夢ノ六 二人の母

 真っ青に高い空を巻雲がのんびりと流れる。

 江戸もようやく暑さが遠のいて、陽で火照った肌を風が癒す季節になった。

 さっぱりとした陽気の中で、おみつは一人こっそりと不穏な行動をとっていた。

 誰にも見付からないよう裏手に周り、勝手口の戸に手を掛ける。

 本人は至って真剣だが、綺麗な振袖姿はその場所にはあまりにも不似合いだ。

 あっという間に丁稚の小僧に見付かった。

「お嬢様? こんなところで何を……」

 背中に掛かった不思議そうな声に、びくりと肩が飛び跳ねる。

 お光は慌てて小僧の口を塞ぐと、耳元で声を顰めた。

「お願いだから、見なかったことにして。あと、母様には内緒よ」

 念を押したら、語尾に力が籠った。

 小僧が慌てて、刻々と頷く。

 口を塞いだ手を離そうとしたところに、大きな声が飛んできた。

「何が内緒なのです、お光」

 びくり、と震えた肩は先程の比ではない。

 恐る恐る顔を上げると、じっとりとお光を睨みつけたおまさが立っていた。

「母様……」

 バツの悪い顔で見上げるお光の前を、仁王立ったお昌が遮る。

 丁稚をお光から引き剥がした。

「今日は、針のお稽古がありましたね。もうすぐ刻限だというのに、貴女はこんな所から何処へ行くつもりだったのでしょう?」

 真っ直ぐに見下ろすお昌に、お光は堪らず顔を逸らした。

「そうですけど、針のお稽古は昨日も頑張りましたし……。今日は、友人と芝居を見に行く約束をしていて……」

 ごにょごにょと口の中で言い訳をする。

 お昌が、かっと目を見開いた。

「はっきりとお言いなさい!」

 ぴしゃりと言われて、肩を竦ませる。

 仕方ないと、お光はびくびくと顔を上げた。

「どうしても今日、芝居に行きたいの。母様、お願いします。今日だけ針のお稽古を休ませてください」

「駄目です」

 勇気を振り絞った懇願は間髪入れずに却下された。

 俯くお光に、お昌が溜息を吐いた。

「それならそうと、早く私に相談すべきだったと思いませんか、お光。裏口から出ていくような卑怯な振舞いまでして、貴女は芝居に行きたいのですか?」

 項垂れていたお光が、ばっと顔を上げる。

「だって! お稽古を休むなんて、母様はお許しくださらないでしょう。だったら内緒で抜け出すしかありません!」

 恨みがましい目を向けても、お昌は表情一つ変えない。

「勿論、許しませんね。だからと言って、このような卑怯な振舞いが正しいわけがないでしょう」

「卑怯、卑怯って……。他に方法が、なかったんだもの」

 かっと顔が熱くなる。

 呟いた声は、しっかりとお昌に届いていた。

「他に手段がなければ、どんな振舞いをしても良いのですか? 第一、この状況で抜け出して折檻せっかんを受けるのは誰だと思うのです」

 ぐっと口を噤んで俯いてしまったお光に、お昌が畳み掛けた。

「答えなさい」

 冷たく強い言葉が胸に刺さる。

「……その子です」

 お昌が抱く小さな方がぴくりと震える。

 この大店の一人娘であるお光を責める者はない。

 逃がした丁稚の小僧が責を負わされるのは一目瞭然だ。

「貴女のせいで、この子は私や手代に厳しく咎められるでしょうね。それでも貴女は芝居に行きたいのですか?」

 お昌のあまりにも正当な言葉に、お光は顔を上げられない。

「貴女の我儘のために丁稚が酷い目にあっても、貴女は平気で芝居を楽しめるのね」

 ぐっと下唇を噛んで黙っていたお光は、思わす小さな声を漏らした。

「そんな言い方、しなくても……」

「何ですか?」

 間を置かずに被せたお昌の鋭い声に、お光はぐっと下唇を噛んだ。

「針のお稽古に行きます。行けばいいんでしょ!」

 言い捨てると、その場を逃げる様に走り去る。

「待ちなさい、お光!」

