目玉屋
@248773
瞼の裏の虫 一
目を閉じると、そこに必ず一匹の虫がいます。
私はその虫を、暗闇の中でじっと観察しています。
虫は、気づいたらそこにいました。
その虫は、私の瞼の裏側にいます。
普通、瞼の裏というやつは、ただの暗闇です。
塗りつぶされた黒だけの、何も見えない場所です。
しかし、私の瞼にその虫が棲んでからというもの、私の視界は常に何かが見えている状態となってしまい、ただ寝るにしても目を閉じると必ずそこに虫がいるものですから、私の中に本当の暗闇というものはなくなってしまったのです。
最初はポツリとした、ただの点のようでした。
しかし、それが日ごとに少しずつ膨れていくことに、ある時気づきました。
じっと見つめてみれば、それはどうやら卵のようでありました。
淡く白く透き通り、なんともいえない艶やかさの、小さな真珠のような丸みを帯びた卵です。
卵は少しずつ大きくなり、やがて静かにひびが入ると、中から一匹の虫が姿を現したのです。
その虫は当然のごとく、生まれた場所、つまり私の瞼の裏側に住み始めました。
といっても、何か食べるわけでもなく、飛び立つわけでもなく、ただじっとそこにうずくまり、ひっそりと翅を震わせるだけでございましたが。
私は奇妙に思いつつも、何故かその虫を危険とも気味悪くも思わず、ただ不思議な虫として、親近感すら覚えておりました。
例えるならば、毎日家の庭に遊びにくる野良猫を見守る気持ちでしょうか。
飼っているわけでもないのに、ただ常にそこにあるものとして、なんとなくその虫を眺めておりました。
ただ、美しい虫でした。
蝶でもなく蜻蛉でもなく蝉でもなく蟷螂でもなく蟻でもなく飛蝗でもなく団子虫でもなく油虫でもなく蜘蛛でもなく蜂でもなく、とにかく私の知るどんな虫の様子とも違っていました。
詳しく説明しようにも、私の拙い表現力では難しく、ただ、美しいというつまらない言葉しかお伝えすることができないのが残念であります。
その美しい虫は、ただ一匹で私の瞼の裏に住み始め、いったいいつからそこにいたのかもはや思い出せもせず、しかし必ずそこに居るのです。
私はその虫の存在に気づいてからというもの、どうにもその虫が気にかかり、暇さえあれば目を閉じて、じっと観察するのが癖となっていきました。
まわりから見れば、いつでも目を閉じてぼんやりしている私は、さぞおかしな人間であるように見えたでしょうね。
いけないとわかってはおりますが、なにぶん目を閉じてもそこにおり、まばたきの瞬間にすらもその虫の残像がチラチラと掠めるものですから、その存在を忘れることなど、まったくの不可能なのです。
私の虫は、美しく、そして孤独です。
生まれてこのかた、私しかこの虫を見たものはおりません。
なにしろ棲んでいる場所が場所でございますから、写真なんぞも撮れませんし、私のお粗末なデッサンなどでは、情けなくも誤解しか与えないでしょう。
私だけの、私の虫。
暗闇の中、ぽつんとうずくまる寂しい虫を眺めていると、なんとも言い表せないような不思議と幸せな気持ちに満たされるのです。
私は、この虫をもっとずっと見ていたいという衝動のような切実な願いに、支配されていきました。
それはもはや、個人の欲望などという狭い範囲にはなく、そうあるべきと、あたかもそれが世界の仕組みであるかように、私を突き動かすのです。
そういうわけで、私は瞼を開けるのを止めました。
目を開いてしまっては、私の虫が見られなくなってしまう。
この虫がいれば、他には何も要らないのです。
他のものを見る必要はありません。
もはや、この虫以外を見たくもないのです。
私のいとおしい虫。
ああ、私は幸せです。
この美しい虫と共に、永遠の孤独に埋もれていられるならば。
-- -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- -- --
「それで、ご主人が昏睡状態に陥ってから、すでに一年以上経過していると」
「はい」
項垂れた老婦人は、夫の顔から目をそらすようにして、傍らに立つ青年を見た。
「最初、虫がどうのと言い始めた時、普通の病気とは違う、何かが根本的におかしいと、ぼんやりとは感じておりました」
白い病室だった。
窓は開け放たれており、白いカーテンが風に揺れている。花瓶には、瑞々しい白い花が生けられていた。ベッドのシーツも狭い病室の壁も天井も清潔な白であったし、憔悴した表情の老婦人の上品にまとめられた髪もワンピースも、横たわる老人の顔もみんな白い。
しかし、その白い部屋に佇む青年だけは、墨を落としたように黒かった。
青年は老婦人の隣で、生命を繋ぐための半透明のチューブに絡めとられている、細く枯れた老人に視線を落とした。
