瞼の裏の虫 三

 少女は目を開けた。

 白い病室の白い壁と白いシーツと白いカーテンと白い老人の顔と、黒い男。

 もう、金色の涙は止まっていたが、乾いて泥のように固まっている。

「やっと、出てきましたね」

 少女の手のひらから、それは飛び出していった。

 しかし、その姿が見えたわけではない。そう動いたと気配が伝わっただけだ。

 目を開けた途端、その虫の姿は認識できなくなっていた。

「逃がしませんよ」

 しかしどうやってか、青年は虫の姿を捉えているようであった。

 刀を一閃、斬るというよりは、風を撫でるような所作だった。

 青年の刀が虫を斬った、ということはなんとなく理解できたが、その感覚もやはり曖昧で、本当に斬ったのか、斬られた虫がどうなったのか、少女にはわからない。

 ただ、そこにあった何かの気配は消える。

 青年は抜き身の刀をぶら下げて、老婦人の足元を見つめていた。

 そこにはもしかして、虫の骸が転がっているのだろうか。

 老婦人の虚空な目は、青年を見てはいなかった。

 ゆっくりと屈むと、足元に溜まったの金色の泥の中から、何かをそっと拾い上げる。

 やはり何も見えない。

 ごしごしと強く瞼を擦っても、老婦人の手のひらの上には何もない。

 少女はぎゅっと拳を握りしめると、決意して再び目を閉じた。

 瞼の裏の闇の中、ぼんやりと光るものが見えた。

 さっきの虫のようにはっきりとは見えないが、いる、という確信は持てる。

 それは、真珠のように艶やかで、半透明の丸みを帯びたもの。

 卵だった。

「 も う す ぐ 」

 老婦人の口から、言葉が落ちる。

 確かにそれは老婦人の声であったのに、しかし、それは彼女が発したものではない。

 それは虫の言葉であった。

 いや、虫は虫であり、言葉を持つ生き物ではない。

 しかし人間の裏側に巣くうそれは、人の口を借りて告げる。

 それまで泥のように重たげだった老人達の流した涙のようなものが、さらさらと細かな金色の燐粉となり、ぶわりと部屋中に舞い散った。

 うねる金粉の渦に巻き上げられて、卵は窓の外へと飛び出した。キラキラとキラキラと、まるで太陽のように眩く輝いた。

 残像が目の中に明滅し、金の影を残して霧散する。

 それはこの世の風景ではないようだが、さりとて地獄でも天国でもなく、こちら側とあちら側の隙間に吹いた微風のような、淡くも儚い一瞬の揺らぎであった。

 白いカーテンを潜る瞬間に見えたものは、確かに翅のある虫のような姿をしていた気がするけれど。

 しかしそれはやはり曖昧で頼りなく、確信というものから程遠い、あやふやで不思議なものであった。

「……卵は、逃がしてしまいましたね」

 青年の静かな声に、少女は我に返る。

 いつの間にか、夕暮れだった。

 本物の太陽の光が、白い病室を金色に染め上げる。

 昼寝から目が覚めた時のような気だるさが、少女の瞼の奥に疼いていた。

 パタパタとカーテンが風に揺れて、花瓶の花が少し萎れている。食べかけのケーキすらそのままで、紅茶はもう冷めていた。

 元通りの白い静かな病室だった。洪水のようだった金の粉の一粒まで、きれいさっぱり消え失せている。

 青年は何かをひょいと拾い上げた。

 眩しい夕日に、やはりそれの姿は不明確だ。

「まぁ、これだけでも充分な収穫ですがね。瞼の裏の虫とは、なかなかの珍品」

 ほくほく顔で、スーツケースに見えない虫の骸を放り込む。気づけば青年の手からは、あの刀も消えていた。

「あら、あら?」

 老婦人は、ぱちぱちと目を瞬いた。

 ぼんやりと首を傾げる様子は、まだ混乱が残っているようだ。だが、目はきちんと焦点を結んでいる。

「あ、あの」

 少女はおずおずと青年に顔を向ける。

「虫は、やっつけたんですか?」

「ええ。まもなく、おじいさまも目を覚ますはずですよ」

 確かに老人の顔には、血の気が戻っている気がする。少女はほっと息をついた。

「でも……」

 カーテンの向こう側へといなくなったもの。少女は目を細めて、金の粉の残像を追っているようだった。

「……卵は、孵ったんですね」

「あれは去りました。もう、ここには戻ってこないでしょう」

 スーツケースを抱え直し、青年は老婦人に顔を向ける。

「ではこれで、ご依頼の問題は解決、ということで、よろしいでしょうか?」

「え、あ、はい?」

 老婦人はわけがわからぬまま頷いている。

「お代は瞼の裏の虫の躯。確かに頂戴いたしました」

 大切そうにスーツケースを撫で、青年は慇懃に一礼する。

「それでは失礼いたします」

 青年はベッドに横たわる老人と、その傍らに立ち尽くす老婦人をちらりと見ると、またあの胡散臭い笑みを浮かべながら、ひらりと病室から抜け出した。

「あっ!」

 まだ呆然としている老婦人を残し、少女は慌てて青年の黒い背中を追った。

「目玉屋さん、待ってください!」

 暗い廊下の真ん中に、足音もなく佇む青年を呼び止める。

 少女が呼び止める前に、すでに立ち止まっていたように見えた青年は、まるで少女が追いかけてくるとこをはじめから知っていたようでもあった。

 青年はくるりと振り返る。

 蛍光灯の白々しい明かりが反射して、目が痛むような鋭い光がその顔を照した。

 幽霊のような白い顔。

 少女は怯えたように一瞬びくりと肩を震わせたが、青年と数歩の距離を挟んで向かい合った。

「あ、あの。おじいちゃんを治してくれて、ありがとうございます」

「いえいえ、仕事ですから」

 しかし少女が青年を追いかけてきたのは、どうも老人を助けてくれた感謝を告げるためだけではないようだ。他にも何か言いたいことがあるように、もじもじと視線を合わせたり外したりしている。

