一夜

茜あゆむ

 明けるまでそれとは気付かないものを一夜と呼ぶのでしょう。彼――ヨハンナがサナトリウムへやってきた日の夜は、ひどい雷雨でした。庭へ寝台を並べた、あたたかな午睡の中で、ラジオはたしかに来たる遠雷を告げていたのですけれど、昼下がりの陽光に、私たち――ナースの気も緩んでいたのでしょう。

 邸宅から車に乗ってきた彼は、療養所へ来た時には、既に軽い熱を出していました。白髪の運転手が扉を開けましたけれど、ヨハンナは気だるげに身体を座席へ沈ませるばかりで、一向に下りてくる気配がありませんでした。灰色の曇り空の下、枯れ風を浴びながら彼の到着を待っていた私たちは、困惑の面持ちで顔を見合わせました。当院の責任者であるジュダス医師が車のそばに寄り、ヨハンナの額に手を当てますと、医師はすぐにこちらへ振り向いて、私たちを呼び寄せました。

 その場にいたのは私と、婦長のルシア氏、メイビス、クロエの四人でした。やせっぽちで背の高いメイビスは相変わらずお酒の匂いをさせていましたし、新人のクロエはおどおどするばかりで、動けるのは私とルシア氏だけでした。

 車に駆け寄ると、運転手のポマードの香りが、芬々と香っておりました。それは車内からも漂ってきて、私とルシア氏は思わず顔をしかめました。けれど、不思議なことに、ヨハンナの姿を見た途端、そのようなことはまったく意識にのぼらなくなりました。遠目に眺めていた時、彼の白い身体はまるで壮麗なギリシャ彫刻のようでした。目の前にいる彼の姿は、その印象と寸分の狂いもなく、存在していました。ギリシャ彫刻など当然見たことなどありませんが、流麗な肢体を投げ出して、固くまぶたを閉じた姿は我を忘れるほど美しかった。金髪青眼で、磁器人形の肌よりも白い肌、細くしなやかな指は、彼の両親が悪魔と契約して形作ったのだと言われても、何の疑問もわかないほどでした。その美貌が、私とルシア氏の前に呆然と横たわっていました。そして、恋に落ちた乙女の一秒がそうであるように、時はひどく張り詰め、重く苦しく、時計の針を遅らせました。

 それはヨハンナがその冷ややかな瞳を薄く開き、視界に私たちを捉えるまで続きました。血も透かすほどのやわらかな肌の切れ目がそっと開き、まつげの深い影の中で、青玉の瞳はこちらを睥睨したのです。隣に立つルシア氏の、はっと息を飲む音が聞こえ、その時になってようやく、一秒は一秒として時を刻み始めました。

 風の強い日でした。夜になるにつれて、天候は悪くなり、その日の午後は、酒飲みのメイビスが頭痛を訴え、談話室のソファでずっと横になっていました。

 ヨハンナに見入られて、私はなぜだか、そのようなことを思いました。

 けれども、鈍色の雲が切々に飛ぶ療養所の玄関に、私とルシア氏は立っていました。

 ジュダス医師が告げます。ヨハンナを病室へ連れて行くように、と。私とルシア氏は今度こそ、我に返りました。ルシア氏は腰を屈め、車の中へ上体を差し入れます。大柄なルシア氏は、そのままヨハンナを抱きかかえるつもりだったのでしょう。

 ですが、ヨハンナはそれを拒絶しました。何かを呟いたように聞こえましたが、小さな声は私の元までは届きませんでした。ルシア氏は一瞬固まり、すごすごと引き下がりました。車のサスペンションがぐゆりと反発し、揺れた車内で、ヨハンナは濡れた青玉を眼窩にとざしました。