 制止の声を振り切って、お光は家の中へと戻って行った。

 怒る後姿を眺めながら、お昌は困ったように息を吐く。

「……女将さん」

 声に振り向くと、丁稚が不安そうにお昌を見上げていた。

「俺は、あの……。折檻を、受けるのですか?」

 目を歪ませる丁稚にお昌は優しく微笑むと、頭を撫でた。

「折檻などありませんよ。お光を止めてくれて、ありがとう。今日の分の菓子を末吉に渡してあるから、早く貰ってきなさい」

 不安な瞳が明るく光る。

「女将さん、いつもありがとうございます! 貰ってきます!」

 弾むような足取りで、丁稚の小僧は台所へと消えていった。

 安堵したように見送ったお昌は、再び大きな溜息を溢した。


 部屋に戻ったお光は、裁縫箱を抱えて乱暴に立ち上がった。

 怒りに任せて、どかどかと家の廊下を歩いていた。

 丁稚が寝泊まりする大部屋の前にさしかかると、何やら明るい声が耳に入った。

「今日の菓子は黒飴だ。一人一つずつだから、ずるして何個も食うなよ」

 どうやら手代の末七が丁稚の子供たちに菓子を配っているようだ。

「美味いなぁ」

「甘ぁい」

 末七から順に菓子を貰うと、小僧たちは嬉しそうに黒飴を頬張る。

「丁稚に毎日菓子をくれる優しいお店なんて、滅多にないんだ。今日も女将さんに、ちゃんとお礼をするんだぞ」

 子供たちは「はーい」と揃って返事する。

 そんなやり取りを聞きながら、お光は家を出た。

 怒りに任せた足取りはいつの間にかしゅんとしていた。

 いつもの通い路を、とぼとぼと歩く。

 自分の振舞いは、悪い。それでも。

(あんな言い方、しなくてもいいのに)

 お昌の冷たい視線を思い出して、怒りより悲しさが募った。

 お光の家は日本橋に居を構える大店おおだなだ。

 江戸の初めより代々続く反物屋である。

 父親である店の主人はおっとりした優しい性格の所謂坊ちゃんだ。

 店を切り盛りしているのは事実上、女将である母親である。

 母親はしっかり者で皆の信頼も厚く、手代や丁稚にも優しいと評判だった。

 確かに優しい、店の皆に対しては。

 お光にだけは必要以上に厳しすぎる、と常々思っている。

 お光の毎日は、習い事でいっぱいだ。

 針の稽古、三味、琴、習字。そのせいで友人と遊びに行く隙もない。

 それなのに、家に戻ればお昌からおたなの仕事を教えられる。

 しかも、漏れなく説教付きだ。

 お光にとって、憂鬱以外の何物でもない時間だった。

 店の跡取りである一人娘を厳しく育てるお昌の教育は、間違ってはいないのかもしれない。

 しかしお光は、もっと別の理由のせいだと思っていた。

(きっと自分の娘じゃないからだわ)

 お光は、父親が外に作った妾の産んだ子である。

 それを知ったお昌は、まだ乳飲子だったお光を実の母親から引き離し早々に養女にした。

 しかも、お昌はその事実を隠していない。

 物心ついた頃には、お昌本人からその事実を教えられた。

 お光が実子でないことは、店の中でも外でも知らぬ者はなかった。

 だからといって、妾腹めかけばらと揶揄する者も無いのだが。

(嘘でもいいから、隠しておいて欲しかった)

 お光の本音である。

 どこの誰とも知らない母親には今生会うことなど、きっとない。

 わざわざ公然の事実とする必要はない筈なのに。

(私はあの人に、愛されていないんだ)

 悪い思いが心の底に澱む。

 だからなのか、お昌の厳しさは出生の卑しいお光に対する八つ当たりに感じてしまう。

 お昌からすれば、お光の存在は疎ましいに違いない。

 夫が外に女を囲った悔しい思いをお光にぶつけているのだと、そう思えてならなかった。

 だから素直に稽古に精を出す気にもなれない。

(私を産んだ母様は、どんな人なのかしら)

