目次
少女は、生け垣の隙間に挟まった朽ちかけた門の前に立ち竦んだ。傾いた木戸の隙間からは、ほの暗い道が続いていた。
「ここ、行くの……?」
パタパタと耳元で肯定の音が聞こえる。
少女は深いため息をつくと、意を決して木戸を押し開いた。
「名刺で店の場所がわかりますから」
病室の廊下でバイトの約束をしたあと、風渡はそう言った。りえはその日、また学校帰りのセーラー服姿で、目玉屋への初出勤を迎えていた。
ちなみに、名刺で店の場所がわかる、という彼の言葉は、単純に名刺に住所が書いてあるということではなかった。
放課後、校門から出ると、りえはもらった名刺で住所を確認しようとポケットをまさぐった。
すると、名刺はするりとりえの手をすり抜けて、ポケットから飛び出すと、二つに折れてパタパタと羽ばたき始めたのだ。そして、道案内でもすると言いたげに、りえの周りをぐるぐると回った。
驚いたのは言うまでもない。
なにしろ校門には帰り途中の他の生徒の姿もある。
この謎の名刺の姿を、自分以外の人間が目撃してしまったら大騒ぎになってしまう。
飛び出した名刺を捕まえようと、りえはとっさに動いていた。そして蚊を潰す時みたいに、パチンと両手で挟んでしまってから、しまったと顔を青ざめさせた。思いっきり叩き潰してしまった。
おそるおそる開いた手のひらからは、名刺は変わりなく飛び出してきた。無事だったらしい。
若干、文句を言いたげにパタパタやった後、ふらりと街の方へと飛び出していった。
慌ててりえが追いかけると、離れすぎないように一定の距離を保ちながら名刺はふらふらと飛んでいく。
その姿は蝶というには優雅さに欠け、鳥というには寸足らずな、やはり羽ばたく四角の紙であった。
誰かに見られないかとヒヤヒヤしたが、不思議と通行人の誰も飛ぶ名刺を見とがめるものはいない。
そういえば、あの胡散臭い男の持ち物には、人間には見えないものがあると思い出した。
そうしてたどり着いたのは、背の高い生け垣に囲まれたこの小道への入り口だった。
濃い影が砂利の道に落ちていて、落ちかけた夕日の赤い色と斑模様を作っている。見上げるほどの高い生け垣は、密に繁った葉が固く壁になって、こちらに迫ってくるようだ。道幅は、人ひとりがなんとか通れるくらいの細さで、すれ違いもできそうにない。
足を一歩踏み出せば、ローファーの底から石を踏む尖った感触が伝わる。しん、と静まり返った道に、葉の隙間を風が抜ける音と、砂利を踏む音、四角い紙の羽ばたきの音が響くのみ。
道は頻繁に曲がったり分かれたりして、ちょっと進むだけで、すぐに方向を失ってしまった。
薄暗い道の先は見通しも悪く、本当に迷路のようだ。しかし、恐怖はなかった。それは幼い子どもの頃の冒険のような感覚が近い。一歩足を踏み出す度に、ある種の興奮が押し寄せてくる。
どのくらい歩いたのか、わずか数分だったのか、何時間も歩き通しだったのか、方向感覚と一緒に時間感覚も狂ってしまったようだ。
小道の先に明るい光が見えた時、ついにたどり着いたゴールにひときわ大きく胸が高鳴る。
少女はドキドキする胸を押さえながら道を抜けた。
夕暮れ間際の明々とした太陽の光と、少し冷たい穏やかな風と、ほのかに甘い花の匂い。
そこは、庭に大きな桜の木がある家だった。
田舎ならどこかに残っているだろう地味な古民家の佇まい。傾いて見える瓦屋根に、黒ずんだ土壁、太い木の柱。縁側があって、錆びた雨どいに陶器の風鈴が揺れている。障子は穴が空いたのか、張り合わせて穴を埋めてあったが、それが桜の花の形をしていて風流といえばそうなのかもしれない。
庭の中央の桜は、黒々とした幹に細い枝を生やして静かに佇んでいる。樹齢を重ねた老木なのか、葉の一枚もない寂しい様子は、枯れてしまっているのかもしれない。ただ、枝に絡んだ紐に鈴が吊るされていて、りいん、りいん、と涼やかに鳴るのが印象的だった。