 ルシア氏はジュダス医師に指示を仰ぎます。ヨハンナの潤んだ瞳は疑いようもなく、熱病患者のものでしたから、空気の悪い車内に留めておく訳にはいきません。

 今度はジュダス医師が、車の前に立ちました。医師はルシア氏のようには車内に立ち入らず、開いた扉の前で膝を曲げました。ヨハンナはまぶたを固くとざしたままです。

 ジュダス医師を横目に、私はこちらへ寄ってきたルシア氏に尋ねました。ヨハンナは何と呟いたのか、と。ですが、ルシア氏は答えてくれませんでした。血の気の引いた青い顔をして、ふるふると首を振るばかり。豪気な性格のルシア氏が怯えている様子だったのが、とても不思議でした。スラングを流暢に操り、暴れ出した一人前の大人の患者さえ平気で押さえつけるルシア氏です。そんな彼女が一言の悪罵で気を削がれるとは到底考えられません。私は一層興味をそそられ、ジュダス医師の肩越しに、ヨハンナを覗き見ました。私は、彼が魔力を持っているのだ、と思っていました。見入られた時、時間が止まったように感じたのは、きっと美しきヨハンナの魔法なのだ、と。

 まず、彼の腕が見えました。青い血の通う細腕です。柔肌に浮き出た青い筋は、遠目に静止しているように見えました。それはしとやかに腕を昇り、前腕から肩へと続いていくはずです。私はさらに身体を丸め、ほとんど覗き込むようにして、車内へ視線を通しました。喉仏のない未発達な喉が、唾でも飲み込んだのでしょう、ごくりと上下しました。私は深く、身体を沈み込ませます。喉へと嚥下物を送り出した唇がわずかながら見えた瞬間、彼は今夜死ぬのだ、と私は直感しました。渇き、ささくれだった紫色の下唇に、彼の白っぽい舌が触れ、割けたささくれからは濁った血がゆっくりと滲みました。ヨハンナは噛むように下唇を含むと、苦しそうに眉を寄せ、そして脱力しました。彼の身体は容れ物としての役割を終えようとしていたのです。

 ジュダス医師が私に声をかけました。

 気絶したヨハンナを抱え、連絡路を渡る私は、木張りの廊下がぎしぎしと音を立てるのを嫌いました。字義通り、羽のように軽い彼の肉体は、もう二度とおだやかな眠りを夢見ることはないでしょう。だからこそ、眠りをそびやかす何物をも、私は厭いました。

 私は、ヨハンナをベッドへ寝かせ、枕元に水差しとコップを置き、病室を出ようとしました。扉を閉める時、振り返ると雲の隙間から天使のはしごが差し込んでいるのが見えました。光帯はヨハンナの横顔にかかり、豊頬の産毛をきらきらと輝かせます。

 療養所において、死はそれほど縁遠いものではありません。おやすみと別れた次の朝に、道が隔たっていることなど珍しくないのです。ひんやりとした固い皮膚に触れた時の、出し抜けに話しかけられたような驚きと、過ぎ去っては消えていく一瞬の恐怖の感覚。それに慣れることは、恐らくないのだと思います。けれど、やり過ごすことを少しずつ覚え、私は泥のように無感覚になっていました。絶えず忍び寄る死の気配におびえず、たゆまず、日一日を送ることの困難を、私は知っているつもりです。

 私はヨハンナから離れられずにいました。意志が身体へ作用することをやめてしまったようでした。冬の朝に訪れる無気力の風が、私の心の中を吹き過ぎていきます。

 ですが、ヨハンナの黄金色の産毛がやわらかく彼の素肌を守っている様子を見ていると、不思議な感覚が胸の内から湧いてきました。私がこの光景を見守り続ける限り、彼と彼の病室が移り変わっていくことはないのだ、という感覚です。時の流れも移ろいも、死すら堰き止めて、ヨハンナを守る壁になることを夢想しました。