 この手の話なら誰かが噂話などしていそうなものだが、店の中でこの事実に触れる者はない。

 緘口令でも敷かれているかのように、お光の耳には入ってこないのだ。

 当時を知る古い番頭に聞いてみたりもしたが、やはり教えてはくれなかった。

 誰もが、まるでお光がお昌の本当の子であるように接する。

 お光がお店の跡を取ることを疑わず、大事にしてくれる。

 それなのにお昌だけが、お光に対して誰よりも厳しい。

(そんなに私を苛めたいの)

 心の中に冷たい風が吹いたまま、お光は浮かない足取りで今日も針の稽古に向かった。


 残暑を過ぎた昼下がりは空気が心地いい。

 稽古を終えて帰宅したお光は、自室の縁側でぼんやりと庭を眺めていた。

 まだ緑の濃い木の葉は、初秋の匂いを乗せた風に流されて、さやさやと揺れる。

 陽の光はとても暖かいのに、頬を滑る風は妙に冷たくて、心の中まで流れこんだ。

 こんな心持の時は何故かいつも、あの夢を思い出す。

 まだ幼く、何も知らなかった頃。

 庭で蝶を追いかけて遊んでいたら、足をくじいて派手に転んでしまった。

 むっくり起き上ったものの、鼻の頭や膝を擦り剝いたのに気付いた途端、痛みより恐怖に襲われた。

「……ぅっ、……うぅっ……」

 泣きだしそうになった時に、温かな手が伸びてきて、小さなお光を包み込んだ。

 気が付いたらお昌が、いつになく強い力で自分を抱き締めていた。

「母様……ふぇ……」

 温もりが安堵に変わって、また泣きだしそうになった。

 お光の耳元で、声が聞こえた。

「頼むから、怪我なんかしないでおくれ……」

 いつも気丈なお昌からは、想像もできない程のか細い声音。

 声は涙で震えていた。

 抱き締める腕の強さと弱々しい声のせいで、お光の涙は引っ込んだ。

 お光が傷付くのを、自分が傷付くより恐れている。

 子供ながらにそう感じて、泣けなくなってしまった。

 同時に心の中に広がった安堵が体の痛みを掻き消した。

 お光は優しい母の胸にしがみ付いた。

 あれが実際に起こったことだったのか、ただの夢なのか、今ではよくわからない。

 もしかしたらお光の願望が夢になって現れただけなのかもしれないと、最近は思う。

 だが、風の匂いや体温が妙に実を持っていて、ただの夢とも思えない。

 昔は時々しかみなかったこの夢を、最近は頻繁にみるようになっていた。

(今じゃ、とても考えられないのにね)

 ふわふわした意識のままそんなことを思っていたら、体がぶるりと震えた。

「……ん」

 いつの間にか閉じていた瞳を開けると、先程まで抜けるように高かった空は既に茜に色を落としていた。

「寝ていたのね……」

 浅い眠りが連れてきたいつもの夢に、また心が塞ぐ。

「はぁ……」

 息を吐いたら、喉が渇いていたことに気が付いた。

 気怠い体を持ち上げて立ち上がると、部屋を出る。

 夕刻になると空気は途端に冷えて、夏の着物では薄ら寒さを感じる。

(お水、部屋に持ってきてもらえばよかった)

 などと思いながら台所へと歩く。

 お昌の部屋から、かたりと物音が聞こえてきた。

(この刻限は、まだ表で台帳を付けている筈なのに)