りえは桜を横目に眺めつつ古民家に近づき、玄関前に立った。
磨硝子が嵌め込まれた木戸の扉の上、木製の下げ看板があって『目玉屋』と彫りこまれていた。ぐるぐるの円を二つ並べた奇妙な模様は、目玉のつもりなのだろうか。屋号と共に彫り込まれた、目玉のよろずごと承ります、の謳い文句が、風に煽られプラプラと揺れている。
「本当に、目玉屋だ……」
この怪しげな看板もそうだが、土壁にお札みたいなものがベタベタと貼られていたり、やたらとリアルで迫力満点な鬼瓦が見下ろしていたり、ちょこちょこ奇妙なところがこぼれているこの家は、やはりあの胡散臭い男の店だと確信が持てた。
古い家らしくチャイムもインターホンもない。声をかければいいのか、玄関に立ってもじもじしていると、横から声がかかる。
「りえさん。こちらです」
声のしたほうに顔を向ければ、縁側にくつろいだ男の姿を見つけた。
ここまでりえを案内してきた名刺は役目をまっとうして、男の手のひらの上にひらりと落ちる。
「風渡さん」
そこには病院で別れた数日前と変わらない胡散臭い男が座っていた。
風渡の格好は、いつものビジネスマン風のスーツに、肩に渋い織柄の羽織をひっかけるというちぐはぐなものだった。おまけに手には古風な煙管。古民家の縁側に腰かけて、ゆったりと紫煙をくゆらしている。
「ようこそいらっしゃいました」
にっこり。
とても愛想の良い笑顔で迎えられて、りえは顔をしかめた。
なんでこの人はいつ会っても胡散臭いんだろう。
りえの心の呟きが聞こえたわけでもあるまいが、追加で微笑まれて、りえは慌てて頭を下げた。
「きょ、今日からよろしくお願いします」
「はい。こちらこそよろしくお願いしますね」
風渡は、どうぞこちらに、と自分の隣の座布団を指さす。りえはおずおずと腰を下ろした。
「どうぞ」
「あ、どうも……」
差し出された湯呑みを受け取って、ずずっとすする。
「あれからおじいさまのご様子はいかがですか?」
風渡はニコニコと笑っている。
やはり胡散臭い。
のこのこ来てしまって本当に大丈夫だったのかと、今更ながら不安になってくる。
「……あの後、すぐに目が覚めました。お医者さん、すごく驚いていましたよ」
奇跡だとちょっとした騒ぎになったが、さすがに目玉屋のおかげだとは誰も考えもしないだろう。
「まだすごく眠そうで、ぼんやりしてますけど。もう、虫のことは口にしません」
目覚めた時、ポツリと、行ってしまったな、と呟いたきりだ。
「それはよろしゅうございました」
りえはぐるりと湯呑みを回す。茶柱がぷかりと揺れた。
「あの虫って、結局なんだったんですか?」
「……さて、どう説明したものでしょうかね」
風渡は煙管から煙を吐きながら、首を傾げた。
「やっぱり、悪い妖怪だったんでしょうか」
風渡はゆるく首を横に振った。
「いいえ。あれはそもそも妖怪ではありませんよ。まぁだからとて普通の昆虫とも、もちろん違いますが」
「じゃあ、何なんですか?」
りえは眉をしかめた。
「そうですねぇ、あえて名を与えるならば、フシギ、とでも」
「……不思議?」
妖怪と何が違うのか。
首を傾げるりえに、風渡は相変わらず胡散臭い笑みを浮かべる。その口に上らせる言葉は、彼の佇まい同様に、やはり胡散臭かった。
「ええ。そもそも妖怪というのは、あっち側の住人達のことですから。こちら側とはまた別の世界であるとはいえ、我々と同じように、きちんと存在しております。人間はこちら側に、妖怪はあちら側に。ただ境界のこっちとあっちで住みわけているだけの生き物ですから」
「妖怪も、生き物なのですか?」
「もちろん。人間よりも多少長生きだったり、丈夫だったりするので勘違いされがちですが、れっきとした生命体です。少なくとも、私はそう思っていますよ。まぁ、神様の領域にまで進んだ方々もおりますから、一概に妖怪をひと括りにするのは乱暴なのですがね」