 けれども、それは容易く破られました。むずがる声がして、ヨハンナはかすかに身動ぎました。私のはかない想像はこうして、潰えたのでした。

 私はゆっくりと扉を閉めました。彼の夢が弾けてしまわないように、音もたてず、ただしめやかに……。


 夜の見回りを終えて、私は談話室へと戻る途中でした。窓の外には暗い夜の帳が下り、夜の暗幕の下では緑金色の稲光が幾筋も駆けていきました。雨は息もできないほど濃密で、屋根の下にいても、身体が重く濡れていくような気がしました。雨音はどこにでも満ちていて、私の全身に叩きつけるようです。逆巻く風と波とが、絶え間なく嵐の音を響かせ、そびやかします。激しい嵐の中では、雷鳴すら遠く隔たっておりました。

 西棟にいた私は、近道のつもりで温室に足を向けました。本来なら、ジュダス医師に固く入室を禁じられているのですが、私は一刻も早く談話室へ戻り、誰かと言葉を交わしたい一心だったのです。

 温室は、コの字型をした療養所の中庭にあり、西棟と東棟を結んでいます。私は温室と西棟をつなぐ扉に手をかけ、そっと開きました。前々から、きしんだ蝶番が甲高い音を立てるのを聞いていましたから、その時も、近道をしたと知られないよう、ゆっくりと扉を押したのです。

 瞬間、空が光りました。温室の厚い硝子の向こうで、夜の天上を紫金のじぐざぐが駆けていきます。遅れて、雷鳴が弾着し、抑えていた扉は地響きのような音で、びりびりと震えました。温室中の硝子が雷鳴に共振し、悲鳴を上げています。

 私はその一瞬に、温室へ身体を滑り込ませました。蝶番の叫声は、嵐の夜の影に紛れて消えました。

 温室の中は、雨垂れの音響がひびいており、駆け回る子どもの足跡が温室の屋根の硝子に見えるようでした。鬱蒼と繁茂した植物の濃緑のために、角燈の灯りはひどく黄ばんでおり、青灰色の空と、濃緑の温室と、橙色の蝋燭の火とが、小宇宙の元素のように混沌と、そこにはありました。

 ふいに、頬を冷たい風が撫でました。はっとして、喉から漏れた息が白く濁って、私の目の前を染め上げます。霧がかった視界の端で、真白のシーツのような亡霊が茨の垣根に身を隠したのは、きっと私の呼気の尾ひれなのでしょう。

 私はほとんど駆けるようにして、温室を抜けました。談話室へ繋がる扉の蝶番は、やはり高く鳴りましたけれど、私は音を気にする余裕もありませんでした。背後で、扉が閉まる音がしました。

 上ずった呼吸を整えていると、息を吸う気配がして、くらやみに緋い火が灯りました。甘い煙の香りがして、私はそれがルシア氏の煙草の火だと理解しました。角燈を掲げると、ルシア氏は眩しそうに目を細め、私の足元を目で差しました。ルシア氏に誘われるまま、視線を下げると、床には泥が落ちており、それは私の靴跡の通りの形でした。知らず、温室の土を踏み、それをそのまま持ってきてしまったのでしょう。ルシア氏は紫煙を吐いて、彼が、と言いました。彼が呼んでいる。

 彼女はそう言うと、こちらへ背を向けました。私がぼんやりとしていると、ルシア氏は持って来たモップで、私を掃くように軽く叩きました。私は靴の泥を落とし、すぐに廊下の突き当りにあるヨハンナの病室を目指しました。

 談話室では、メイビスが鼻歌を唄っていました。談話室から、廊下から、彼女の歌声が雨音に紛れて、軽やかに響きます。雨と風との隙間に、メイビスの調べが朝日のように差し込んでいました。

 私はヨハンナの病室の前につき、ノックしてから、扉を開きました。中から蝋燭の灯りがこぼれ、咄嗟に影が部屋を横切るのが見えました。

 私は自らの名を告げて、中へ入ってもいいか、尋ねました。雷光が一瞬、思考を遮ります。ヨハンナからの返事は、雷鳴が届くよりずっと遅く、メイビスの歌よりも、かすかなものでした。

