閑話休夢

 暖かい風がふわりと吹き流れる。

 桜の花弁もいよいよ終わり、葉桜が目立ち始める頃。

 江戸は寒さから解放され、すっきりと過ごしやすい季節になっていた。

 凜の長屋のも周りでも、外ではしゃぐ子供たちの声が響き渡っている。

 その声の中を、身綺麗な初老の男が静かに通り過ぎる。

 男は大きな風呂敷包を抱えて、ゆったりと歩いていた。

 夢買の看板が揺れる部屋の前で、足を止める。

 古茶けた『夢買』の文字を見上げて、小さく口端を上げた。


 窓を開け外の景色を眺めながら、凜は暖かな陽気を楽しむ。

 いつもと変わらず気怠そうに、長い煙管を弄ぶ。

「心地の良い季節に、なってきたもんだ」

 部屋の中では優太が甲斐甲斐しく家事に勤しんでいる。

 瞬間、外の気配に気が付いた二人が手を止め、戸に眼を向けた。

 部屋の戸がゆっくり開き、見覚えのある老人が、ひょっこりと顔を覗かせた。

「親父様!」

 優太が、ぺこりと頭を下げる。

 親志様と呼ばれた初老の男が、穏やかに微笑んで優太の頭を撫でた。

 後ろ手で戸を、ぴっしりと閉める。

「邪魔するぞ」

 男が座すると、優太が間髪入れずに茶を入れて差し出す。

「相も変わらず気が利くのぅ、優太や」

 優太が照れ笑いする。

 凜は変わらず気怠そうに髪をかき上げると、煙管を置いて親父様に目を向けた。

「何か、用かぃ」

 愛想のない言葉に、親父様が笑む。

「商売はどういった具合かと思い、来てみたのだよ」

 息を吐いて、凜は空を仰いだ。

「どうもこうも、見ての通りさ」

 男が小さく笑んで、風呂敷包を差し出す。

「そろそろ資金が入用な頃合いかと、思うてな」

 ずっしりと重みのある包みを、ぺらりと開く。

 黄金色に輝く小判や朱銀、銅銭が山と入っている。

 凜は、ちらりと見やり、

「そりゃ、どうも」

 と、返事して優太に目配せした。

 優太が慣れた手つきで包みをひょいと持ち上げる。

 部屋の奥の長持に大事そうに仕舞った。

「客は、どうだね」

「どうって、まぁ、色んな客が来るよ。始めた時分よりゃぁ、増えているんじゃないかねぇ」

「そうか、そうか」

 親父様が満足そうな顔をして、茶を一口啜る。

「資金の出し甲斐があるのぅ。上様も妖を抱えた甲斐があると、さぞ御喜びになるじゃろうて」

 凜は男を、ちらりと眺めた。

 目の前に座する『親父様』とは、老中・田沼意次だ。

 言うまでもなく、夢買屋の出資者である。

 

