目眩 一

 そうね、あたしが最初にあの眩暈を覚えたのは、どれくらい前だったかしら。

 最初に見たのは、金魚だったわ。

 あたしは学生で、ペペロンチーノが看板メニューの、ちょっとおしゃれなレストランでアルバイトをしてたのね。

 その日の最後のお客さんだった。やっぱりペペロンチーノを注文してたわ。

 あたしはグラスに水を入れて、持って行ったのね。

 その時、くらりと体が揺れたの。

 軽い目眩だったわ。

 寝不足とか貧血とか、そういうんじゃないのよ。

 なんていうのかしら。

 心と体が別れて、心だけが遠くに転がって行ってしまった感じかしら。だから残された体がうまく立っていられなくって、揺らいでしまうのね。

 グラスをテーブルに置くときに、水の中に魚がね、ぴょんって跳ねたの。

 こんな小さなグラスよ。

 店長のこだわりで、キンキンに冷やしてからレモンを3滴、落とすのね。

 そこに、真っ赤な魚、そう、夏祭りの屋台で金魚すくいに売られるような、小さな金魚がね、泳いでた。

 えっ、て、なるわよね。

 あたし、驚いてグラスを転がして、少し水をお客さんにかけちゃった。

 店長にものすごく怒られたわ。

 でも、水と一緒に金魚もこぼれて、そのまま消えちゃったの。

 ほんの一瞬よ。

 瞬き一回と同じくらいの長さよ。

 その間だけ、その世界が見えたの。

 そのあと、すぐにそのお店は辞めちゃった。

 次はね、花だった。

 ヒマワリだったと思うわ。

 それがね、天井に生えてるのよ。

 わさわさーって。

 若い頃に働いたホテルの受付のカウンターよ。

 サラリーマンのおじさんがチェックアウトして、部屋の鍵を預かった瞬間だった。

 天井から逆さまに、ヒマワリ畑が広がったの。

 そのヒマワリ畑の中を、透明人間の女の子が自転車に乗って走ってるのよ。

 なんで透明人間なのに女の子だってわかるって?

 だってその子、真っ白なワンピースを着てたから。

 それに、真っ白でつばが広くて黒いリボンの帽子を被ってた。

 透明だから顔はわからないのに、とても気持ち良さそうな顔をしてるってことはわかるのよ。

 受付の電話が鳴って、はっとしたらもう消えちゃってたけどね。

 その次は、家の近くの道だったな。

 コンビニに行った帰り道だったわね。

 アイスが溶けちゃうから、早足で歩いてた。

 夏の真夜中よ。

 ほら、深夜に急にアイスクリーム食べたくなるときってあるでしょ?

