「私の可愛い人」
雪うさこ
私の可愛い人
私はミステリーヲタクだ。今のご時世、二時間サスペンスドラマの放送が減って、私としてはかなり不満であるわけだが、衛星放送枠での再放送を視聴できることが救いだ。
「また見ているの?」
大好きなおせんべいを頬張りながら「浅見光彦シリーズ」を見ていると、エプロン姿の大好きな夫——マサ君が顔を出した。
彼は私よりも六歳年下。スレンダーだけど引き締まった肉体は、乙女心が残る私には贅沢過ぎる。顔立ちもテレビに出てくる俳優みたいに整っていて、輝きに満ちた瞳は世の中のどんな女性も惹きつけてしまうだろう。
私が彼と出会ったのは仕事関係のレセプション会場だった。もともと自分の容姿には自信がない私だが、それをバネにして、大学卒業後は一念発起して会社を
男に言い寄られるなんて、人生で初めてのことで当初は困惑した。何度となくお断りをしたのに、彼は諦めずに献身的に尽くしてくれたのだった。
「家事一切は僕がやる。キミは仕事に集中して。僕は仕事に取り組んで、輝いているキミを見ているのが好きだから」
仕事に夢中になっていられる環境を作ってくれる夫なんて、そんな理想的なことはない。しかもイケメン。誰に紹介しても恥ずかしくないくらいレベルの高い彼だ。
「ミイちゃんのミステリー好きには参るね」
「そんなこと言われても、好きなものは好きなんだもん。これ見ているとね、いつ、どこで、どうやって人が殺されるのか、いろいろなパターンがあるでしょう? 私、絶対に殺されるなんてことないわよ。だって、日々の生活の中で用心しているんだもの」
「ミイちゃんのことを殺そうって思っている人間なんて、いるのかな?」
「あら、わからないものよ。いつ、だれに殺意を持たれているかなんて、当事者には理解できないものなんだから」
そう。私はミステリーヲタクが高じて、日々の生活に気を使っていたのだった。
電車には乗らない。満員電車の中で刃物で刺されたら大変だ。混雑している構内で突き落とされても困る。移動は車。運転手は身辺調査を怠らない。懇意にしている興信所を使うのだ。
食べ物にも気を遣う。気心知れた人の作った物しか口にしない。ペットボトルも新しく封を自分で切ったものしか口をつけない。
外泊も控える。外出も極力控えて、自宅にいるようにしている。一人の外出は絶対にしない。
夫はそんな私の行動を見て笑うけれど、私にとっては死活問題なのだから——。
***
「やだあ。ミイ子。太ったんじゃない? 幸せ太りってやつ?」
中学時代からの親友のアサミは、カレーを頬張りながら笑う。今日は彼女との定期ランチ会だ。用心深い私は、彼女との会合はいつも同じ店を選ぶ。インド人の店長さんとは顔見知り。従業員の素性まで調べ上げているため、安心して食事が出来る店だ。彼女のカレーはチキンカレー。私はチキンカレーに唐揚げとコロッケトッピングのスペシャルメニューだ。
「え! 仕方ないじゃない。マサ君の食事が美味しくてね、止まらないのよね」
「いいわよねえ。あんなイケメンの年下男子が旦那さんだなんて。しかも食事も美味しいときた。羨ましい限り。働く女性には理想的過ぎる旦那よね」
アサミにそう褒められる度に、優越感に浸れるのが至福の時だ。
「私が食べたいものを先回りして準備してくれるのよ」
「へえ。出来る男って感じね」
アサミは私とは対照的なタイプで、中学生時代から男子たちの憧れの的だった。凹凸のハッキリした体型。ぱっちりとした瞳。猫毛のサラサラとした髪は女性らしくて可愛らしい。
そのアサミは今はバツイチ。生命保険の外交員をしている。それに比べて私は社長だ。年収数億の会社のトップなのだ。いつも彼女に対して劣等感を抱いていたということは言うまでもないが、今は私のほうが上にいる。彼女に羨望の眼差しで見られることは、私にとって何物にも代えがたい気持ちなのだった。
「そんな愛しい愛しいマサ君のために、保険を掛けたいのね?」
「生命保険って殺人の動機にもなるでしょう? だから今まで掛けてこなかったんだけれども。やっぱり結婚すると、そうは行かないじゃない? マサ君は主婦で無職だし。私に何事かあった時に可哀そうなことになると思うの」
「恋は盲目って言うけど、本当だねえ。いいわよ。私はお客さんが増えるのは嬉しいしね」
私はマサ君が大好きだ。彼がこれから困らないようにしてあげたいのだ――。
彼と結婚してから、ミステリー熱は少し冷めている。確かにマサ君の言う通りかも知れない。人間はそう殺されるようなことにはならないと言うこと。私も人並の生活に戻ろう。居もしない殺人者に怯えて暮らすなんて、今の幸せには無用なことなのだから。
***
せっかくの幸せな時間だというのに、私の体調は思わしくなかった。
「ミイちゃん。仕事休んだほうがいいんじゃない?」