老人は固く目を閉じて、ひくりとも動かない。
ベッドの脇には心音のモニタリング用の機械が、一定調子でリズムを打っている。
その音だけが、彼がまだ辛うじて生きていることを確認することができるものだった。
老婦人は地味なカーデガンの前を寒そうにかきあわせると、青年が恭しく差し出した名刺を受け取った。
その小さな紙切れの上に連なる文字列に、影に隠れた顔が困惑したのがよく見えた。
「……風渡さん、とおっしゃるのですね」
老婦人の反応は無理のないことだろう。
なにしろ、その白い紙切れに書かれた単語は、実に見慣れないものであったのだから。
「その……目玉屋さん、というのは、本当にあるのですね」
「はい。本日はご依頼ありがとうございます。わたくし目玉屋の風渡透が、あなたの目玉のお悩み承ります」
にっこりと笑って答えるのは、見た目ばかりはごく普通の青年だ。黒いスーツに銀のスーツケースと、ビジネスマンのテンプレートのような格好。長い髪を後ろでひとつに束ねているのが、少し珍しいといえばそうだが、それだけではある。年齢は、たぶん若い、としかわからないし、取り立てて目立つような顔立ちでもない。
老婦人は紙切れと青年の顔をおどおどと見比べる。
「その、もう少し年嵩の方がいらっしゃると思っていたものですから」
少し意外で、と曖昧に微笑むが、別のことを気にしているのだということはありありとわかる。
「お名前も変わっていらっしゃるのね。風渡透さんなんて、俳優さんみたいだわ」
老婦人にしてみれば冗談のつもりだったのだろう。しかし、それに答えた青年の笑みは、だいぶ胡散臭いものだった。
「ええ、偽名ですから」
「……はい?」
青年の返しに老婦人は凍りつく。老婦人は冗談なのか図りかねているが、青年のほうは悪びれることもない。
「ははは、なにぶんこういった商売なものでして、本名を掴まれると厄介なのですよ。まぁ、源氏名だとでも思ってください」
「はぁ、そんなものですか」
老婦人は名刺を持ったまま、異物を飲み込んで我慢するような顔をした。
目の前に横たわる夫の姿をちらりと見る。
その生きているのか疑わしくなる青白い顔に、意を決したようだ。
「本当に、主人の眼球に、その、変な虫が住み着いているのでしょうか」
「ご本人は、そうおっしゃられていたのでしょう?」
青年は目を細めた。
医者からは原因不明と匙を投げられて久しい。
夫の証言のために面倒な精密検査もたくさん受けたが、もちろん瞼の裏に虫などいない。ただ、夫の精神異常の疑いが深まっただけだ。
しかし、そうではないと老婦人には何故か確信めいた予感があった。
夫の言葉は本当であると。少なくとも、夫にとっては真実であると。
長年連れ添ったから知っている。
夫はこんな嘘をつくような人間ではないし、薬物依存なんてありえない。妄言の類いにしても、そこまでストレスを抱えているようには見えなかった。ただごく普通に平穏に、幸せに過ごしていたはずなのに。
それが気づいたらいつの間にか、わけのわからない寄生虫などに蝕まれていたのだ。
今はもう、目の前の怪しげな男にすがるしかないのだという必死さが、彼女に口を開かせる。
「主人の瞼の裏の虫を、追い出していただきたいのです」
「はい。承りました」
青年は、老婦人の不安をかきたてるほどには軽々しく、あっさりと頷いて見せた。
「……あの、ご依頼しておいてなんなのですけど……本当に、できるのでしょうか?」
なにしろ、そこに本当にその虫がいるのかすら定かではないというのに。
「ご安心ください。私は目玉の専門家です。なにせ、目玉屋でございますから。古今東西ありとあらゆる目玉のことを存じ上げておりますし、その困り事への対処法も心得ております」
しかし目玉屋と名乗った青年は軽く請け負うと、マイペースに話を進める。
「まずは、ご主人がこうなった、詳しい経緯を教えていただけますか?」
「はい……といっても、気づいたらこうなっていた、としか……」
老婦人はため息をつく。
「二年ほど前でしょうか。ある日、目をごしごしと掻いていたのでどうかしたのかと尋ねたら、困ったような顔で、塵が目に入って取れないようなことを言い始めました」
それだけならば、なんということもない。自然に塵は涙で流れるし、取れないならばそれこそ眼科に行って洗浄してもらえば良い。
しかし、そうはいかなかった。
「だんだんと、塵が大きくなっているというのです。塵がたまっていってしまうのならば、ちゃんと病院に行ったほうがいいんじゃないのと、その時は言い合える状態でしたが」
それから、何かがおかしくなり始めたのだという。
「これは塵ではなくて、卵だと、ある時夫は言ったのです」
「ふむ」