 私は麗しい少年の声をたしかに聞き届けて、室へ身体を滑り込ませました。些細な音すらも、この感じやすい少年の身体に響くのではないか、とどこか神経質になっていたのでしょう。彼は今夜こそ死ぬのだ、と悟り切っていたにもかかわらず、私はそれを信じ切れずにいました。

 彼は扉を閉めるよう、言いました。閉め切ると、廊下から漏れ聞こえていたメイビスの鼻歌はまったく聞こえなくなり、部屋を嵐が満たしました。それでも雷は遠くなり、深更の濃密な気配は既にピークを過ぎていたのですけれど、怯えたように枕にうずもれた彼は、それを理解しているようには見えませんでした。蝋燭の弱々しい光に照らされたヨハンナは、昼に見た時よりもたしかにやつれていました。眼窩や頬に刻まれた陰が、深く彼の芯や核にまで届いている気がしました。それが、死の手であるのでしょうか。彼は影に抱かれ、蝋燭の火の向こう側で、ぎらつく熱病の瞳で私を睨んでいるようでした。

 私は角燈の火を吹き消し、寝台へ歩み出しました。が、彼の声が鋭く、それを制しました。私は尋ねます。ヨハンナは、灯りを、と返しました。灯りを絶やしてはいけない。私は顔ごと蝋燭の方を見ましたが、彼は、灯りを、と呟くばかりです。

 風が鎧戸を叩き、古ぼけた療養所には隙間風が気配のように、そっと忍び寄ります。火の穂はその気配に揺れて、身をもだえさせました。私は枕元で灯る蝋燭へゆっくりと近付き、角燈へ再び、火を点けました。その灯りをもって、彼の顔を照らすと、ヨハンナはうっとりと、濡れた瞳で角燈を見つめました。

 私は寝台の天蓋に角燈を提げ、ヨハンナをそっと横にしました。絹の上着は水のように冷たく、なめらかでしたが、彼の身体はどこまでも熱病患者そのものでした。むっとする人いきれのような熱は、枯れて渇ききっており、触ると手に熱が移るようでした。枕元に置いてある水差しは既に空です。

 天井を仰ぎ、角燈を見つめていたヨハンナは、出し抜けに口を開きました。あなたはもう分かっているだろうけれど、私は死ぬでしょう。と、先ほど鋭く叫んだ熱はすっかり冷めて、透明なグラスのようでした。硬く、触れるとつめたい。声は、そのような手触りでした。

 私は答えません。答える言葉を持ち合わせていないのです。ですから、ただ待ちました。ヨハンナが次の言葉を話し始めるのを。

 私はヨハンナの白い腕を清潔なベッドカバーの上に揃え、天蓋の中へ差し入れていた自らの身体を、ベッド横に置かれた猫足の椅子に預けました。彼は吊るされた角燈を星を見る子どものように見つめ、幼く丸い面立ちを灯りに晒していました。私は、彼が私をなぜ呼んだのか、問うことをしませんでした。尋ねれば、答えてくれたでしょうけれど、きっとこれから話すようなことは教えてくれなかったに違いありません。

 ヨハンナは私の方へと顔を傾けました。鼻梁の際がゆっくりとこちらへ倒れ込み、左目の長いまつげが影を落とす青い瞳まで、私の視界に入りました。彼は、私が揃えた右手を、シーツの上を滑らせ、私の方へ差し出しました。いえ、私に手を差し出すように、手の平を開いたのです。その間に言葉は一言もありませんでした。初めて彼を見た時のように、顔を傾ける仕草や、こちらへ手を伸ばす姿がゆっくりと、ただゆっくりと時の流れに逆らうように、見えました。人は誰しもがそうなのでしょうか。美しいものを眺めるとき、時の流れというのは神や宇宙の理を離れ、その人のものになるのでしょうか。人が美を感じるとき、時間というものは人の支配を受け入れるものでしょうか。

 知らず、私はヨハンナの手に手を重ねていました。もう、彼の手は熱くありませんでした。ヨハンナは私の手に顔を寄せ、まぶたを閉じます。あなたは私の姉によく似ている。あなたの手からは、姉の匂いがする、と。

