目眩 二

「ごめんください」

 赤い女の来訪から、数日後。

 また、桜の鈴が鳴る。

 風変わりな呼び鈴にも少しなれてきたりえは、沸いたヤカンの火を消して、玄関に顔を向けた。

 りえはセーラー服の上から白いエプロンを身につけた格好で、板張りの廊下を走って客を迎える。

 玄関に立っていたのは、身なりの整った穏やかそうな紳士だった。

「はい、いらっしゃいませ!」

 紳士は被っていた帽子を脱いで、りえに会釈する。

「あの、ここが目玉屋さんだと伺ってきたのですが」

「はい、目玉に関わるよろずごと、お受けしております」

 りえは営業スマイルを浮かべた。この笑いかた、なんだか風渡さんに似てるかも、と内心呟きつつ。




 りえがこの目玉屋でバイトを始めてから、数日が経っていた。毎日学校帰りに数時間、夕暮れから夜になるまで。それが目玉屋の勤務時間だった。

 やっていることはお茶汲みとか庭の花壇の水やりとか部屋の掃除とかだ。目玉屋というか、ただの家政婦である。

「なんか、ずいぶんと想像と違うなぁ」

 棚にはたきをかけつつ、りえはぼやいた。

「はは、いつも妖怪退治ばかりしているわけではありませんからね」

 いつの間にそこにいたのか。

 硬直したりえを見下ろして、風渡はいつもの穏やかにして怪しげな笑みを浮かべている。

「えっと、あの女の人の依頼、どうするんですか?」

 りえは誤魔化すように微妙に視線をそらしつつ、少し前に訪れた依頼人について聞いてみる。

 失せ物探しであるはずが、店主である風渡は、これまで何かしている様子がない。

「ああ、そのことですが。そろそろだと思いましてね。お茶の準備をお願いします」

「はい?」

 そうしてその数十分後、その紳士が来客したのである。

 



「この指輪を、捨てていただきたいのです」

 そう言って紳士が机に置いたのは、一つの細い銀の環だった。

 紳士は玄関から上がると、きっちりと自分で靴を揃え、座敷に通されると、座布団にまっすぐ正座する。

 灰皿を出したが、吸わないので、と軽く断られた。

 りえは紳士にお茶を出した後は、紳士の正面に座った店主の後ろに控える形で、そっと腰を下ろした。

「失礼ですが、あなたが捨てては?」

 客からの依頼に対して、店主は平然と返している。りえはヒヤヒヤしながら彼らのやり取りを見守った。

「ええ、そう思われるのも無理はありません」

 紳士は風渡の言葉に、おおらかに頷く。

「これは、結婚指輪ですね?」

「はい」

 紳士は自分の、日焼けの跡がうっすらと残る左手の薬指を、ちらりと見た。

「お恥ずかしながら、先日、離婚しまして」

 紳士は曖昧な笑顔を浮かべる。それは確かに笑みではあるが、決して楽しくて浮かべているわけではない笑み。

「ご自分では、処分しにくいということでしょうか?」

「いいえ、そうではありません」

 紳士は首を横に振った。

「最初は私も、普通に処分しようと思っていました。けれど、できなかったのです」

「と、いうと?」

「捨てても、売り払っても、何故か私のもとへ戻ってきてしまうのです」

 最初は売ったそうだ。貴金属であるし、それなりの値段で引き取られた。しかしその次の日、売った店が倒産して、取り引きがなかったことになってしまったと連絡された。

「タイミングが悪かったと、その時は思っただけでしたが。次に売った先で、今度は鑑定結果に間違いがあったと返品されてしまい。続けてのことで、やはりこういった記念の品を売るのは良くなかったかと、売るのはあきらめて、今度はきちんと処分しようとしました。しかし、捨てても、捨てても、何故か私の所に戻ってきてしまうのです」

 専門業者に依頼しても、どこかに捨ててきても。

 気づくと、自分の手元に戻っているのだという。

「海に投げ捨てて、次の日、風呂場に落ちていた時は、さすがに恐ろしくなりました」

 紳士は、少しやつれた顔を手のひらで覆った。

「私はその時気づいたのです。ただ目の前から見えなくなるだけでは駄目なのだと。だって、捨てるにせよ、売り払うにせよ、所有者が変わるだけで、遠くに行くだけで、存在そのものが消えるわけではないでしょう?」

 紳士は、暗い顔で言った。

「もし溶かしたとしても、それはただ、形が変わるだけであって、そこに変わらず存在しているではないですか。粉々に砕いたとしても、ただ細かく砂のようになって目に見えにくく、薄まるだけであって。それでは、消えたことにはなりません」

 紳士の語る口調は穏やかで、視線も一直線に固定されて揺るがない。どこまで続いているのかわからない穴の奥を覗き込むような、出口が見えないトンネルの中を歩くような、ひどい不安を掻き立てる眼差しだった。