 店の出納は番頭の為助が担っていたが、最後の確認はお昌が行う。

 いつも遅くまで台帳と睨み合っているから、この時刻に部屋に居ることは滅多にない。

 不思議に思いながら、お光は何げなく部屋の中を覗き込んだ。

「……それでは今月も、いつもの通りに」

 夕暮で薄暗い部屋の中に小さな蝋燭が一本だけ灯っている。

 ぼんやりした明かりの下で、お昌が為助に何かの包みを渡していた。

 為助は頷いて、大事そうに包みを懐に仕舞い込んだ。

 ひそひそと、人目を忍ぶような仕草だ。

 二人が内緒で何かをしている。

 お光の目には、そのように映った。

 為助が立ち上がり部屋を出ようと歩を出した。

 慌ててその場を離れると廊下の角に身を隠す。

 そっと覗く。

 為助が辺りをきょろきょろと用心深く見回しながら足音を殺し、そそくさと部屋から出て行った。

「……」

 あの真面目な母親が何か後ろめたい振舞いをしている。とは考えずらいが、何かの秘密を為助と共有している。

お光は、為助の後を付けることにした。


 陽の落ちかける夕刻。

 燃えるような茜色だった空はいつの間にか色を落として道を暗く染める。

 薄暗がりは時に闇夜より人の影を隠す。

 だからお天道様が高いうちに家に帰るようにと、お昌から散々叱られた童の時分を思い出す。

 人目を気にして歩く為助の後を、こっそり追いかけた。

 お店から出て大通りを歩いていた為助が、急に細い路地に入った。

「あ!」

 消えた背中を追いかけて、急ぎ細道を覗く。

 建物に挟まれた隙間のような路地は、奥が薄ら暗くてよく見えない。

「っ……」

 一瞬、恐怖が脳裏を掠めた。

 お光は両手をぎゅっと握って奥へと歩みを進めた。

 家の壁と壁の隙間を慎重に歩く。

 光の届かない路地裏は足元が見えない程に暗く、ぞっと背筋に怖さが走った。

 こういう道を一人で歩くことなど滅多にないから、心細さで恐怖が増す。

「どこに行ってしまったの、為助」

 小さな弱音を吐きながら、勘を頼りに奥へ奥へと歩く。

 裏長屋の井戸端に辿り着いた。

 為助の姿はない。

 きょろきょろしていると、戸の前に掲げられた小さな看板が目についた。

「夢、買屋……?」

 古びた薄い板に墨で書かれた簡素な看板をぼんやり眺める。

 かたりと、戸が開いた。

「お嬢さん、中へどうぞ」

 童男が笑いかける。

 辺りを見回すが、立っているのは、お光一人だ。

「……私?」

 思わず自分を指さして確認すると、童が笑ったまま頷く。

「でも私、人を探しているの」

 ぴゅうっと木枯らしが吹いて、からからと枯葉を舞い上げた。

 ぶるりと身震いするお光の手を、目の前に立つ童が掴む。

「こんな場所に立っていても、寒いだけですよ」

 お光の手を、くいと引く。

「ちょっと、待って!」

 歩き出した童に引っ張られて、お光は夢買屋の戸を潜った。


 ぱん、と閉じてしまった戸を眺める。

 部屋の中から怠い声が飛んできた。

「まぁた変なの、呼び込んだね」

 迷惑そうな声音に、むっとして振り返る。

 声の主はちらりとお光を一瞥すると、これまた怠い手付きで煙管を持ち上げた。

「……」

 思わず言葉に詰まった。

 灰黒の髪を緩く結った女は、ずれた袷を気にも留めずに肌蹴た裾から大胆に素足を覗かせている。

 とてもしだらない姿なのに、纏う妖艶さはどこか凛として、媚がない。

 緩慢な仕草の一つ一つが女らしく綺麗に映えた。

 お光が女に見入っている間に、童はてきぱきと動いて座布団と茶を用意し、手を引いてそこに座らせる。

 二人の無言の迫力に気圧されて、お光は腰を下ろした。

「変なの、じゃなくてお客さんですよ」

 茫然と二人のやりとりを眺める。

 すぐ隣で童が、にゅっと顔を出した。