 私の姉は綺麗好きで、いつも湯に薔薇の花弁を浮かべていました。それを日に三度も四度も繰り返すので、姉からは薔薇の香りがしたものです。姉はうたた寝の常習犯でしたから、バスタブの中で眠ってしまうこともしょっちゅうでした。肘までを濡らした侍女が、姉を抱え上げては文句を言いましたが、それでも姉は懲りずに長湯をしては眠り呆け、侍女の小言を子守唄にしていました。あなたは姉に似ている。姉によく似た香りがするのです。薔薇のそれではなく、姉がかもしていた雰囲気や気配。木枯らしが巻く枯葉のや、書斎の古本の、それに午睡の夢の中に見る斜陽の光の寂寥の香りです。どうか教えてほしい。あなたに、何があったのかを。いや、性急に過ぎるでしょうか。それよりも、私の姉がなぜ、あれほどまでに湯浴みが好きだったのかをお話ししましょう。その方がきっといい。姉が入浴する際、侍女は絶対に浴室から離れませんでした。そのように父に固く厳命されていたのです。姉は一度、浴槽の中で自殺を図りました。剃刀で自らの腕に傷を付けたのです。けれど、死ぬには程遠かった。また、姉のすることですから、傷も浅かったのでしょう。とにかく、姉はそのような経緯から、浴室はおろか自室においても、一人になることはありませんでした。姉のいる部屋には、必ず誰かほかの人間が同室し、姉のことを見張っていたのです。私が気付いた時には、全てはそのように執り行われていました。まだ幼かった私は、それを常識として、育ちました。姉はよくぼんやりとしていました。侍女を横に従えて、自室の窓辺に座っている姿を覚えています。というよりも、それ以上に能動的に活動している姉を、私は見たことがありません。そして、これは姉が亡くなったあとに知ったことですが、彼女は父に服薬を命じられていたそうです。精神を安定させるため、姉は白の錠剤を日に三度、服していたのです。それも全て、入浴中の自殺まがいのせいだったのでしょうか。……しかし、あなたには、もう分かっているのではないですか? あなたは、姉の秘密に気付いてはいませんか? 呆けた姉は薬を飲んでいた。薬は自殺を企てた姉の精神を落ち着かせるためのもの。では、彼女が自殺を図った理由とは、何だったのか。私が姉だと信じていた人物は、実は私の母だったのです。父は実の娘と通じ、私を産ませました。私の異様に白い肌は、その罪を示すものなのでしょう。幼い頃から身体は脆弱で、病んでばかりの少年時代でした。枕元に母が立ったことはなく、メイドとかかりつけの医者が、ただ死んでいないことを確かめるが如く、眠る私の顔を覗き込みました。父と姉の、血が濃すぎるが故の私の不調、機能不全は近親姦という暗く、後ろめたい行いを、かえって際立たせたでしょう。姉は病み、蝕まれた心を、薬によって硝子のケースに閉じ込めてしまい、そこから出てくることはありませんでした。父は狂信故の災禍のためか、舞台の観覧中に、一人の男に殴り殺されました。幸い、遺産は代理人を立て、しかるべき時に私が相続することができましたが、広い邸宅に私と母、この場合は姉の、と付け加えるのが相応しいでしょうか、それと、ろくに会話もできない実母――姉の三人が残されました。私の枕元には、連日、数多くの親戚が訪ねてきました。それまで忌み子も同然に扱われてきた私を、今度は食い物にしようと、彼らはやってきたのです。私に、それを御する能力などありはしませんでした。じきに私が力尽き、為す術もなく、邸宅を追われることになる、そう確信した日のことでした。姉が私の部屋を訪ねてきたのです。