ななつめ

恋というものは本能的なものだと人は言う。

光のもとでじゃれ合い確かめ合うようにただ表面的に触れ合うそれから始まり、暗闇での触れ合いへと発展していくその過程は相手が確かに自分に相応しく互いの相性が合うのかどうかを確かめているように思える。強い相手、鶏冠の大きな相手、体躯の良い相手。他の動物達とは異なり一様に決まった基準を持ち得ない人間にとってそれは確かに、大切な過程なのだろう。

だが。そんなものは間違っている。

神聖なものだ。神聖な、清らかな、何者にも穢されることの無いもの。どんな触れ合いが叶わなくともそれで満足出来てしまうそんな存在。

ただ目の前にいるだけで他の全てを忘れ、鼓動さえ止まってしまうほどのそんな存在。

跪くだけで頂点へと達してしまえる程の熱情。

動物的な組み合わせでもなく、蜂のような無差別的なものでもなく、生まれながらに定められたものでもなく、ただ、運命的な。目の前に相手がいるだけで幸福に思える人間的な興奮。

動物的な体の底から湧き上がる本能的な興奮ではなく、思考が生み出した本能の産む興奮。

そう、眼前に己だけの神がやってきたような。

「──分かるか。お前に」

一頻り語った後、男はそう言葉を紡ぐ。鋭く尖った視線が突き刺さる。

恍惚としたような声音で興奮気味に様々を語っていた男のものとは思えない視線。それまでの全てがただの演技だったとばかりの豹変。

いや、或いはこの男は常にこうだったのか。

「分かるはずだ。お前には」

此方の思考になど構いもせず男は言葉を切り返す。視線を逸らし背を向けて。男はワルツでも踊るように斜め前へ一歩踏み出し、反対の斜め前へもう一歩、それから後方へ一歩。

どこか人間に対し否定的な言葉を口にしていた男の所作にしては不自然なそれを終えた後、男はもう一度くるりと振り返る。

「──分かっているだろう?」

男が言葉を紡ぐ。

その表情はただただ冷淡なようでいて、鋭い瞳の奥には興奮がチラついている。

男が手を伸ばす。その手は此方へ伸びる事はなく、収められた世界の壁に衝突する。男は其れを気に止めた様子もなく、何かを掴む様にその手を握った。

何を手に入れたのか、男はくつと喉を鳴らしその手を自らの胸元へと持ち帰る。それから口元へ導き、手の内に閉じ込めた其れを喰らうように口を開き、舌を伸ばし、己の掌を舐め、閉じる。

手を退けた男の口元にはやはり笑みは浮かんでいない。

「お前は。分かっている」

静かに一言紡ぎ、男は何も言わなくなった。

ただ佇み男の話を聞いていた男が身を動かせばそこにいた男もまた動き出した。左右反対の同じ動きで。

男が鏡の前から消える。鏡の向こうにいたはずの男はもう存在しない。

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小噺 暖色 @tumugu1156

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