「大丈夫よ。マサ君。大丈夫。どうしたんだろう? この前の健康診断では異状なしだったんだけどな」
「働きすぎなんだよ。ねえ、今日は休んで。美味しいものでも食べてゆっくりしたほうがいいよ」
夫の優しさに眩暈がするくらい。だけど、私は仕事に行かなくてはいけないのだ。
「じゃあ、病院に行ってみよう? ね。僕のためだと思って……」
あまりにも彼に心配かけてはいけないよね……。
私は渋々、病院に足を運ぶことにしたのだ。
そしてその結果。
「高血圧症と肥満ですね。糖尿病もなりかけってところでしょうか。塩分は控えましょう。甘い物も厳禁ですからね」
医師からのお達しに夫を見る。
「今日からは塩分控えめの食事にして、おやつは体にいい物にしなくちゃね」
彼は神妙な顔つきでそう言うんだ。私はそんなもの到底受け入れがたいことだった。
「そんなの嫌よ。私は美味しいものを食べたいし! おやつも食べたい! マサ君の料理が一番美味しいんだもの! ねえ。そんな意地悪を言わないで、なんとかしてよ」
「もう、ミイちゃんは我儘なんだから。出来るだけミイちゃんの好きなようにしてあげるよ。でも僕の気持ちも察して欲しいな。ミイちゃんに、もしものことがあったら——僕は到底生きていけないよ」
「マサ君……——」
私は夫が大好きだ。なんでも私の我儘を聞いてくれる。笑顔で、その大きな手で私の頭を撫でてくれる。私は夫が大好きだ。
***
「まさか、こんなことになるなんてね……」
「藤田さん。トイレでお亡くなりになっていたんですってよ」
「脳出血であっという間ですって。お若いのに……血圧が高かったらしいわよ」
弔問に訪れる人々はそう囁き合っている。その言葉は僕の耳には心地よく響いてきた。若い人の葬儀というものほど陰惨なものはない。参列する人々は、若くして未来を失った故人を憐れむからだ。
「あの、気落ちしないでくださいね」
「これからの人生を大事に生きていくのが、藤田さんへの弔いですよ」
僕は「ありがとうございます」と深々と
藤田ミイ子という女性は、酷く
ひいき目に見ても決して「美人」とは言い難い様相の彼女は、異性に対して奥手であるため、騙すのも造作ないと思ったのだ。
彼女の彼氏に居座り、それから結婚までもっていくのは容易なことだった。好みでもない女性相手に夫の立場を演じるのは面倒なことでもあったが、それも彼女の持つ莫大な資産を目の前にしたら、どうでもいい苦労だった。
ミステリーヲタク。自分は常に命を狙われているのではないかという被害妄想を持っていて、周囲に気を許す女性ではなかったミイ子。接点を持った人間の素性を全部調べ上げたり、人から出されるものを口につけることをしなかったり——。
まあ、それだけ彼女が抱えている金は、人の命一つでは足りないないくらいの額であるということは、既成の事実なのだが。
僕はその彼女の性質を利用し、逆手に取ることに成功したのだ。
そう、すっかり彼女のパートナーとしての地位に入り込み、僕だけを信用させることに成功させたのだった。
「保険金の件で来ました」
葬儀も終え、すっかり一人になったマンションにやってきた、ミイ子の友人のアサミは笑顔だ。
「やあ。苦労かけるね」
「それにしても人が悪いわね。本当に。ミイ子は幸せ者よね。マサ君に甘やかされて、そして死んでもなお、マサ君にお金を残せたんですものね」
「そうだね。ミイ子は本当にいい女性だった。短い付き合いだったのが残念でならないよ」
「まあまあ、よく言うわねえ。好きなもの食べさせて、太らせて、高血圧にして。そして脳出血。あなたが殺したようなものじゃない」
アサミは目を細めて笑む。その笑みは意地悪で、小悪魔みたいで、僕の心をくすぐった。
「人聞きの悪いことを言わないでくれたまえ。僕はあくまで献身的に彼女に尽くしてきたでしょう? 彼女の望むがままにしてあげたんだから。悪意や殺意があったわけではないのだよ」
アサミはミイ子が嫌いだった。金と権力に物言わせて、友人という名の主従関係を押し付けてくる女だ——と話していた。
僕たち二人は秘密を共有している。これは一生、墓場までもっていかなくてはいけない物だけれど、まあ彼女もお払い箱になるならば、その時に考えればいいことだ。
この犯罪の立証は難しいはずだ。なぜなら、僕は彼女を思ってしたことだからだ。そう。彼女の望むものを食べさせていただけだ。いつ彼女が死ぬかなんて、気の遠くなる話しかもしれないが——思ったよりもその時が早く来てくれて助かった。
本当にミイ子は夫思いの良き妻で、僕は彼女を心から愛している。
—了—
「私の可愛い人」 雪うさこ @yuki_usako
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