「おいらは優太。目の前で暇そうにしているのが夢買屋の主人で、凜さんです」

優太と名乗った童の間近に迫る顔から距離を取って、おりんと紹介された女性に視線を流す。

 凜はこちらを振り向きもせず長い煙管をくるくるといじりながらぼやくように呟いた。

「客ねぇ……」

「だからちゃんと、お仕事してください」

 目の前に仁王立ちして急かす優太に、凜は仕方ないとお光を振り向いた。

「本人に売りたい夢がなけりゃ、仕事にならないだろ」

 凜にじっと見詰められて、お光はどきりと小さく肩を竦めた。

 黒い瞳は真っ直ぐで、心の奥の方まで見透かされてしまいそうだ。それが何故か恥ずかしく感じた。

「売りたい夢って、何?」

 その瞳から逃れたくて、咄嗟に純粋な疑問を投げかけた。

 先程から状況がうまく飲み込めないのも正直な気持ちだ。

 凜は片膝に付いた手に顎を乗せたまま横目に言った。

「あたしは夢買。客の夢を買い取って銭を支払う。人の夢はあたしの飯だからね」

「夢って、夜にみる、あの夢?」

 半信半疑のお光に、凜が頷く。

「そうさ。世の中には、みたくもないのにみちまう夢を持て余してる人間が、結構いるんだ」

 お光はぐっと口を噤んだ。

 持て余している夢なら、確かにある。

 現実なのか願望なのかもわからない夢に、最近は心が苦しくなる。

「そういう夢は、みることもあるけど……」

 苦しむくらいなら、いっそ手放してしまうのが良いのだろうか。

 ここに辿り着いたのは、もしかしたらその為なのかもしれない。

(だけど……)

 あれを手放してしまったら、唯一知る母の優しさを捨ててしまうようで。

 黙り込んだお光を眺めていた凜が、心底面倒そうな色の溜息を盛大に吐いた。

「全く、仕方がないねぇ」

 くるりとお光に向き合うと、長い煙管を鼻先にぐっと突きつけた。

「そこに横になんな」

 訳の分からない顔で困っているお光の額を人差し指で、ついと付く。

「うわ……」

 強い力ではないのに、お光の体はその場にぱたりと倒れ込んだ。

 横たわった体の傍らに立ち座りして、凜が顔を覗き込む。

「夢は売っちまえば、もう取り戻せない。あたしが食っちまうからね。だからちゃんと見て、よっくと考えな」

 長い指が目の上に翳される。

「これは、なに……? どういう……」

 突然に強い眠気が荒波のように、どっと押し寄せる。

 慌てて発した言葉を最後まで紡ぐことなく、お光は深い眠りの底に落ちていった。

「こういうのは守備じゃないってぇのに……」

 閉じた瞼の向こうで、凜の気怠い声が聞こえた気がした。


 ふわふわと心地よい揺れに酔いながら、意識が何かをぼんやり捉えた。

 見慣れた景色は、お店の裏口だ。

 先程、追いかけて見失った為助が血相を変えて走り込んでいく。

 部屋に転がるように飛び込こむと、お昌に耳打ちした。

 お昌の目が、みるみる見開かれて、為助以上に顔が青くなる。

 慌てて立ち上がると、お昌は仕事着のまま、お店を飛び出した。

(母様があんなに慌てるなんて。一体何があったの?)

 お光の意識は、ふわふわとお昌の姿を追いかける。

 お昌は日本橋を出ると、ずんずん走る。

 あっという間に町はずれの農村に辿り着いた。

 田畑が広がり小さく質素な家が点在する村の、ある家の前で足を止める。

(こんな村に、知り合いなんているの?)

 お店は代々続く老舗であるし、お昌の実家も大きな店だ。

 このような場所は、まるで無縁に思える。

 お昌は躊躇いがちに、今にも潰れそうなおんぼろ家に入っていった。

 お光の意識がすっと飛ぶ。

 次の瞬間、目の前にじわじわと景色が浮かぶ。お世辞にも綺麗とは言えない狭い部屋の中で、薄い布団に横たわる知らない女の姿だった。

 女は真っ青な顔で浅い呼吸を繰り返している。

(誰だろう。今にも死んでしまいそう)

