瞼の裏の虫 二
おみやげのケーキは目を開けない老人は当然食べられないのだが、いつもテーブルには老人の分までケーキと紅茶が用意される。まるで香りに誘われて、老人が目を覚ますことを期待しているかのように。
バタークリームたっぷりの甘ったるいケーキが銀紙に包まれて、陶器の皿に鎮座している。老婦人と少女は、ベッドに横たわる老人を囲んでケーキを頬張った。
少女は今日も学校帰りに寄り道して病室を訪れているらしく、セーラー服のままだ。
「おばあちゃん、あれ、なに?」
少女が目ざとく見つけたのは、小さな瓶だった。
親指くらいの黒い筒に、古めかしい筆文字で目玉薬と書いてある。
目薬ではなく、目玉薬、というのが妙な感じだ。
「ああ、目玉屋さんがこの間置いていったのよ」
「目玉屋さんって、あの怪しげな人?」
数日前に病室に入り込んでいた、一見ビジネスマン風の男を思い出して、少女は遠慮なく顔をしかめた。
肩書きといい、見てくれといい、怪しさしかない。
あの時はすぐにいなくなってしまったので、問いただす暇もなかった。
「そもそも、目玉屋ってなんなの?」
「さぁ、目玉屋というくらいだもの。目玉の専門家なんでしょう」
「なにそれ。眼科医ってわけじゃないんだよね?」
老婦人のおおらかな言葉に、少女はさらに顔をしかめる。
老婦人が呼んだということは知っているが、しかし医者でもない人間に、昏睡状態が続く病人の治療ができるのだろうか。
「あの人、おじいちゃんの目に虫がいるって、本当に信じたのかな?」
胡散臭い男に騙されているのではないか、そう顔に書いてある。しかし少女とて、他にもうすがるものがないのだということも理解していた。
老婦人は頬に手をあて、首を傾げた。
「でも、せっかく、時任さんにご紹介いただいたし……」
少女は老婦人が口にした、遠縁の親戚の顔を思い出しながら、肩を竦めた。
「あの人は、本当に変な人と知り合いだよね」
どうやらあの変わり者が、紹介人らしい。
やっぱり変わり者の知り合いは変わり者だと納得しながらも、少女は薬の小瓶を指でつまみ上げる。
封は開いていた。
使った、ということだろう。
効果がないだけならまだしも、もし変なものでも入っていたらという心配は、すでに遅いようである。
医者に知られたらとてつもなく怒られるだろうが、しかし、彼らにできるのは現状維持のみ。
このままぬるい停滞に慣らされていく本能的な危機感が、老婦人にはあったのかもしれない。
少女には老婦人を責めることはできなかった。
恐る恐る顔を近づけて、くん、と匂いを嗅ぐ。
薬臭いのかと思いきや、ほんのりと甘い美味しそうな匂いがした。まるで蜂蜜のようなトロリとした液体が、瓶の底にわずかに残っている。
少女の心のうちを透かすように、老婦人の曖昧な笑みは諦念が滲んでいた。
「できることは、もう全部やったわ。あとは神様にでもすがるしかないわね」
神様ではなく、ビジネスマン風の目玉屋だが。
悪質な詐欺師ではないことを祈りながら、ため息を誤魔化すように、ケーキを頬張る。
老人のケーキは当然として手付かずで、窓から入り込む冷たい風に吹かれている。冷めた紅茶の香りが病室に甘く広った。
「本当に、こんなもので治るのかな」
老婦人は否定も肯定もしない。
「効果は、薬をつけてから三日後だって言ってたわ」
「三日?」
「ええ。それまで様子を見てくださいって。効果が出た頃、また来るって」
「次にくるのって、いつなの?」
「……今日ね?」
少女は目を瞬いた。
食べかけのケーキの皿を置いて、ベッドの脇にしゃがみこむ。
老人の静かな寝顔。老いた肌には艶もなく、瞼は薄く透けるようだ。じっと観察してみても、老人の様子に変化はない。
「……おじいちゃん?」
そっと耳元で囁いてみるが、答える声はない。
老人の優しい声を、もうずいぶんと長いこと聞いていない。
件の怪しい青年を疑っていたとしても、心のどこかで期待をしてしまっていたようだ。落胆の表情を浮かべ、少女はそっとため息をつく。