「私の視界から消すだけでは足りない。この世界から、完全に消し去らなくては」

 紳士の、闇のような瞳をつい見てしまって、りえは後悔した。ぞくり、と、背筋に悪寒が走る。彼の声にも目にも、どんな感情も見てとれない。たぶん、それが不気味なのだとりえは思った。

「つまり」

 風渡は、紳士から指輪を受けとる。

「これが、この世から消えればよろしいのですね?」

「はい、よろしくお願いいたします」

 紳士は深々と頭を下げた。




 風渡の手のひらには、紳士から預かった指輪が乗せられている。

 紳士は分厚い封筒を置いて帰っていった。報酬だそうだ。

 指輪は、いたってシンプルなただの銀の環だ。

 よく見れば、指輪の裏側には文字が彫り込まれている。結婚記念日と、二人分のイニシャルだろう。

「その指輪、やっぱり妖怪なんですか?」

 りえは紳士に出した湯呑みを片付けながら、結局依頼を受けてしまった店主を見る。

「いいえ、これ自体はただの金属の指輪ですよ」

「でも、じゃあなんで捨てられないんでしょう」

「それはまだ、わかりませんね」

 風渡は、じいっと指輪を見つめている。

 りえは、まったく飲まれていない湯呑みを見下ろした。すっかり冷めたお茶が揺れる。この湯呑みには、金魚はいないようだ。

「それに、この世から消すって、本当にできるんでしょうか?」

 彼が主張する所に依れば、世界から存在が消えなくてはならないのだ。海に捨てても駄目であったというのに、いったいどんな方法を使えば消えたことになるのか、りえには見当もつかない。

「それは簡単ですよ。この世ではないところに捨てればよい」

 りえは目を見張る。風渡の言わんとしていることを理解したからだ。

「それは、あっち側、ということですか?」

「そうです」

 りえはやっと納得する。指輪の処分に目玉屋が選ばれた理由。あちら側に関われる店であればこそ、こんな店に依頼に来たといういうわけだ。

「まぁ、私としては、本来目玉以外の仕事は引き受けられない所だったのですが」

 風渡は引き出しから封筒を取り出した。

 それは、紳士が置いていった方ではなく、先日訪れた赤い女の残した封筒だった。よく見れば、まったく同じ封筒で、厚みも同じだった。

「封筒に、報酬と一緒に入っていました」

 風渡がそう言って差し出したのは、一枚の写真だ。

 写真を覗き込み、りえは目を見張る。

 あの赤い女と、先程の紳士が並んで写っていた。

「失くした指輪が写っているというので、お借りしたものですが」

 ハイキング中の記念写真だろうか。どこかの草原を背景に、大きな木の下に男女が二人が並んでいる。今よりも数十年は若いのだろう、少しぼやけたピントに、明るい太陽の光、はにかんだ笑み。