 憂慮した心持で眺めていると、部屋の障子戸がぱんと開いた。

 神妙な顔をしたお昌が立っている。

 じっと見詰めるお昌を、横たわる女が緩慢な動きで振り返った。

 女性始めこそ驚いた顔でお昌を眺めていたが、ふっと表情を緩め生気のない顔で笑った。

「おまさ、さん……」

 か細く掠れた声を聴いて、お昌が堪らずに駆け寄った。

未果みかさん…」

 崩れ落ちるようにうずくまり、布団の傍らに座り込む。

「ああ、お昌さん。一体、何年振りだろう……」

 細かく震えるお昌の肩に伸びた骨と筋ばかりの手は、届かずに布団に落ちる。

 お昌のの手が、強く未果の手を握った。

「未果さん、どうしてっ……。どうして、もっと早く便りをくれなかったの。私は貴女に毎月欠かさず文を送っていたのに」

 絞り出した声に、後悔と自責が滲む。

 未果が困った風に笑った。

「私なんざ、忘れて良い相手じゃないか。あんたが私に、構う義理は、ないんだ」

「何を言うの!」

 ばっと顔を上げたお昌を、未果がじっと見詰める。

「……それでもね、あんたが毎月、届けてくれた文に、本当に感謝してるんだ。文だけじゃない、いつも添えてくれる金にも、とても助けられたよ。娘を女衒ぜげんに売らなきゃ、暮らしていけないような貧乏家に、ひと月一両もの大金は、本当に、有難かった。お蔭で、医者に診せてもらえたし、薬も買って、もらえた……っごほっげほっ……っ」

 咳き込む未果の背を擦り、枕元にあった吸い飲みで水を飲ませる。

 未果が大きく息を吸いこみ、ゆっくりと吐き出しながら呼吸を整えた。

「だから、あたしは、ここまで生きて、こられたんだよ。お昌さん、本当に、ありがとうね」

 未果の表情は穏やかで、言葉がお昌の心に染みていく。

 お昌は大きく頭を振ると、「違う」と何度も繰り返した。

「貴女から最愛の娘を奪った私にできる償いは、それくらいだった。この程度じゃ、罪滅ぼしにもなりはしないのよ」

 揺蕩たゆたいながら二人のやりとりを聞いていたお光の心臓が、どきりと下がった。

(まさか、この人が、私を産んだお母さん……)

 突然、知りたかった事実を目の当たりにして、お光は混乱した。

 状況が整理できないまま、目の前の二人の会話が進んでいく。

「奪った、なんて、やめておくれ。最初こそ、あんたを恨みもしたが、そんな気持ちは、すぐに、すっかり消えちまった。あたしは、あの子を、あんたに託したんだ」

 お昌が俯いた顔を上げる。

 未果が力ない目で真っ直ぐに見詰めた。

「妾が子を産んで、それを知っても、あんたは取り乱しすら、しなかった。それどころか、あの時……ふ、ふふ。あんたが、あたしに何と言ったか、覚えているかぃ?」

 弱く笑う未果に、お昌は真面目な面持ちで深く頷く。

「あの時のことを、片時も忘れたりはしないわ」

 乾いた咳をしながら、未果は頷く。

「病に犯されていた、あたしの代わりに、子供を育てたいと、責任は必ず果たすと、約束っして、くれた。妾なんて、目障りなだけだろうに、随分と誠実な人だと、思ったさ」

 口を開きかけたお昌を遮り、未果が話を続ける。

「病のせいで、里に返された後も、あんたの誠実さは、同じだった。娘を大事に育ててくれて、それどころか、あの子の成長ぶりを、毎月文で、知らせてくれて……」

 未果が枕の上の籠に手を伸ばし、中から紙を出した。

 随分と黄ばんでよれた文を開き、懐かしく眺める。

「初めて、お光が粥を食べた。一人で、三歩歩いた。そんなことまで、書いてくれるから、ふふ。あたしは、まるで、一緒にお光を育てているような心持に、なっていたよ」

 かさりと、文で口元を隠して、未果が微笑む。

 とても美しく可愛らしい顔で。

 それに反比例するように、お昌は目を下げて泣き出しそうな顔になった。

「文の中で、お光はどんどん、良い娘に育って、託した相手が、お昌さんで本当に良かったと、思った。毎月、これを読むのが楽しみで、すっかり死にはぐっちまった。いつ死んじまっても、おかしくない、あたしを、ここまで生かしてくれたのは、あんたなんだ、お昌さん。だから、そんな風に考えるのは、止めておくれね」

 未果の透明な笑みが、きらきらとして本当に綺麗に見えた。

 それに加え、痩せて筋張っても元の器量良しを失わない未果に、お昌は苦い顔をして俯いた。

「違う、違うのよ、未果さん。私は……。私は貴女が、羨ましかった。貴女と違って私は気真面目さしか取り柄がない醜女しこめです。お店のしがらみ夫婦めおとになった私より、旦那様が貴女を愛したのは、当然だった」