「何か、ご用でしょうか?」

 青年は穏やかな、しかしやはりどこか胡散臭い笑みで、少女を促した。

「……目玉屋さんは、妖怪とか、そういうのを、どうにかできるんですよね」

「妖怪、ですか?」

 青年はにこやかな笑みを崩さずに首をかしげると、スーツケースにちらりと視線を落とす。

 虫の亡骸が放り込まれた銀の箱。

「あなたのおっしゃる妖怪とは、この虫のことでしょうか?」

 少女は頷いた。

「そうです。目玉屋さんは、おじいちゃんにとりついていた虫みたいに、こういう変な妖怪とか化け物とかを、人間から守ったり、退治してくれるんですよね?」

 青年は肯定も否定もしなかった。

 ただ、底の見えない落とし穴のような黒い瞳で、じっと少女の顔を観察している。

「確かに、妖怪の中には人にとりつき害を為すものもあります。今回のおじいさまのように魅了されて、こちらに帰ってこれなくケースもある」

 青年は肩を竦めた。

「この虫に関して言えば、悪意というか、自我すら曖昧な存在ですから、害をなすつもりはなかったのでしょう。ただ、この虫の宿主に選ばれただけで」

「でも、おじいちゃんは、この虫にとりつかれてからずっと意識不明でした。目玉屋さんがいなかったら、このまま目覚めなかったかもしれません」

 そうですね、と青年は肯定する。

 少女は意を決したように青年に告げた。

「私、あなたに依頼をしたいのです」

「ほう、お嬢さんが?」

 青年は面白がるように唇を三日月に歪める。

「三八原りえ、です」

 少女は名乗った。

 その名を聞いて、青年はますます笑みを深くする。

「私は目玉屋です。受ける仕事は目玉に関してのみでございます」 

「はい。わかっています」

 少女は神妙に頷くと、こう告白した。

「実は私、妖怪にとりつかれているんです」

 真剣な顔は、嘘をついているようには見えない。祈るように両手を合わせて、切実に真剣に訴えていた。

「妖怪に、ですか?」

「はい。それも、目玉の妖怪なんです」

 少女は顔を両手で覆った。

「目玉屋さんには、そいつを追い払ってもらいたいんです!」

 少女の声は必死だった。

 青年は、少女の叫びのような嘆願を聞き流しながら、ごく自然な動作でスーツケースに手を伸ばした。

 鍵を外したようにも、蓋を開けたようにも見えなかったのに、青年の手には、いつの間にか例の刀が握られている。

「これはまた、面白いことをおっしゃいますね」

 言いながら、刃をまっすぐ正面に突き出す。

「……え?」

 その先には、いきなり刀を突きつけられて困惑した少女の顔がある。

「確かに妖怪は人にとりつくこともありますが……」

 青年の顔は穏やかだが、その目は握った刃と同じように鋭く光る。

「人の姿に化けて、人を欺くものも多いのですよ」

 青年の言葉に、少女はぎょっとした顔をする。

「私は人間です!」

 慌てて首を横に振る少女は、本人の申告通りにやはりごく普通に人間にしか見えない。

 青年は顔を青ざめる少女に静かに問うた。

「これは、怖いですか?」

「?」

 危険な刀を突きつけられて、恐ろしくない人間などいないではないのか。

「……刃物を向けられたら、誰だって恐いと思いますけど」

 しかし、青年は指先で刃をつうっと撫でて、少女の訝しげな顔を眺める。

「これは私の商売道具のひとつなのですが、とても特殊な刀でね。人間には、この刃は見えないのですよ」

 少女は息を呑む。

 見えているでしょう、と青年は微笑む。

 それはつまり。

「これが見えるあなたは、人間ではない」

 少女の見開かれた眼に、青年の姿が映り込む。

 少女は押し黙った。

 青年の言葉を否定することができないでいる。

「はてはて、なんとも奇妙なことですね。妖怪であるあなたが、妖怪にとりつかれるとは」

 少女は唇を噛み締めた。

 口を開いたり閉じたりと迷いに迷った後、諦めたように肩の力を抜いた。

 青白い顔のまま、ゆるりと首を振る。

「……人間でなければ、仕事は受けてもらえませんか?」

 それは、青年の言葉の肯定のようでもあった。

 青年は、少女の顔を刃越しに見つめる。