風渡は煙管を置くと、畳の上に放り出されていたスーツケースに手を置いた。
そこにはじめからあったような顔をしているが、縁側に座った時はなかったはずだ。りえはいつの間にと首を傾げたが、風渡は当たり前のようにスーツケースを撫でている。
その銀の箱の中には、あの不思議な虫が納められているはずだった。
「だからあの虫のように、夢幻の境をうろついて、在ったり無かったりするような、曖昧な存在ではありません」
りえはおうむ返しに呟く。
「在ったり、無かったり?」
「そうです。語られるだけの名を持たず、しかし誰かにうっすらと認識はされている。いるような、いないような、しかしやはり、いる。そういう、存在の一歩手前にいる連中のことですよ」
「はぁ」
「そいつらには、まだ確固たる名前も存在もありません。だから、定義もできず、分類もできず、語られることもない。だから、なんとなく不思議な何か。そういうことです」
りえは困ったように風渡を見上げた。
「……よく、わかりません」
「そうでしょうとも。よくわからないから、不思議なのです」
はぁ、と頷いているものの、やはりどうにも飲み込めないのだろう。りえの表情は難しくなるばかりだ。
「まぁ、おいおい知っていけば良いでしょう。それよりも、今日来ていただたのは、りえさんにも立ち会って頂こうと思ったので」
「立ち会う?」
ええ、と風渡は頷いて、ぱかりとスーツケースを開けた。
「今から、目録屋を呼びます」
「……目録屋さん、ですか?」
また謎の職業が出てきた。
風渡はごそごそとスーツケースの中に手を突っ込んで、何かを引っ張り出してきた。
「まぁ、百聞は一見にしかず、ですね」
風渡が手にしたのは、一冊の本のようだった。
「これが目録です」
りえは、その分厚い紙の束に目を瞬かせた。辞書くらいあるだろう、枕にしてもよさそうな大きさだ。
風渡がページをめくると、目録と言っていた通り、ずらずらと何か書き付けられていた。
特にイラストもない、文字の羅列。
何かの名前だろうか。
風渡は目録に手を置くと、本に向かって囁いた。
「新しく加えたい品がございますので、どうぞお越しくださいまし」
誰に言ったのかとりえが質問するより早く、その相手が姿を現していた。
「お呼びいただきましてありがとうございます」
「……えっ」
驚いたりえは、危うく湯呑みを落とすところだった。
いつの間にか、壮年の男が庭の桜の木の下に佇んでいた。来訪を告げるかのように、りいん、と桜の枝から鈴の音が響く。
「どうも」
風渡が軽く会釈すると、男も会釈を返してくる。
彼は地味な色合いの着物姿で、丸い眼鏡をかけていた。ぷっくりと丸いシルエットに、背が低く、穏やかな笑みを浮かべている。
男は湯呑みを持って固まっているりえを見ると、丸い眼鏡と同じ形に目を丸くした。
「おやおや、まあまあ!」
男は大袈裟な様子でささっと寄ってくると、まじまじとりえの顔を覗き込んできた。
「まさかこんな若いお嬢さんをここでお見かけするとは、なんとも珍しいことで」
「バイトをね、お願いすることになったんですよ」
「おやおや、それはそれは!」
男は懐から小さな紙切れを取り出した。名刺だ。
「わたくし、こういうものでございます」
丁寧に頭を下げる様子は、一応礼儀正しい。
りえは名刺を受け取って、細く針金のような文字を目で追った。
そこには簡素に、目録屋 目次、とある。
「もくじ、ではなくて、めつぎ、と読みます」
男は先回りをして言った。
いつも読み方を聞かれるか、間違えられるかするのだろう。ずいぶんと変わった名字だ。
「こちらは、うちがひいきにさせてもらっている目録屋さんですよ」
「三八原りえです」
りえは慌てて自分も名乗る。
男はにこやかなまま、しかしなんとも言えない眼力でりえを観察する。
「なるほど、これはまたずいぶんと毛色の変わったお嬢さんだ」
値踏みの視線に、りえが身じろぎすると、風渡が目録屋とりえの間にするりと入り込む。