 未果が笑みを消して、お昌を見詰める。

 お昌は俯いたまま苦しそうに続けた。

「だから、必死に頑張ったの。お光を大店の娘として恥ずかしくないように育て上げることだけが私の誇りだった。貴女に勝てる唯一の手段だったのよ。だから今日まで頑張ってきたの。未果さんが言うような、そんな綺麗なものじゃないのよ」

 きつく目を瞑って絞り出す声を聴き、未果は徐に起き上った。

「げほっ……こほ……」

 咳を耐えながら籠の中の文を探す。

「未果さん、無理に起き上っては……」

 肩を支えるお昌を振り返り、手にした文を開く。

 ちらり、とお昌の顔を覗くと、文を読み上げた。

「最近、歩けるようになったお光を庭で遊ばせていたら、転んでしまいました。私たちの娘に怪我をさせてしまって、ごめんなさい。これからは、もっと心懸けて大切に目を配ります」

 お昌が、はっと息を飲み、顔を強張らせた。

文 から顔を上げた未果が、その顔を覗く。

「この言葉に、あたしが、どれだけ救われたか、わかる?」

「……え?」

 困惑した顔に、未果がふっと笑みを向けた。

「私たちの娘。何気なく、そう書いてある。あんたは、そういう気持ちで、お光を育ててくれた」

 お昌の目が、ふいに見開いた。

「あんたの誇りが、どうだって、あたしには、それで充分だ。あんたが、してくれた全部が、あたしには、嬉しかったんだ」

 未果の笑みが、お昌の苦しく強張った表情を溶かす。

 瞳に涙が込み上げて、ぽろぽろと零れ落ちた。

「ぐっ……ごほっ、ごほっ……!」

 未果が背中を丸めて、強く咳き込みだした。

 苦しそうな体を、お昌が泣きながら抱き留める。

「……最期に、お昌さんと、話せて良かった。ちゃんと、お礼を伝えて、あの世に、いけるよ」

 細く息を吸いこみながら、未果が生気のない笑顔をお昌に向ける。

 お昌が焦燥した顔で、未果の肩を強く掴んだ。

「何を言うの? 医者を手配するから、ちゃんと養生して病を治して。貴女がいなくなったら、私は何を糧に、これからあの子を育てたらいいの?」

 お昌の顔を覗き込む、未果が薄く口を開ける。

「……っ!ごほ、げほ!」

 発しようとした言葉は咳に変わって、未果は苦しそうに体を丸めるばかりだ。

「未果さん!」

 二人の姿を覗いていたお光の意識が徐々に薄くなり始めた。

(だめ。このままじゃ、未果さんが…)

 見えていた部屋が遠くなり視界が黒く塞いでいく。

(待って、そっちに行かせて!)