「目玉屋とは、目玉の不思議にまつわるあらゆる事が生業でございます。古今東西津々浦々、それがどんな目玉に関してでも。それがもちろん、人間であっても、人間でなくても」

 青年は刀を構えたまま、にこりと微笑んだ。

「ですが、対価は必要です」

「お金、ですか?」

 少女の言葉に、青年は肩をすくめる。

「それでも結構ですが、そうですねぇ。あなたならば、もっともっと価値のあるものをお持ちのようですが。この、瞼の裏の虫のような、ね」

 青年の持つスーツケースには、見えない虫の骸が納められている。

 常人には見えもしないそれが、いったいどれほどの価値があるものなのか、少女には想像もつかない。

「……信じてもらえないかもしれませんけど、私は本当に人間なんです。ただその、ほんのちょっとだけ、普通の人とは違うような、変な感じになっちゃってますけど……」

 ため息と共にこぼれる声は、諦めと疲れが濃い。

 少女らしからぬ苦労の気配に、青年は顎を擦った。

「ふむ。確かに、厄介な事情がおありのようだ」

 青年は刀を下ろした。

「その変な感じというのが、お悩みのもとですね。そしてそれは、あなたにとりついているという目玉妖怪の仕業、と」

 はい、と少女は深く頷いた。

「私、他に頼れる人もいないんです。どうか、お願いします。目玉屋さん、私を助けてください!」

 うーん、と、考え込む様子の青年に、少女は詰め寄った。

「私が持っているものなら、何でもお支払いしますからっ」

 少女の言葉に、青年は待ってましたとばかりの、とびきりの笑顔を浮かべた。

「ほう。なんでも、ですか」

 まさに詐欺師が仕事に成功したような顔だと少女は思ったが、しかし自分には、もう目の前の目玉屋を頼る他に術はない。

「はい。か、覚悟はできています」

 強ばる顔で、少女は視線をそらさなかった。

「あなたのその目は、とても素晴らしいですね」

 唐突な言葉に、少女はきょとんとした。

「私の目、ですか?」

 ええ、と青年は頷く。

「さっき、この虫を見ることができたでしょう。あの虫は、この世にもあの世にも存在しない、狭間のもの。この刀もそうですが、本当に特殊なので、見える人はとても稀でね。狭間の可視、本来見えないものを見ることのできるあなたの目玉は、大変に大変に価値のあるものなのですよ」

 少女は青年の言わんとすることを察して、ごくり、と喉を鳴らした。

「そ、それってつまり……」

 青年は、ぽん、と両手を打つ。

「ぜひ、私の助手になってください」

 間の抜けた音が、廊下に響いた。

「……え?」

 ぽかんとする少女に、青年はにこやかに笑いながら続ける。

「いや、ちょうど良かった。最近人手が足りなくてねぇ。バイトを探そうとしていたところなんですよ」

「バ、バイト?」

 肩透かしを食らったように少女は目を瞬かせる。

「ははは、目玉をくりぬいて寄越せとでも言われると思いましたか?」

 青年はひょいと両手を上げた。

 冗談のつもりなのだろうか。しかし切羽詰まった少女に、冗談を笑う余裕はない。

 微妙な顔をする少女に、青年はやれやれと首を横に振った。

「まぁ、あなたの目玉が目的、ということでは同じかもしれませんね」

「はぁ、そ、そうですか……」

 それで、と困惑顔の自分を指さす。

「それで私が、目玉屋? の、助手? をするんですか?」

「そういうことになりますね」

 疑問符だらけの少女の言葉に、青年は軽く頷く。

「……わかりました」

 しかし、少女が悩んだのは、瞬き三回ほどのごく短い時間だけだった。

「私の目が役に立つというのなら。私、目玉屋を手伝います」

 決意を固めた顔で、青年をまっすぐに見つめる。

「その代わり、私の依頼を受けてくれますよね?」

 少女の念押しに、青年はとびっきりの笑みを浮かべた。一瞬、承諾したことを少女が後悔しかけるほどには、その笑顔は胡散臭かった。

 しかし夕風の中に囁く彼の声だけは、しっとりと落ち着いていて、耳に心地よいのが不思議である。

「わたくし目玉屋の風渡透、あなたのお悩み、確かに承りました」

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