青年は相づちを打つ。
「それが、虫の卵だと?」
「そうだったようです」
その時、明確に夫の様子が変わったそうだ。
「心がここにないというか、目の前にあるものを見ていないというか」
老婦人は悲しげに瞼を伏せる。
「最初はきちんと病院に行くつもりだったんです。でも、卵だと言い始めてから、病院に行くのも止めて、なんだかいつも、ぼうっとするようになって」
老婦人は首をゆるく振った。
「気づくと目を閉じてぼんやりしているのです。それが、目の中にいるその虫を観察するためだったということに、ずいぶんと後になってから理解しました」
食事の時、仕事の時、喋っている時、酷いときは、車の運転中や、歩いている時でさえ。
四六時中、気づくと目を閉じている。
就寝時間は早くなり、起床の時間は遅くなる。
つまり、目を閉じる時間がどんどんと長くなるのだ。
「なるほど。それでついに、目を開けている時間よりも、閉じている時間のほうが長くなり……」
「はい。もう、一年以上も目を開けておりません」
体に異常はない。
ただ、本人の意思によって目を開けることを拒んでいる。
「虫がどのようなものか、おっしゃっておられましたか?」
老婦人は首を横に振る。
「いいえ。見たこともないような美しい虫だとしか。翅がある、というのはなんとなく言っていた気もしますが、具体的な特徴はさっぱり」
「ただ、美しい、としかおっしゃらないと」
はい、と口ごもる。
婦人から聞ける情報らしい情報は、それだけだった。
青年は腕を組む。
瞼の裏側に潜むというその虫。形も性質もまるでわからない。
最後に、ポツリと思い出したように、彼女は呟いた。
「そうだわ。確か、もうすぐ 、とかなんとか」
老婦人の小さな呟きは、ざあっ、とはためいたカーテンの布ずれの音にかき消された。
その時、こんこん、と控えめなノックが、静かな病室に響いた。
老婦人に先ほどの言葉をもう一度尋ねる前に、薄く開いた扉から少女がひょっこりと顔を出した。
「こんにちは、おばあちゃん……、て、あれ、お客さん?」
孫娘だろうか。青年の姿を見とがめると、少女はドアの前で立ち竦んだ。
お見舞いに来たら病室に見知らぬ男がいるので、入るのを躊躇っているようだ。
「あら、りえちゃん」
老婦人は表情を緩ませて、少女を手招きする。
学校の帰り道なのだろうか、黒のセーラー服に、胸元に赤いリボン。地元の中学校の制服である。
黒い髪を肩口に切り揃え、子どもから抜け出したばかりの幼さが残る顔立ちは、可愛らしい部類に入るだろう。大きな黒い瞳が、まんまるに見開かれている。
少女はケーキの白い箱を大切そうに抱えていた。
「また来てくれたの」
「うん。おじいちゃんの好きなケーキ買ってきたの」
「まぁまぁ、ありがとうねぇ」
少女はとことこと病室に入ってくる。
しかしケーキの箱を差し出す間もずっと、少女の視線は青年に注がれたままだ。
子どもははっきりと、不審を顔に出してくる。
青年は怪しいものではないとばかりに、にこりと微笑んでみせた。しかし残念ながら、その笑みはどうにも胡散臭すぎて、かえって少女の警戒心を大きくしたようだが。
「どうも。おじゃましております」
「……こんにちは」
少女は不審人物に対しても、礼儀正しくペコリと頭を下げた。
「親戚の子です。うちは子どもがいませんから、孫のように可愛がっているんですよ」
老婦人がまなじりを下げる様子から、本当に可愛がっているのだと知れる。
どうということのない、平凡な娘だった。
……少なくとも、大概の人間には、そういうふうに、見えるだろう。
すい、と青年の目が細められる。
「……これはこれは、珍しい」
思わず、といった様子で呟いた。
「あの、何か……?」
少女は見つめられていることに気づいて、青年の顔を困惑ぎみに見上げた。
「ああ、申し遅れました。わたくし、こういうものでございます」
老婦人に渡したものと、同じ名刺を少女にも手渡す。
少女は名刺に刻まれた彼の肩書きを見るなり、大きな目を丸くした。
「めだまや……?」
「どうぞごひいきに」
「はぁ」
疑問がありすぎて逆に質問できなくなったらしい少女は、ぱちぱちと目をせわしなく瞬かせている。
青年は治療はおろか老人に触れることすらなく、老婦人に退出を告げる。
「それでは、私は準備をしますので、これで失礼させていただきます。また後日、改めてお伺いいたしますので」
「はい。くれぐれも、よろしくお願いいたします」
老婦人は深く深く頭を下げる。
その後ろで、少女の目が青年を捕らえて離さない。追いかけてくる視線をにこやかにかわして、青年は病室を後にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます