼻と口があって、どこか笑いを誘うような滑稽な顔をしていた。

「そういえば、逆さに吊るすと雨乞いになるんだっけ」

 風渡が荷物にこれを入れた意図は不明だが、なんとなくそんな気がして、りえは手頃な木の枝に、そのてるてる坊主を逆さまに吊るした。

「なんてね。本当にこれで雨が降るわけないか」

 苦笑して、ぷらぷら揺れるてるてる坊主を突っつくと、てるてる坊主の顔が、にやり、と笑った。

「え」

 硬直するりえの頬に、ぽつり、と冷たいものが当たる。

 雨だ。

 今まで晴天だったのに、どこから現れたのか黒い雨雲がどんどんと空を覆っていき、あっという間に嵐のような天気になる。

「本当に降った……」

 てるてる坊主が、自慢気な顔で揺れている。

 突然降りだした雨に、りえが呆然と空を見上げていると、とたんに気温が下がって寒くなる。

 慌てて、木の下に駆け込む。

 傘のような木の下は、彼女の言う通り、雨宿りにはちょうど良かった。

「これで、第一関門突破、なのかな?」

 たぶんだが、指輪を失くした状態をトレースするのだと思う。

 りえは傘の木の下で、嵐が過ぎるのをじっと待った。降った雨で、地面にはもう水溜まりができていた。

 ぴちょん、と、ふいに水溜まりが跳ねた。

 その中に鮮やかな赤い残像が揺れて、りえは目を見開いた。

「えっ」

 しゃがみこんで、まじまじと水溜まりを覗き込む。

 そこに、赤い小さな魚が泳いでいた。

「金魚?」

 今できたばかりの水溜まりに、元から魚が住んでいるわけもない。いったいどこからやって来たのだろう。

「……もしかして、湯呑みの中にいた子?」

 店の湯呑みに出現した湯呑み金魚を思い出して、首を傾げる。

 なんとなく、同じ金魚だと思ったのだ。

 様々な器に出現するらしいので、こんな水溜まりに現れてもおかしくない。

 また金魚が跳ねた。

 そうだ、と金魚が言っている気がして、りえは思わず笑みを浮かべた。

「ふふ、また会えたね」

 ひとりぼっちの雨の中、たった一匹の金魚が、とてもいとおしく感じる。

 りえは水溜まりに指を浸した。借りた指輪をはめた指だ。

 水面に波が幾重にも環を描き、金魚が優雅に尾をひらめかせる。

「私、これと同じ指輪を見つけなくちゃならないんだけど、君は知ってる?」

 金魚は人懐っこく指に近寄ってくると、小さな口で、つん、と指輪をつつく。

 りえは楽しくなって、そうしてしばらく金魚と遊んでいたが、ふと背中に暖かさを感じて、顔を上げた。

「……雨が、止んだ」

 いつの間にか、嵐は過ぎていた。

 明るい光がりえの顔を照らしていた。立ち上がり、傘の木からそっと外に出る。

「と、いうことは……」

 振り返ってみると、案の定、先ほどまでりえがいた場所には、雨が降っていた。

「本当に、木から雨が降るんだねぇ」

 なんとも不思議な光景である。

 いったいどこから雨水がくるのか、枝の間からしとしとと雨粒が落ちている。

 それは、依頼人の言っていた通りの、木の下の雨だった。

 空は晴天、木の下は一時雨。

「と、いうことは、これで条件は揃ったのかな?」

 りえはキョロキョロとあたりを見回した。

「指輪……指輪……でておいでー?」

 なんて、呼びかけてみたり。

「う、うーん。雨は降ったけど、これからどうすればいいの……?」

 女の話は、ここまでである。

 彼女はそのあとすぐに指輪を失くしたらしい。

 りえは自分の左手薬指にはまった指輪を見下ろした。これは彼女の旦那さんのものだが、ペアリングなのだから、探し物はまったく同じ形だろう。

「とりあえず、これは捨ててもいいのかな?」

 紳士の方の依頼は、この指輪をこちらの世界に捨ててくることなので、彼の依頼ならすぐに達成できそうだ。

 りえは指輪を引き抜こうとして、ふとあることに気づく。

「あれ、もしかして、旦那さんの指輪を奥さんに渡せば、それで解決するんじゃ……?」

 全く同じ指輪なのだ。

 刻まれた二人のイニシャルと結婚記念日だって、全く同じなのだから、どちらのものかわからないだろう。

 失くした指輪を見つけたい奥さんにこの指輪を渡し、指輪を捨てたい旦那さんには、指輪を捨てたと報告すれば。

「……い、いや、駄目よ。それは嘘だわ」

 つい魔が差した。

 りえは頭を振って、浮かんだ考えを否定する。

 そんな一人問答をしていたせいだろうか。それとも水溜まりで遊んでいたせいだろうか。