 必死に伸ばした手は黒い靄にかき消されて、浮いていた意識は急に速度を増して闇を走る。

「!」

 目を開いたら、目の前には見慣れない天井と、宙ぶらりんと伸びた腕が見えた。

「あれ、は……」

 夢、だったのだろうか。

 そう考えて、すぐに違うと直感した。

「どうするか、決まったかい?」

 ちらりと視線を流すと、すぐ傍に腰を下ろした凜が覗き込んでいた。

「私、行かなきゃ」

 考える前に飛び出した言葉に自分でも驚く。

 凜が、すっと手を差し出した。

「ここに、手を乗せな」

 お光は頷いて、自身の手を凜の手に重ねた。

 しゅん、と体ごと意識が飛んで、目の前が真っ白になった。

「やれやれ……」

 思ったより温かな掌が離れれると、今度は小さなボヤキが聴こえた。


 次の瞬間、目を開けたら障子戸が見えた。

 白い障子に移る黒い影が激しく肩を揺らしている。

「未果さん!」

 お昌の叫び声を聞いて、お光は咄嗟に障子戸を開けた。

 突然に開いた戸を振り向いた二人の母が、目を丸くしてお光を見詰める。

「お光……。どうして、ここに」

 驚いた声のお昌と、ぼんやりとお光を眺める未果を見詰める。

 呆けた顔の未果が、ふと表情を緩めた。

「お光……」

 伸び掛けた手を追いかけて、お光が駆け寄る。

「母様!」

 見た目以上に痩せて細い指を握って、強く胸に抱く。

 未果が、もう片方の手を懸命に、お光の頬に向かって伸ばす。

 震える体をお昌がしっかり支えると、未果の手がようやくお光の頬に届いた。

「こんなに、綺麗な、娘に、なって……」

 細かく浅い呼吸をしながら未果が、やっと微笑んだ。

 何か言いたいのに、言葉が出てこない。

 その代わりに目から涙がぽろぽろ零れ落ちて、止まらなくなった。

「……あたしたちの光……。どうか、幸せに、なって……」

 優しく笑んだ瞳が、重さに抗えない瞼に閉ざされる。

 頬を撫でていた手が力なく落ちる。

 その手をお昌の手が受け止めた。

「みか、さ……ん」

 それ以上、二人に言葉はなく、涙だけがその時をただ静かに見送っていた。


「最期に一度でも会えて本当に良かったと、思います」

 落ち着いた様子でそう語るお光の姿を眺めながら、凜は煙管をくわえ煙を吸い込んだ。

「夢買屋さんのお蔭です。本当に、ありがとうございました」

お光が指を揃え、深々と頭を下げる。

 煙をゆっくり吐き出しながら、凜はお光をちらりと振り返った。

「それで? あんたは、あの夢をどうするんだい?」

 頭を上げたお光が、柔らかくはにかむ。

「大切に、持っていようと思います。だってあれは、夢じゃなかったんですもの」

 胸に手をあててお光が目を瞑る。

 凜は小さく笑った。

「そうかぃ、そいつぁ残念だ。だったら用はないから、さっさと帰んな。裏長屋なんかをふら付いていたら、また母様に叱られるよ」

 かん、と煙草盆に灰を落として煙管を仕舞う。

 お光は口元を手で隠すと、ふふっと笑った。

「商売にならなくて、ごめんなさい。今度いらない夢を持て余している人がいたら、ここを紹介しますね」

 如何にも商人の娘らしい気回しをして、お光が立ち上がる。

「期待しないで、待ってるよ」

 部屋を出ると、外は綺麗な秋晴れの爽やかな青空が広がっていた。

「今日は、これから未果母様のお墓参りに行くんです。祥月命日には二人でお参りに行くって、お昌母様と決めたの。晴れて良かったわ」

 お光の横顔が穏やかさに、少しの淋しさを滲ませる。

「母様とは、仲良くなれそうかい?」

 見上げていた顔を下げて、お光は頷いた。

「母様ね、前より優しくなった気がするの。二人で話をする機会も増えたわ。私、もっと母様の気持ちが知りたいと思うのよ」

 お光が、ぱっと顔を上げて凜を振り返った。

「ねぇ、夢買屋さん。私には、愛してくれる母様が二人もいるのよ。これって凄く特別で素敵だと思わない?」

 満面の笑みで手を振るお光を、凜と優太が見送る。

「ご飯、食べそびれたけど、良かったですね」

 優太が嬉しそうに凜を見上げる。

「何が良いってんだ。あぁあ、腹が減った」

 ぼりぼりと頭を掻きながら部屋に戻り怠そうに座り込む。

 凜の彷徨った手は、また煙管に伸びた。

 煙管を弄びながら外を眺める凜の横顔は、どこか満足げに笑む。

 優太が眉を下げて苦笑いした。

「今日の夕餉は、冷を付けてあげますね」

 凜が、ぴくりと振り返った。

「あんたでも、気前のいい日があるんだねぇ」

「一献だけですよ」

「へぇへぇ。ありがとうござんす」

 二人の声は、秋の空に吸い込まれて薄い雲に流れる。

 空がすっかり澄んで肌を冷やす風が季節を深めても、今日は温かな胸の内で酒を楽しめそうな気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夢買屋 霞花怜(Ray Kasuga) @nagashima

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