 ほんとは太っちゃうからダメなんだけど。

 それでね、横断歩道を歩いてたら、頭に桜の木を生やした鯨が、花びらを散らしながら泳いで渡っていったの。

 花びらが渦を巻いて、そのピンクのトンネルの中をね、鯨がゆうゆうと泳いでいくのよ。

 他にも、友だちとお酒を飲んでたはずなのに、カクテルを傾けた瞬間に、高層ビルの屋上に立っていたこともあったわ。

 空一面に鱗雲が流れてて、きれいだなって見上げてたら、本当の生き物の鱗だったのよ。

 魚か蛇か、そんな感じの生き物よ。

 でも空一面を覆うくらい、とにかく巨大なの。

 空を埋め尽くしてとぐろを巻いていたから、下から見上げるあたしには、その生き物のお腹が見えるだけだったのね。

 だから、それが本当はどんな姿をしていたのかはわからないの。

 やっぱり一瞬で消えちゃったけどね。

 そんな感じでね、あたし、時々そういう世界を見てしまうことがあるの。

 それで、そういう妙なものを見る前には、必ずサインがあるのよ。

 それが目眩。

 くらりと頭が揺れて、目の前に薄く膜が一枚張りつく感じで。

 ふらついて足を一本踏み出すと、そこはもう別の世界。

 でも、気づくと、もう元の場所に戻ってるの。

 昔から、もうずっとよ。

 顔を洗おうとして手のひらに水をすくったら、その中に雪が降ってたこともあった。

 そうそう、お正月に神社に行ったときかな、大きな手が空から生えてたわね。

 鳥居の真上に手があって。

 参道の石畳には足、本堂の上には耳がひとつ浮かんでた。

 そのあと入ったうどん屋さんで、キツネうどんの上でお面を着けたキツネの子どもが、三味線をひきながら踊ってたのは、ちょっと可愛かったけどね。

 お箸で麺をすくったら消えてたけど。

 あのまま口に入れてたら、どうなってたのかしら。

 ふふ。

 市役所で何かの書類を書いてたときも、ペンのインクが光り出したの。

 それからインクの線、あたしの名前の中からキノコが生えてきたのよ。

 そうね、コーヒーショップでカフェモカを飲んでたら、お店のウインドウの外が砂漠だったこともあったわね。

 あれは蜃気楼ってやつよね。

 ぼんやりした霧みたいなのが遠くに見えて、その中に巨人が一人、寂しげに立ってたわ。

 他の時もそんな感じよ。

 不思議でキテレツで、でもすごくきれいで。

 みんな一瞬なのよ。

 瞬き一回の間で、消えちゃうの。

 でも、何度も目眩に襲われてるけど、一度も同じ世界はなかったわ。

 白昼夢?

 幻覚?