 そして少し見えにくいが、二人は確かに同じ指輪をしていた。

「あの二人、ご夫婦だったんですか?」

 その写真で、彼の別れた妻というのが、あの赤い女だと気づく。

 紳士は、身に付けているものも雰囲気も上品で地味だったので、あの派手な女性とすぐに結び付かなかったのだ。

 しかしこの写真を見ると、ごくごく普通の、仲の良い夫婦に見えた。

「あの、どういう事なんでしょうか?」

「ご本人達のお話通りなら、離婚して、指輪の扱いで問題が起きている、ということでしょうか」

 それにしても、おかしな話だ。

「妻はあっちの世界で指輪を失くしたから見つけてほしいといい、夫はあっちの世界へ指輪を捨ててこいと言う」

 風渡は肩を竦める。

「奥さまのおっしゃる目眩の世界とやらが、どうやら二つの依頼に関わってくるようですね」

 二人の主張は微妙に噛み合っていない。

 赤い女の主張では、まるで夫に指輪を失くしたことを知られたくないようである。対して夫は、徹底的に指輪を処分しようとしている。

「まぁ、それはこの指輪が知っているでしょう」

 風渡は、りえの手をとる。

 そして、ごくごく自然な動作で、指輪をりえの指にはめた。

「えっ」

「さ、これでよし」

 風渡は満足げな顔だ。

 りえは風渡があまりにも自然な動作であったために、まったく無抵抗で指輪をはめられていた。それも、きっちり左手の薬指に。

「……りえさん。なんで詐欺にあったみたいな顔をしているんですか?」

「はっ、いや、ちょっとびっくりしただけです!」

 りえは慌てて首を振った。

 自分の指を目の前にかざしてみる。男物のはずなのに、サイズはぴったりだった。

 風渡はマイペースにごそごそと棚を漁り、小瓶をひとつ取り出した。

「次に、こちらをどうぞ」

 りえは見覚えのあるそれに、顔をしかめる。

「それって、おじいちゃんの虫を追い出した時に使ったやつですか?」

「はい、私の特製目玉薬ですよ」

 風渡の浮かべる笑みと同じくらい胡散臭い薬を、りえは微妙な顔で受けとる。ラベルには、やはり古くさい文字が書かれている。

「……目眩薬?」

 それは、前に見たものと少しだけ違っていた。

 その薬名だけ見れば、目眩を直す薬のようだが。

「あの、これってやっぱり……」

「はい。目眩を起こす薬です」

「……」

 そんなの、怪しい薬に決まっている。

 しかし、これを渡されたということは、つまり、りえに使えということで。

「大丈夫、甘口ですから」

 いや、味を気にしているんじゃない、と心の中で呟くも、風渡はニコニコとりえを見守っている。

 飲まないわけにはいかない空気だ。ごくり、と喉を鳴らし、恐る恐る小瓶を持つ。封を外して匂いを嗅ぐと、甘い果実のような香りが漂った。

 りえは覚悟を決め、えいやっと一気に飲み干した。

「素晴らしい飲みっぷりです」

 パチパチと手を軽く叩く風渡。

 しかし薬を飲み干しても、特に身体には変化はないようだ。りえは首を傾げた。

「あ、あの。それで、これからどうするですか?」

「それはもちろん」

 風渡は立ち上がると、りえを伴い玄関を出る。そのまま庭に向かうと、枯れた桜の木がひっそりと、りえと風渡を待っていた。

 りえを桜の木の下に立たせると、なにやら風呂敷の包みを手渡す。

「これが荷物です。失くさないようにね」

「は、はい」

「さて、それでは目玉屋の初仕事です。がんばってくださいね」

 緊張するバイトに優しく語りかける風渡は、気遣いのできる店主のように見えた。

 しかし、りえははたと気づく。

「風渡さんは、薬飲まないんですか?」

 薬もそうだが、出掛けるにしては、身軽だ。あのスーツケースも持っていない。

 というか、この、雰囲気は。

「……も、もしかして、行くの私だけですか?!」

「ええ。指輪はひとつしかありませんし」

 あっさりと頷く。

「なに、簡単な仕事ですから」

 にっこり。優しい笑顔のはずなのに、有無を言わせない圧力がある不思議な笑みだ。

「りえさんは、この指輪を持ってあちら側へ行き、この指輪を捨てて、落とし物の指輪を拾ってくる。それだけです。ね、簡単なお仕事でしょう?」

「えっ、そ、そんな私一人でなんて無理……!」

 りえの悲痛な叫びに被さるように、風渡の顔が急に近くなる。

「っ、あの?」

 りえは硬直した。

 男にしては細い指が、りえの両目を覆う。

 冷たい白い指。

 少しだけ、薬の匂いがした。

 彼の冷たい温度が、まぶたから伝わってくる。それがひどく心地よかった。

 その時、ぐらりと視界が揺れた。

 りえは基本的に健康なので、貧血など起こした事はない。だからそれが、目眩であると気づかなかった。

 痛いわけではない。眼球がひっくり反って、脳の裏側を覗き込んでいるような。得体の知れない気持ち悪さが、うっすら纏わりつく不快感。

「いってらっしゃい」

 ぐるぐるする頭で、赤い女が言っていたその情景が、風渡の笑顔と重なって目の中にチカチカと瞬いた。




 いつもならね、目眩の世界を見ることができるのはほんの一瞬なの。

 でも、その時だけは違ってた。

 あたし、少しの間、そこにいたの。

 広い草原だったわ。

 ずうっと、ずうっと地平線の先まで緑の野原で。

 風がね、吹くとそれが波になって草を揺らすのよ。

 夏と春の真ん中くらいの暖かさでね。

 空は青空で、雲一つなくて。

 すごく気持ちのよい場所だった。

 その草原の真ん中にね、木が一本立ってるの。

 でも突然雨雲がやって来てね、あたりが暗くなって嵐になった。

 急いでその木の下に走って、雨宿りしたの。

 木の傘の下は、雨を凌ぐことができたわ。

 しばらくしてから雨が止んだから、木の下から外に出たのね。

 空はさっきみたいに青く高く晴れていて、雲ひとつだってない。

 ふと振り返ったら、木の下に雨が降ってた。

 晴天の中の、木の下の雨よ。

 それで気づいたら、あたしは元の場所に戻ってた。

 そして、指輪が無くなっていたのよ。




 風渡は、少女が消えた桜の木の下で、風に揺れる鈴を見上げた。

「……無事に行けたようですね」

 白刀が静かに鳴った。

 りえを見送った時には持っていなかったはずだが、彼の相棒である不思議な刀を、風渡はしっかりと握っていた。

 彼の手元に突然、とぷん、と泡が跳ねた。

 銀の刃に、ゆらりと纏わりつくように身をしならせたのは、一匹の金魚だ。

 淡く透けるその身体は、この世のものではない。

 風渡は、彼の標準装備である胡散臭い笑顔で、風に溶けるように囁いた。

「さて、お手並み拝見といきましょうか」

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