私が姉の美しい発音を聞いたのは、その時が初めてでした。芝居めいた古式の発音は、時を経てから、私が観劇した古典演劇そのものでしたが、たしかにそれは古代の巨躯たる叡智へと接続するにふさわしい魔術の一端でありました。彼女は私の、そして彼女たちの苦境を差して、如何なる挽回の機会があるのかを、私に尋ねました。が、私に答えられるはずもありません。私が黙していますと、彼女は薄笑いを浮かべて、では、私がどうにかしてご覧に入れましょう、とそう言いました。どのように、と私が尋ねると、彼女は次の新月の夜、私の部屋を訪いなさい、とだけ告げて、去っていきました。新月は三日後のことでした。私は高熱を理由に来客を断り、その三日間、姉のことを考えていました。姉の妖しく美しい三日月形の薄笑いを何度も思い浮かべ、有明けの月の痩身にそれを重ねて、疼くような動悸を静めました。それまでの私が知る姉は、窓を眺める横顔と、焦点の合わない目を細める微笑だけでした。姉の変貌ぶりに、私は動揺していたのでしょう。服薬していたと知るのは、まだ先のことでしたから。はたして、新月の夜が来て、私は姉の部屋を訪いました。私は一人で、夜の、言葉通り月のない、真空のようなくらやみの廊下を歩いていました。私の部屋から姉の部屋までは棟の反対まで渡らなければなりません。濃紅の羊毛のカーペットがワインをこぼしたように黒く染まり、代々受け継がれてきた骨董品や蒐集品の品々があたたかなくらやみに安寧を見出していました。見知った邸宅も、光のない闇の中にあると、それは当然、どこにでもあるありふれた闇黒へ変わり、その濃淡の境目を一線とし、越えることのないよう唱える警句が、四方のくらやみから発せられていました。警告をたしかに感じながら、それでも歩を進める私は、既に魅入られていたのだと思います。手をかけた姉の部屋の扉の取っ手は、鋭い金属音を立てました。道すがらの記憶はほとんど残っていません。ただ、先ほど述べた通りのことを、ぼんやりと覚えているだけです。私が姉の部屋に入ると、そこは月灯りを受けて、白く映えていました。銀色の霜柱の立つ床を踏み、私は寝台へと引き寄せられます。調度品の数々も、寝台の鏤刻も、絹布の光沢も、すべて月の光を浴びて、ただ白く、漂白されていました。全てとのかかわりを失い、無意味へと脱色された全てが、そこには整えられていたのです。姉は寝台にはおりませんでした。幾重も白銀の月光を反射した部屋で、姉の姿を認めることができませんでした。そうして、私はようやく息をつきました。くらやみを経て月灯りの下に迷い込み、姉を見失った途端に、私は自分が姉をおそれていたことを知りました。姉の不在に安堵を覚えた自分を、私は自嘲しました。一家の当主としての自分と、白く弱い柔腕の自分の圧倒的な断絶を、この時、ようやく意識の内に認めることができたのです。私は笑いました。恐らくは姉がそうしたような、三日月形の薄笑いを笑ったのです。私の意識は内側に向かいました。消えた姉のことなど忘れ、ただ自らの自己認識と外部からの評価の乖離を思い、弱さを強さへと変える術について、もはや私ではなく、家を守る主として考え始めていたのです。けれど、そうした私の領土は侵されました。姉の部屋を後にしようときびすを返した時です。いつも姉が窓を眺めていた椅子に、仄暗い影が座っているのが見えました。影は月灯りのベールの中にいても、ぽっかりと月光の幕に空いた陥穽のようでした。そして、それは唐突に私に語りかけました。影は自らを使者と名乗りました。