 田沼はこの時、一旗本から大名になり漸く老中という地位を手中に収め、老中首座・松平武元と共に数々の幕政改革を推し進めていた。

 田沼が行った政治改革は多くある。

 その主たる功績として挙げられるのが経済政策だ。

 市中に流れる貨幣の流通速度を調整して経済を活性化し、商人に課税することによって幕府の財政の健全化に成功した。

 商家に流れた多くの貨幣を幕府に戻すことができた。

 次に田沼が取り掛かったのは、本当に金を必要とする庶民に銭を行き渡らせる法だ。

 百万人都市と称された江戸は、地方からの浪人や農民の流入により人口が爆発的に増え続けていた。

 中には生活に貧窮する者も多く、長屋にすら住めない無宿人もいる。

 そういった人々に銭を流すため田沼が秘密裏に考案した政策が、妖を使った商いだ。

 田沼は妖怪を囲い、妖怪にしかできない商売で、人々を救う手立てを考えた。

 夢を買い悪夢に捉われる人々を救い、加えて銭を渡す。

 元手のいらない法をとれば、その日の飯にすら困る者も、銭を得ることができる。

 凜たち妖にとっても、待っていれば飯が向こうからやってくる。

 まさに一石二鳥の救済処置である。

 このような形で田沼は、凜たちの他にも幾人かの妖怪を子飼いにしていた。

 凜と田沼の付き合いは、そう長くはない。

 しかし、人里に住む妖を江戸の住人と認め仕事を宛がってくれた田沼を、凜は少なからず信頼している。

 田沼自ら本所の狭い溝板長屋まで足を運んでくるのも、市井の生活を自分の目で見て江戸の実態を把握するためだ。

 そういう所も、買っている部分ではあった。


「お忙しい親父様が、こんな場所に来ている暇なんて、あるのかい。誰かに任せりゃぁいいものを。仕事は山と、あるだろうにさ」

 呆れた顔で問う凜に、田沼が笑う。

「なぁに、散歩のついでよ。近頃は日和も良いから、足を鍛えるにも楽しい。屋敷に顔を出したがらぬ我儘娘の顔も、拝みたかったしのぅ」

「屋敷には、まぁ……。あまり、ね。堅苦しいのは、息が詰まるんだよ」

 げんなりした顔をして、凜は一つ溜息を吐いた。

「それに儂は時々、お主と話がしたくなる」

「また心にもないことを」

 呆れ顔の凜に、田沼が首を横に振る。

「儂より余程長い間、人というものを人の間で眺めているお主の話を聞くと、大昔に初めて学問を知った時のように楽しいのだ。気持ちが十年は若返るぞ」

 嬉しそうな田沼を、凜が笑う。

「親父様の方が、あたしよりよっぽど妖じみているさ。本当は化狸か何かなんじゃぁないのかぃ?」

 田沼がぱちくりと目を開き、高い声で笑った。

「やはり、お主は面白い」

 笑いを収めて一息つくと、田沼が湯呑を置いた。

「化狸というなら、どうだ、凜。儂の夢でも、食ろうてみるか。さすれば、儂がどれほど人臭い人間か、よっくとわかろうよ」

 突拍子もない言葉が飛んできて、凜はぎょっとした。

 田沼は変わらず、にこにことしている。

 はぁ、と息を吐いて凜はげんなりした。

「食いたかないねぇ。親父様の夢は、不味そうだもの」

 田沼が嬉々として顎を擦る。

「それは、残念だの。なれば、客の夢は、美味いかね」

 凜は「んー」と軽く呻って、頷いた。

「大概、美味いよ。時々、驚くほど不味いのも、あるけどね。あたしら獏にとっちゃぁ悪夢が、より美味なのさ。あたしが美味い飯にありつけるのは、良いことだろ?」

 ししっと笑うと、田沼が目を細めた。

「なぁ、凜。夢というのは、心根の深いところにある大切な想いだと、儂は思うのだよ。だからのぅ、お主が買う夢が美味いなら、それは確かに重畳じゃ」

 田沼の瞳の奥に宿る仄かな光を、凜はぼんやりと眺める。

「また、良い話ができた。やはり、お主は面白い」

 満足そうにして、田沼が立ち上がる。

「儂はそろそろ、行くとするかの」

「親父様、もう帰ってしまうんですか」

 名残惜しそうに優太が、田沼の腕を引く。

「もっと話をしたいのだがなぁ。生憎と今日も、詰まらぬ用事が山積みだ」

 優太の頭を撫でると、凜に向き直った。

「人の大切な心を食っていると知っているお主を、儂は頼りにしておるよ、凜」

 微笑を残して、田沼は長屋を後にした。

「狸爺ぃの嫌味かねぇ、あれは」

 眉を下げて小さな笑みを零しながら、ぼそりと呟く。

 凜は煙草に火を付ける。

 ゆるりと煙を吹き出して、部屋の窓を開けた。

 長屋の桜はほとんどが散り去って、ちらほらと新緑が見える。

 何度同じ季節を巡って、何度同じことを想うのだろう。

 ぼんやりと考えながら、凜は少ない花弁をはらはらと散らす緑の桜を眺めていた。

「夢は人の心、ね。だからこそ、美味いのさ」

 ぽつりと呟いて、凜はまた煙草の煙を燻らせた。

 生きる者は総じて、何かを食って生きている。

 命や心、或るいはもっと大切な、何かを。

 そうやって、生を繋いでいくのだ。

 凜の吐き出した煙がもんわりと空を漂って、春の暖かい空気の中に溶けてゆく。

 ゆっくり流れる煙草の煙は、のんびりとして時の流れを遅くする。

 そういう感覚が、凜は好きだ。

「ま、親父様も息災で、何よりだ」

 くすりと小さく笑う凜の横顔に、優太も頷いた。

「さてと。それじゃ、今日の仕事をしましょうか」

 にこっと促す優太に、凜はあからさまに嫌な顔をする。

 その時、長屋の戸を叩く音がした。

「はぁい」

 優太が返事して、凜を振り返る。

「凜さん。早速、仕事ですよ」

 優太が悪戯に、にっと口端を上げる。

 凜は、やはり気怠そうに欠伸をして、思いっきり背伸びをした。

「はいはい、働きますかねぇ」

 かん、と小気味いい音を響かせて煙草盆に灰を落とすと、煙管を置く。

 優太が戸を開けると、一人の女人が、おずおずと顔を覗かせた。

「あの、こちらは、夢買屋さんでしょうか」

 凜は立ち上がり、女人に向かって薄く笑った。

「あたしは、人が寝る間にみる夢を買う夢買だ。あんたは夢を、売りたいのかぃ?」

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