「おじいちゃんのぶんのケーキ、みんな私が食べちゃうよ」
少女の指が老人の冷たい瞼に触れるのと、老婦人がふと思い出したように呟くのは、同時だった。
「そういえば目玉屋さん、薬を使ったら、目には触らないでくださいって、おっしゃっていたような」
その瞬間だった。
急に、ぷくりと瞼が膨れた。
「え?!」
突然のことに、少女は老人に触れたまま固まる。
少女が身動きできずにいる間にも、老人の瞼がどんどん盛り上がっていく。閉じた瞼……もはや、風船のようだが……の、睫毛の隙間から、涙がごぽりと溢れ出てきた。
「どうしたの!」
老婦人も異常事態に気づいたようだ。
「お、おじいちゃんの、目が……」
お医者さんを呼ばなくちゃ、と、混乱した頭でもかろうじて判断できた。
少女は震える手で、ナースコールを掴もうとした。
「……っえ?」
しかし、その手は途中で止まる。
指先の違和感。
老人に触れた指先、正確にはこぼれた涙に触れたとたん、体が動かなくなったのだ。
「な、なんで?!」
ケーキではない甘い香りが鼻についた。
さっき目玉薬をさわった時に匂った、ねっとりと絡み付くような甘い匂いだ。それは少女の預かり知らぬことではあるが、虫を惑わせ食らう花の蜜罠の匂いだった。
淡い痺れが全身を巡り、少女の体を拘束する。
「ど、どうしよう」
狼狽する少女の頭の上から、ふいに男の声が降ってきた。
「無理に動かないほうがよいですよ」
「目玉屋さん?!」
いったいいつの間に病室に入り込んでいたのか、黒いスーツに銀のスーツケースを下げた男が、相も変わらず胡散臭い笑みを浮かべてそこに立っていた。
「やれやれ、触らないでくださいとお願いしていたはずですが」
苦笑と共に肩を竦める。
「……薬が効いてきたようですね」
青年はじっと老人の顔を凝視している。
ぶるぶると震える眼は異様に膨れ上がって、溢れてくる液体は、涙のようだがよく見ればうっすらと金色の光を放っている。
ここまで瞼が膨れているのに、老人の目は頑固として閉ざされたままだ。ただ湧水が滲むように、金色の水が老人の白い頬を流れ落ちる。
また加えて不思議なことに、頬を伝って落ちた筈の水は、シーツを濡らすこともなく、頬から首に伝う間際に蒸発してしまうのだ。
「さて」
青年が少女の肩を軽く叩くと、嘘のように硬直が溶けた。どさりと床に尻餅をつく少女をちらりと見ると、青年はすぐに老人に視線を戻す。
瞼の膨らみは一定の大きさを越えると、それ以上は大きくならず、ぶるぶると震えるのみとなる。
「……よほど居心地が良いらしい。まだ居座る気ですかね」
ふむ、と考え込む。
「それとも、お嬢さんが触ったせいか……」
青年にちらりと見られて、少女はぎくりと肩を縮めた。触るな、と言われていたのだ。
「あ、あの、触ると何か……」
この状況は意味不明だが、何か不味いことをしてしまったらしいことはわかった。
「お嬢さんが触ったことで、少しだけ、あちら側に移動してしまったようです。薬がわずかに届いていないようだ」
「はい?」
しかしその説明は、少女の困惑をより深めただけだった。青年はこの事態でもマイペースに、のんびりと腕を組んでいる。
「さて、どうするか……」
青年はスーツケースを床に置くと、ぱかりと開いた。思わず覗き込んだ少女は、目を丸くする。そのスーツケースの中に横たわっていたものは。
「か、刀?」
抜き身の、鞘にも入っていない白銀の刃だった。いわゆる日本刀というものであり、少女にとっては、テレビの中でしか見たことがない代物だ。
刃はぬらりと艶に光り、優雅な波紋を描いた見事な一品であるのに対して、柄は逆にボロボロの布を巻いただけの粗雑な様相だった。アンバランスなその刀を、青年は無造作に掴む。
「ちょっと、それで何をするの?!」
まさか、老人達に危害を加えるつもりなのかと、少女は顔を青くする。