「……目次さん、うちの子ですよ」
風渡の鋭い視線に目録屋は目を細めると、すぐにりえから顔を離し、ははは、と誤魔化すように笑った。
「もちろん、風渡さんところの子に手なんて出しませんよ」
ぺしぺしと頭を叩く。その様子は軽妙だが、どこか胡散臭い。この店の関係者は、みんなこうなのか。
風渡は本題を切り出した。
「この間、珍品を手に入れたので、目録に追加していただこうと思いましてね」
「おや、目玉屋さんが珍しいというのだから、それはとても珍しいものなのでしょうね」
こちらです、とスーツケースを開けて見せているが、やはりりえにはそこに何があるのかわからない。
では早速、と目録屋は風渡から本の目録を受け取る。目録を開くことはせずに閉じたまま手に持ち、ひょい、とスーツケースから何かを掴む。
やはり彼にも見えているのだろうか。
そしてそれを目録の上に乗せると、ぐい、と押し込んだ。
それはなんとなく彼の所作からそういう風に思えただけで、実際彼が何をやっているのかはよくわからない。彼は目録の上でなにやらぐりぐりとやったりにぎにぎやったり、せわしなく手を動かしている。奇妙なパントマイムのような目録屋を、りえは不思議な顔で見守った。
「さて、これでよし」
目録屋がそういったので、どうやらこれで終わりらしい。しかし、りえには先ほどとなにも変わらない紙の束にしか見えない。
「どうぞ。お確かめくださいまし」
目録屋が目録を風渡に返すと、風渡はぺらりとページをめくって、頷いた。
「はい、確かに」
りえもページを覗き込んでみる。そして、ページの最後の一文に、さっきまでなかったものがあることに気づく。
『瞼の裏の虫』
筆で流したような流麗な文字が、追加されていた。
「本当に増えてる……」
「もちろん。わたくしは目録屋ですから」
得意気な顔で目録屋は頷いている。
「ああ、それは紙の方ですが、ホームページもございますので、お嬢さんでしたらスマートフォンからでもご覧いただけますよ」
「えっ、ホームページあるんですか?」
驚きの告知だ。目録屋は、いやはやと頭を叩く。
「やぁ、昨今うちらの業界もIT化が進んでましてねぇ。顧客の中には完全クラウド化とかおっしゃるかたも多くてねぇ」
あんまりちぐはぐで、りえはそうですかと頷くのがやっとだ。
しかし用件はこれで終わりのようで、目録屋は案外あっさりと帰るようだ。すたすたと庭の桜の木の下に移動して、深々と頭を下げた。
「ではまた、ご用の際はいつでもお呼びくださいまし」
目録屋は現れた時と同様に、瞬きの合間に煙のように消えていた。
りえは肩の力を抜く。
「はあ、びっくりした」
「また会うこともあるでしょうから、なれてくださいね」
「ど、努力します」
騒がしい目録屋がいなくなって、急に静かになった。そもそも、この店はあの迷路のような小道の先にあり、りえのように招待されていなければ、見つけることもできないだろう。
ここでバイトをすると言っても、肝心のお客さんはいるのだろうか。
「こんなところにお客さんなんて、くるのかな……」
思わず本音を呟いてしまって、りえは口元を押さえた。
「ご、ごめんなさい」
顔を赤くしてうつ向く。しかし風渡は気にした様子もなく、のんびりとまた煙管を吹かしはじめた。
「こういう仕事は人目につきにくいものですから。しかし、本当に必要としている人には、きちんと目に止まるものですよ」
言いながら、風渡は煙管をことんと灰皿に打ち付ける。風渡の視線を追ったりえは、目を見張った。
りいん、と桜の鈴が告げる。
いつの間にか、庭に誰か立っていた。
「……ほらね。早速お仕事のようですよ」
消えた目録屋と入れ替わるようにして、赤い口紅の女が、気だるそうな顔で桜の木の下に立っていた。
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