野鯉
武州人也
水槽の中には
「久しぶり。元気にしてる? そうそう、すげぇ
先日、メッセージアプリに友人からこのようなメッセージが届いた。そうして誘われるまま、私はその友人宅を訪れた。以降、この友人をAと呼称する。
中学で出会って仲良くなったAは学生の頃、急にアクアリウムにはまりだした。体力自慢の大男であった彼は引っ越し業者でアルバイトをしていたが、バイトで得た給料の多くはアクアリウムにつぎ込んでいたという。ガーだとか、アミアだとか、プレコだとかポリプテルスだとか、聞きなれない横文字系の魚の名前をよく聞かされたものである。
就職して以降はあまり連絡を取り合わず、疎遠になりかかっていたのだが、社会人二年目の四月のこと、急に連絡を寄越してきたのである。その内容がこれであった。
日本に住むコイには、大きく分けて二種類ある。日本に古くから住んでいたとされるノゴイ(野鯉)と、明治時代以降に中国やヨーロッパなどからもたらされたヤマトゴイだ。野鯉は生息域が限られ、また警戒心が強く人前にはあまり姿を現さないため、各地の池や河川などで悠然と人目を気にせず泳ぐコイは、殆どが外来のヤマトゴイであると考えてよい。
だからもし本当に野鯉を見つけて釣り上げたのであれば、鼻息を荒くして自慢したくなるのも無理はないであろう。
「ホラ、見てみろこれ」
私を水槽のある部屋に通すと、Aは満面の笑みを浮かべながら大きな水槽を指差した。
「……野鯉? そんなんどこにいる?」
「ほらいるじゃん」
Aが指差した水槽には、確かに何匹かの魚が泳いでいる。しかし、その中に野鯉の姿はない。スポッテッドガーと呼ばれる小さいアリゲーターガーのような魚が二匹と、あとはアミア・カルヴァと呼ばれる魚が三匹いるのみだ。私はすぐさまAの正気を疑った。
「ほら、ここ、泳いでる」
そう言って、Aは水槽の左の方を指差した。やはり、そこには何もいない……が、ふと、ゆらり、と水槽の水がゆらめいたような気がした。見えていないだけで、そこには何かいるのだろうか……私は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
よく見ると、水槽の中の魚たちは、どれも左側を避けるように泳いでいた。スポッテッドガーは右端に二匹とも固まっているし、アミア・カルヴァもやはり右側の底部にいる。
気味が悪くなった私は、職場に呼ばれたと偽って部屋を出ようとした。Aはそれなら仕方ないなと言って、私を送り出してくれた。
部屋を出る前、私は後ろを振り返って、ちらりと例の水槽を見やった。
目が、合った。
「――っ!」
水槽の左側の底に、丸い目だけがあって、こちらをじっと見つめていた。間違いない。何か得体の知れないものが、あの水槽の中にいる――
私は足早にA宅を後にし、逃げるように帰宅した。家に帰った後も、私の体はぶるぶる震えていた。
――Aが釣ったのは、野鯉なんかじゃない。
その日はずっと、あの目のことが頭から離れず、なかなか寝付けなかった。
***
それから五日後のことである。件の友人Aから、またしてもメッセージが来た。
「やばい」
何がやばいのか、私はすぐに勘付いた。恐らく、Aが野鯉と主張している、あの得体の知れない何かのことに違いない――
「何がやばいの?」
「野鯉」
「野鯉?」
「あいつに全部やられた。アミアは全滅、スポガーも一匹はずたずたにされちまった」
どうやら、野鯉を入れた(と本人が主張している)水槽で混泳させていた魚が、殆ど殺されてしまったらしい。魚には詳しくないが、スポッテッドガーもアミアも両方とも硬い鱗で覆われているとAに聞いたことがある。そんな魚が簡単に虐殺されるとは考えにくい。
「で、その野鯉はどうしたの」
「本当はダメだけど、逃がした」
本来、外来種であろうと在来種であろうと、人の手元に置いた生物を再び野外に放つことは固く戒められている。たとえ元いた場所にそのまま返すとしても、だ。人の手元に置くことで付いた細菌類などを自然環境に放って蔓延させてしまう危険があるからだ。Aはその辺の意識はしっかりしている男であり、自分の水槽に入れた魚を野外に放つことはないと思っていた。
「殺そうと思ったけど無理だった。だからもう逃がすしかなかった」
スマホのメッセージアプリでやり取りしているだけなので、Aの顔を見ることはできない。けれども、面と向かって話していたならば、Aは相当怯えた表情をしていただろう。Aの怯えが、文字からでも伝わってくるようであった。
***
それから二週間ほど経った後のことであった。
夕暮れ時、私は自転車を漕いで買い物に行っていた。自宅からスーパーへと向かう途中の道には大きな池がある。昔はよくそこでザリガニを捕まえたりなどしたものだ。
その池のほとりで、ばしゃばしゃと音が立っている。何か大きなものが水の中で暴れているような音だ。興味をひかれた私は、自転車を停めて池の近くへ寄ってみた。
音の正体を見た私はびっくりしてしまった。池の岸に半身を乗り出した大きなアリゲーターガーが、のたうち回って暴れていたのだ。恐らく成人男性の身長ほどの全長はあるであろう。こんな池でよくぞと思える立派な大きな個体だ。
そんな巨体の外来淡水魚が、何かに襲われて抵抗しているかの如くに暴れている。こんな大きな魚を食べる動物など、池の中にいるはずもないのに。
アリゲーターガーの巨体はずるずると池の中に引きずり込まれていき、やがてその体は完全に水中に没してしまった。最初は水面に波紋が波打っていたが、それも暫くすると無くなってしまった。
私は驚きとともに、身を震わせるような恐怖を感じた。一体何がアリゲーターガーなどを襲ったのだろうか……考えれば考えるほど不気味極まりない。
その時、アリゲーターガーの沈んだ水面が、再び波打った。そしてそこに、目だけが見えた。
――あの目だ。
Aの水槽の中にあった、あの丸い目だけが、水面から外を覗いていた。
私は叫びそうになるのを必死にこらえて、自転車に跨りその場を素早く立ち去った。
***
そんなことがあってから、私は池や川など、水のある場所が苦手になってしまった。買い物の際には、例の池の前を通らないように迂回してスーパーへ向かうようになった。魚が住むような水場を見ると、またあの目を見てしまいそうだから……
Aはあれのことを「野鯉」と呼んでいた。だが、私はあれを「野鯉」と見ることはできなかった。Aは一体、何を釣ったのだろうか。そして、あの目の正体は何なのだろうか……
それ以降、私はあの目を見ていない。
野鯉 武州人也 @hagachi-hm
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