あるいは、助言者であると。一層小暗い穴の中で紅い舌を蠢かせ、影は滔々と語り続けました。それは、本のしみであり、口蓋のしわであり、脳髄のみつなのだ、と自らを称しました。使者であり、助言者である所以はそこにあるのだ、と。それを聞いた瞬間に、姉が私に見せたかったのは、この影なのだと理解しました。私はもう一度、姉の寝台へと振り返りました。シーツには鮮血の染みが浮かび、けれど染みは既に乾いていました。姉は影を呼び出すために血を捧げ、私の隣に彼、と私は呼びます、彼を据えたのでした。影は言いました。いかなる窮地においても知恵を貸し、生命の果てには肉体の枷さえ時の虜とする。やがて時は寄り集い、磨滅する魂の紅粉を蝟集する。その誓約を交わすために、姿を見せた、と。影は、名をメフィストフェレスと告げました。私は彼を受け入れました。あるいは、それは嘘であったかもしれません。けれど、彼は私の横に助言者としての位置を占めました。私は、彼の知恵によって窮地を脱し、彼の魔力によってこの脆弱な肉体から解放されました。私の熱のない身体に触れたあなたなら分かるでしょう。この身体は命の営みを外れ、時の虜となりました。生命は己自身の振り子を持ち、固有の時間を生きるものであり、よって私の生命は時の遥かな流れに従する歯車なのです。私の命の熱は、長大な時という上位次元の空間に発散し、戻ることはありません。けれど、私は長く生きすぎたのでしょう。私が通り過ぎてきた時が、今になって、この身体の元へ集いつつあります。メフィストフェレスが言ったように、私の魂は激しい時の収縮によって千々に砕かれ、鮮やかな紅粉へと変わるでしょう。あなたは、私がなぜこのようなことを伝えようとしているのか、疑問に感じていることと思います。私が、自らの運命を伝え、残すことは彼との約束だったのです。彼は既に亡くなりました。私が、永遠の命、魂の主であることを望んだために彼を殺さねばなりませんでした。その愚かさに気付いたのは、彼を殺した後でした。無限の猶予を得た私の、唯一の友たり得たのは彼だけであったのに。しかし、そのことはもう良いのです。私はあなたに伝えてほしいのです。ある一人の男がいたことを。悪魔と契約し、肉体を淘汰し、命を欺き、魂の寄る辺までを失った、その顛末を。影はこう言いました。私には全て見えていた。あなたの姉の末路も、あなたに仕えた私自身の行く末さえも。あなたを領主に押し上げることも、あなたに殺されることも、私の瞳には既に見えていたことだった。全ては経験されたこと、現世にあらわれるのはその影なのだ、と。彼はその時には影であることをやめ、人の形をしていました。出会った時の、影に口の裂け目が付いただけの単純な生き物であることに飽きたのでしょう。彼は鏡に映らず、陽の光さえも嫌いましたが、私の隣にいるときはまるで友人のように寄り添ってくれたものです。しかし晩年の彼は埃の積もった薄暗い書斎に籠もり続け、何かを調べていました。彼の千里眼をもってしても見えなかったもの、経験の影である現実とは異なるもの、もしかすると、彼はそういったものを探していたのかもしれません。ああ、私は少ししゃべりすぎたのでしょうね。割れ鏡が欠けていくようです。こぼれていきます。私の魂も、その形さえ失われていく。理を外れた魂はどこへ行くのだと思いますか。今なら愚かな私にも分かります。私の魂は、流れゆく時と共に、決して止まることのない大河の中の一滴として、もう一度生まれ直しましょう。ああ、青き美しき川の流れよ。