しかし、白刃がまっすぐに向けられたのは、ベッドの前に立ちふさがる少女でも、やはりぴくりとも動かない老人でもなく、それまであまりにも静かに佇んでいた老婦人のほうだった。
「おばあちゃん、あぶな」
危ないから逃げて、とでも言おうとしたのだろう。しかし、少女は老婦人の顔を見るなり、凍りついた。
老婦人の両目から、止めどなく涙が溢れている。
それは夫の流す涙よりもなお濃い金の色で、どろりと粘着性を持つ泥のような液体であった。
金の泥は老婦人の瞼を押し上げるようにして溢れだし、びちゃびちゃと嫌な音を立てて床に水溜まりを作っていく。
「やはり、こちらに移動していましたか」
「ど、どういうことなの?」
青年は特に驚くことなく、静かにその様子を観察している。
「ご主人の目と、婦人の目が繋がっていたということですよ。彼の目に居られなくなったので、婦人の方に逃げ込んだようです」
青年は目を細めた。
彼の説明は少女に理解できない内容だ。
しかし彼はそれ以上の説明をしてくれる気がないらしく、さっさと自分の仕事に取りかかっていく。
「まだ少し遠いですね」
独り言のように呟く。それからくるりと首だけを回して、腰を抜かしている少女を見た。
「お嬢さん、少々お願いがあるのですが」
「え、は、はい?」
突然の指名に、少女は目を白黒させる。青年は刀を持っていない方の手を、少女に向かって差し出した。
「早く。このままではもっと奥へと逃げてしまう」
急かされた少女は、足をもつれさせながらも青年の手を取って立ち上がる。突然のことに頭がついていっていない。流されるまま、青年の前に立つ。
「目を閉じてください」
青年の冷たい手のひらが、少女の顔に添えられた。
男のものにしては白く細い指が目隠しをして、少女の目の前からあらゆるもの消し去った。
見えなくなるのと同時に、少女の体を拘束していた恐怖が、溶けて消えた。
目を閉じれば、目の前は真っ暗である。
なにも見ないはずである。
なのに、少女の目には、その姿が見えた。
目を閉じたのに見えたのである。
いや、目を閉じたからこそ見えたのである。
「見えましたね」
心を読んだかのような青年の言葉。
それは、虫であった。
しかし老人がそう言っていたように、虫であるということ以外、どういう形容も出来ない。
色や形や、あるいは大きさや質感など、生き物を定義する言葉はいくらでもある。なのに、その虫はその何にも当てはまらず、ただ虫という概念のごく近くにへばりついているだけの、実に曖昧であやふやで、不確かな何かであった。
しかしその儚い何かはそうあるがゆえに美しく、心を掴んで離さない。
「そのまま目を閉じて、見続けてください」
矛盾としか思えない青年の声が、瞼の向こう側から聞こえた。
「こちら側に、引き寄せて」
少女の指先が、老婦人の顔を掠める。
寸前で、老婦人が身を翻した。とても腰の曲がった人間とは思えない、素早い動きだった。
少女は目を閉じたままであったが、己れの指先が目的のものからそれたことはわかった。
「目を開けないで。見失います」
青年の声は相変わらず闇の向こう側から聞こえてくる。
少女は青年の声に従い、目を開かないよう瞼にぐっと力を込める。
虫は、そこにいる。
さっき身をかわされた時に遠のいたが、見失ったわけではない。
ぼんやりと光る白い輪郭。
「もう一度、前に。私が導きます」
青年の声と同時に、閉ざされた黒い視界に、白い線のようなものが見えた。流星のようにキラキラと瞬いて、その先に導いてくれる。
これはあの刀の軌跡だと、光の尾を追いかけながら理解する。
こわくない。暗闇に身を乗り出す。手を前に、足を前に、虫を追って、闇の中へ。
「掴んで!」
少女は手のひら握りしめた。重さも熱も感触もない。しかし、確かにそこにいる。
……捕まえた。
そっと手のひらを広げる。
それは、やはりとても美しい虫だった。
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