 指輪がつるりと滑って、りえの指から抜けると同時に、水溜まりに落ちてしまった。

「あっ」

 りえは慌てて水溜まりを覗き込んだ。

 指輪は底に沈んで、金魚がその上をくるりと回転しながら泳いでいた。

 そして。

 ぱくり、と金魚が指輪を飲み込んだ。

「って、ええっ?」

 りえは驚いて悲鳴を上げた。

 指輪を飲み込んだ金魚が、そのままりえの顔面に向かって勢いよく飛び上がったのだ。

「わっ、危ないっ」

 顔に金魚が激突する寸前、りえは身体を捻ってギリギリで衝突を回避する。とっさに避けたせいで姿勢を崩し、しりもちをついたが、金魚が顔で潰れるという悲劇は避けることに成功した。

 しかし、空中に飛び出した金魚を目で追ったりえは、さらに度肝を抜かれることになる。

「わー……」

 しりもちをついたまま、思わずそんな間の抜けた声が出た。

 木の下も、もう雨は止んだらしい。

 雨粒を宝石のように纏ってキラキラと輝く一本の樹木が、凛と佇んでいる。

 それは、金魚の大群だった。

 湯呑みでもなく、グラスでもなく、水溜まりでもなく、金魚達は木の枝に纏わりつくようにして、ゆうゆうと空を泳いでいた。

 当然そこには魚が泳ぐべき水などないにもかかわらず、そうある方が正しいとさえ思えるような優雅な泳ぎだ。

 指輪を飲み込んだ金魚は、群れに飛び込んでいった。そしてやはり他のたくさんの仲間と同じように、葉の間をすり抜けながら、すいすいと自由に泳いでいる。

 りえはため息のように呟いた。

「……金魚の木だぁ……」

 それは、そう表現する他ない不思議な光景だった。




 女は、煙草を摘まんで煙を吐く。煙草には口紅がべったりとついていた。

 縁側にだらしなく腰かけて枯れた桜を眺める女は、懐かしむように目を細める。

「……あの人と出会ったのは、小さな夏祭りだったわ」

 隣に座る黒い男に、女は独り言のように小さく掠れた声で呟いた。

「近所の小さな神社のね、名前もわからない神様のね、ずいぶん古いお社でね。町内だけでひっそりとやる本当に小さな夏祭りよ」

 女の言葉に、風渡は頷くでもなく、質問するでもなく、ただ、耳を傾けている。

「出てた屋台も数店だけ。たこ焼きと、かき氷と、金魚すくいと、お面屋さん。あたしは一人でいたの。別にお祭りに来ようと思って来たわけじゃなくて、たまたま通りかかっただけだから、浴衣なんて着てないし、適当なサンダルにTシャツ姿でね」

 思い出を語る女は、あまり楽しそうではなかった。かといって苦にするでもなく、ただ淡々と、自分の記憶をなぞるという行為に没頭してる。

「その時、ふと金魚すくいの屋台の前で足が止まったの。白くて広い四角の中に、たくさんの金魚が泳いでた。赤や黒や金や白や、鮮やかで繊細で、まるで一枚の絵みたいだったわ。あたし、思わず足を止めて、覗き込んだの」

 華やかな花火もなく、短い参道を赤い提灯がぽつりぽつりと灯すだけの、暗い夜の神社。

 人も多くはなく、喧騒もどこか遠い。

 戯れにお面を買って、着けてみたり。それだけで、自分が自分でないものになったような、不思議な気分になったと語る。

「一匹だけね、他の金魚とはちょっとだけ違ってるのがいたのよね。別に普通の赤い金魚で、他にも出目金とか派手で綺麗なのはたくさんいたのに、あたし、その子がどうしてもほしくなっちゃって」

 薄い紙は、あっという間に破れて使えなくなる。

 あたし不器用だから、と女は煙を吐きながら笑う。

「その時、あたしの代わりにその金魚をすくってくれたのが、夫よ」

 悔しがる女に、たまたま隣ですくっていた青年が、私がとりましょうかと声をかけた。

「ナンパなんて初めてだったって、後から聞いたわ」

 女は艶やかな爪で、弧を描く赤い唇をなぞる。

 青年は結局何度も挑戦して、ようやく目的の金魚をすくいあげた。女はとても喜んだ。

「全然タイプじゃなかったのに、不思議な縁よね。それから一緒に夏祭りを見て、神社にお参りして、次に合う約束をした」

 女は灰皿に煙草を押し付けた。

 ちり、と火が散った。

「金魚は家に帰って金魚鉢に移したの。でも、次の日の朝、金魚鉢から消えてた。飼ってた猫にでもいたずらされたのかなって思ってたんだけど」

 そういえば、あの木の下で、いなくなったあの金魚を見た気がしたわ。

 女は最後の煙と共に呟いた。

「……本当に、きれいだったのよ。あの金魚」

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