 そうね、きっとそう。

 でも、なんでかな。

 あそこはたぶん、どこかにあるわ。

 まぼろしに限りなく近いけれど、確かに存在するものよ。そう、なんとなく感じるのよ。

 それがあたしの頭の中なのか、薄皮一枚向こう側の世界なのか、わからないけど。

 そうね、例えるなら卵の内膜みたいな感じ。

 この世界にぴったりとくっついている外側の世界。

 ほとんど同化してるみたいに見えるけど、めくればそこにはごくごく薄いもうひとつの世界があるの。

 あたしはたぶん、そこを垣間見たのだわ。

 目眩はそこへ行くための儀式なのよ。

 半透明で、もろくて、指で簡単に穴が空いちゃうような、そんな儚い世界。

 そう、きっとあれは、目眩の中にある世界なのよ。



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「落とし物ですか」

「そうなのよ」

 真っ赤なマニキュアの指先で、女は煙草を摘まんだ。

「結婚指輪なの」

「はぁ、それは無くすわけにはいきませんね」

「無くしたってことがばれたら、あの人すごく怒るでしょうね」

「それで、落としたのは、その目眩の世界だと」

 ええ、と、女は煙を吐きながら頷いた。

 派手な女だった。年は中年あたりだろうが、若い頃の感覚を引きずったままの化粧と衣服。大きなアクセサリーやブランドもののバッグなど、これ見よがしに身に付けている。

 目玉屋を構えるこの落ち着いた古民家には不釣り合いな赤い女は、桜の下にふらりと現れると、さっさと縁側に腰かけて煙草に火をつけた。

 りえは風渡にお茶を出すように頼まれたので、湯呑みを二つお盆に乗せて、縁側に並ぶ異質な男女の元へ近づいた。

 茶を出しながら二人の話に耳をすますと、そんな話が聞こえてきたのだ。

 女の手元には、りえももらった名刺がある。

 しかしそれは折り畳まれて、女の煙草置き場と化していた。

「ご自分で探しには行かれないのですか」

 風渡は、依頼人である女に穏やかに問う。

 ふぅ、と甘くさい息を吐いて、女は笑った。

「行けないのよね」

 女はゆるく首を横に振る。

「行きたくても、行き方がわからないの。だって、行けるのも偶然だし、同じ世界に行けたこともないし」

「それは仕方ありませんね」

 風渡は肩を竦める。

「店のお客さんから聞いたのよ。変な事は、ここにくればなんとかなるって」

 煙草を吹かしながらしゃべる女に、風渡は気分を害した様子もなく、なるほどと頷いている。

「どんな場所に落としてきてしまったのですか?」

「それはね……」

 そうして話した時間は一時間ほど。

 その間に八本も煙草を吸って、女は帰っていった。

 女の残した煙草の吸い殻には、べっとりと口紅がこびりついている。

「……今のお客さんの依頼、引き受けるんですか?」

 りえは湯飲みを片付けながら、風渡を見た。やはり湯飲みにも口紅がついていて、りえは顔をしかめる。

「前金を置いていかれましたしね」

 女が座っていた座布団の上には、茶封筒が置かれていた。いくら入っているのか不明だが、分厚さからして相当な金額だろう。

「本当にあるんですか。その目眩の世界というのは」

「さて、ご本人がそうおっしゃったのでね」

 半信半疑のりえに、風渡は首を傾ける。

「そうですねぇ。確かにあの女性が話していたような場所は、私も聞いたことはありませんけれど」

「風渡さんも知らないんですか?」

 じゃあ、どうやって探すのだろう。いきなりの難事件に、りえは狼狽する。

 しかし風渡は、特に焦った様子もなくのんきにお茶をすすっていた。

「確かに彼女の言う場所は知りませんが、そういう場所やいきもの自体は、そんなに珍しいものではありませんよ。ほら、あれなんてうちにもいますし」

「あれ?」

 風渡が指さしたのは、りえが片付けようとした湯飲みだ。女に出した方ではなく、風渡が飲んでいた方だが。

「もう一杯いただけますか?」

「あ、はい」

 りえが首を傾げながら急須からお茶を足すと、風渡は飲むでなく、湯飲みの縁を叩く。

 ぴちょん、と茶が跳ねた。

「金魚?!」

 りえは目を剥いた。

 熱いお茶に、真っ赤な金魚が泳いでいる。

「ほらね」

 風渡は湯呑みを傾けながら笑う。

 コップの中にいた金魚の話は、女もしていた。

「私もこれの本当の名前は知りませんから、なんとなく湯飲み金魚と呼んでいましたが。どうやら他の入れ物にも出るらしい」

 そのまま、風渡はお茶を飲み干す。

 金魚は傾いた湯飲みの中で、くるりと尾を回転させた。

「あ、あの、間違って飲んじゃいませんか?」

「飲めませんよ。見えていますが、こちら側にはいませんから」

 こちらにいない、というのは、やはりあやしの類いなのだろう。りえは老人の目に潜んでいた虫を思い出して、顔をしかめる。

「追い出さなくていいんですか?」

「特に害もありませんし、放置で大丈夫ですよ」

「はぁ」

 おぼんに金魚の湯呑みを片付けながら、りえは湯呑み金魚を眺めた。湯呑みの底にわずかに溜まった飲み残しに、窮屈そうに身を揺らしている。

「……湯立っちゃわないのかな?」

 この店ではお茶汲みですら、不思議と関わらなくてはならないらしい。一応覚悟を決めて来たのだが、本当に自分はここでバイトなどできるのだろうかと不安になる。

 りえはのんびりな店主を窺う。

「……それで、どうやって探すんですか?」

「さて、どうしましょうかねぇ」

 そして店主の反応はあまりにも適当だった。

 自分で行くタイミングも場所も選べない。二度と同じ世界に行けたこともない。突如降ってくる目眩をただ待つしかない。本当にあるのかも疑わしい場所での落とし物。

 りえには解決方法など、皆目見当もつかない。

「ていうか、目玉屋の仕事っていつもこんな感じなんですか?」

「様々ですよ。目玉に同じものがないように、依頼にも同じものはありません」

 りえの時のように虫退治だったり、今回のように失せ物探しだったり。

 風渡はすっかり暮れてしまった夕空を、目を細めて眺めた。

「今日はもう遅いですから、話は明日にしましょう。学校が終わってから、またいらしてください」

「は、はい」

 どうやらりえの初バイトは、お茶汲みで終わりらしい。もどかしげにおぼんを抱えて、りえは店主を見る。

「大丈夫。この目玉屋にお任せください。万事解決いたしますとも」

「……」

 やっぱり胡散臭い。

 風渡の朗らかな笑顔と流れるような台詞に、りえは重めのため息をついた。

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