 メイビスの歌声が耳に届きました。顔を上げると窓の外は穏やかな黎明の空色で、嵐が過ぎ去ったことを、その時ようやく知りました。私の手の平の中には、薄くしなやかだったヨハンナの白腕があり、そこには既に熱はありません。私はいつの間にか、眠っていたのかもしれません。私は猫足の椅子から立ち上がり、再び、彼の腕を真白いシーツの上に整えました。まぶたを閉じ、クッションに身体を預ける姿は蝋人形のようにのっぺりとしていました。ただ平坦で奥行きのないもの、肉の塊となり果てた人の、死体。彼は見知ったものへ変わっていました。

 ルシア氏に伝えなくては。ヨハンナへ向けた視線を剥がし、きびすを返したところで、ノックの音が響きました。クロエがこちらへ声をかけます。私はクロエに入るよう促しました。水盆を抱えたクロエは慎重に扉を開け、私の姿を認めて、安堵したように笑いました。夜通しつきっきりでしたね。様子はどうですか。若いというより幼い声は、薄暗い、夜明け前の室に、はつらつと響きました。彼女の開けた扉の隙間からは、メイビスの朗々とした歌が聞こえます。

 クロエは私の側へ寄り、ヨハンナの顔を覗き込みました。彼女は異変を感じ取ったのか、一瞬固まり、私の顔をじっと見つめました。私はクロエの視線を避けるように顔を背け、言うべきたった一言が、喉に詰まるのを感じました。亡くなった。そう告げて、クロエにルシア氏を呼んできてもらわなければならない。不意に嗚咽が聞こえ、クロエが涙をこぼしました。水盆に張った水鏡に波紋が広がります。私は自分の呼吸が乱れるのを感じました。クロエは固くまぶたをつぶり、深い皺の間から乳色の涙を流しました。窓の外の空は灰白色へ変わりつつありました。私はクロエの肩を抱いて、何度も大丈夫と語りかけます。震える肩を撫で下ろし、大丈夫、大丈夫と唱える内に、私はこの子が私のために泣いてくれているのだ、と感じ始めていました。やわらかな若い魂は繊細で人懐っこく、誰かのために涙を流すことを厭わないのです。私は扉の隙間から、メイビスに声をかけました。ルシア氏を呼んでほしい、と。途端に歌声はやみ、静寂に足音が続きました。窓硝子を嵐の後ろ髪が揺らし、療養所は楽器のように震えました。クロエの涙は幾滴も水盆にこぼれ、おだやかな水のおもては乱れました。クロエ、と私は声をかけます。何も泣くことはないではないですかと。けれど、クロエは確かな力で首を振りました。私もいつか感じなくなるのですか? この鮮烈な痛みを私も忘れるときが来るのでしょうか。私はそれがただただ恐ろしくて、涙が出るのです。

 したたかな足音が近付いて、ルシア氏が部屋へ顔を出しました。まず嘆息が聞こえ、ルシア氏は、お疲れさまと私の肩を叩きました。ルシア氏の後ろを付いてきたメイビスは一口酒を呷ると、その茶色の小瓶を私にくれました。私はメイビスがそうしたように、ウイスキーを含んで、飲み下しました。陽だまりの熱がゆっくりと喉を下っていって、みぞおちにほのかに火が灯りました。私はクロエにもそれを勧めましたが、ルシア氏に叱られました。

 ルシア氏はヨハンナの手を胸の前で組ませると、私の方へ振り返って、少し休みなさい、と言いました。クロエに手を引かれて、部屋を出ました。談話室のソファに座らされ、私は横になり、クロエの持って来た毛布を受け取りました。外からは淡い朝日が差し込んでいます。私は頭から毛布をかぶり、身体を丸めました。談話室と病室を行き来するナースたちの足音が、私の心臓のリズムとまったく同じで、私は毛布の中で声を漏らさないように笑うのに必死でした。

 やがて、ジュダス医師が登院して、温室の扉の前で立ち止まります。温室には入らないでくれと言っていただろう。ジュダス医師には珍しい厳しい声に、私は起き上がろうとしたのですけれど、すぐにクロエの声がして、

「すみません、私です」

 ジュダス医師は割れた鉢植えを抱え、気を付けてくれたまえ、とクロエを注意しました。

 メイビスとルシア氏が、何か言おうとするのを再びクロエが止めて、西棟へ駆けていきます。一拍置いて、メイビスとルシア氏が嘆息しました。私は今度こそ笑いをこらえることができず、ふっと吹き出しました。けれど、ようやく眠りにつくことができるのだと、そう思い、ぎゅっと閉じていたまぶたの力をゆるめました。

 向こうの西棟から誰かを呼ぶ声が届きます。クロエの軽い足音が駆けていきました。

 療養所の一夜は明けていきます。長い夜の分だけ、時を重ねて。

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一夜 茜あゆむ @madderred

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