夢ノ五 火事場の迷子

 木枯らしが枯葉を、からからと吹き上げる夜半。

 紅の炎が町を覆い、半鐘が激しく打ち鳴らされる。

 黒い闇を焦がさんが勢いで火の粉が舞い黒煙が辺りを包む中を、人々がどよめきながら逃げ惑う。

 その人混みを、流れとは反対に、人をかき分けながら辰吉は走っていた。

『あの家に、まだ子供がいる』

 どこからか聞こえてきた声が、辰吉を走らせた。

 なんとか人混みを抜けて、燃え盛る家の目の前で足を止めた。

 懸命に目を凝らし耳を澄ます。

「……ーん、えーん」

 微かに幼子の泣き声が聞こえた。 

 辰吉は近くにあった桶の水を頭からかぶると、家の中めがけて走り出す。

 童は戸口の辺りで蹲っていた。

 大きな炎に包まれた家は方々が崩れかけており、今にも全壊しかねない状態だ。

「待ってろ、今助けて……。っ!」

 入り口に足を踏み入れた瞬間、天井の大きな柱が、がたんと傾いた。

 火の粉が大量に辰吉に振りかかる。

「くっ……」

 怯むことなく進もうとした辰吉の腕を、仲間の火消しが力一杯引っ張った。

「辰さん、ありゃもう、だめだ」

「入ったら、お前ぇまで死んじまう」

 必死に止める仲間の手を振りきろうと、もがく。

「あそこに子供がいるんだ! 早くしねぇと」

 そうする間にも、炎はどんどん大きくなり、家は崩れてゆく。

「諦めろ」

 仲間の言葉が耳に届いた、その時。

 童の真上にあった梁がみしみしと音を立て、大きく傾いた。

「離しやがれ! 今ならまだ……」

 辰吉が仲間の腕を振り切って中へ入ろうとした瞬間。

 ずしん、と大きな音を立てて梁が崩れ落ちた。

「なっ……」

 梁が纏っていた火は一層大きな炎の塊になり、戸口から外へまで吹き出した。

 熱風が吹き全身が焼けるように熱くなる。

 思わず顔を覆って気が付いた。

 子供の声は、もう聞こえない。

 周囲には木の焼ける音と、逆巻く炎の轟音だけが響いている。

 辰吉は力なく、その場に膝をついた。

 戸口から吹き出す炎を凝視する。

 そこに人の姿を見ることはできなかった。

 辰吉は、ぐっときつく目を瞑って、地面を殴った。

「すまねぇ、すまねぇ」

 何度も繰り返しながら、辰吉は蹲り項垂れていた。


「……まねぇ、すまねぇ……」

 譫言のような声に気が付いて、目が覚めた。

 どうやら魘されて発した自分の声だったらしい。

 全身が汗で、びっしょりと濡れている。

 ふう、と一つ息を吐く。

 辰吉は改めて部屋の中を見回した。

 長持に行燈、火鉢。

 その程度しかない簡素な部屋は、いつもと変わらない。

「また、あの夢か」

 呟いて、ゆっくりと上体を起こす。

 両手は体同様、汗でびっしょりと濡れていた。

 あの時救えなかった命を、辰吉は忘れることができない。

 いや、忘れてはいけないと思っていた。

「あんなのはもう、二度と御免だ」

 濡れた手をぎゅっと握り、額にあてる。

 かーん、かーん、かーん

 遠くで半鐘の音が聞こえて、勢いよく顔を上げた。

「火事か!」

 飛び起きると、すぐさま火事装束に着替える。

 鳶口を持ち、辰吉は部屋を飛び出した。


 火事は本所の西側辺りだった。

 辰吉が駆けつけた時には火はほぼ消えていた。

 真っ黒に焦げた家の瓦礫の中を歩いて仲間を探す。

「おう、辰」

 後ろから声を掛けてきたのは、組頭の権兵衛だった。

「頭、火のやつは」

「もう、しっかり消えたぜ。そねぇに、でっけぇ火事じゃぁ、なかったからな」

 にっ、と笑う権兵衛に、辰吉は頭を下げた。

「遅くなっちまって、すいやせん」

 権兵衛は表情を変えて「てっ」と舌打ちして見せた。

「なぁに言いやがる。お前ぇ、今日は出張じゃねぇだろうが。それをわざわざ出てきやがって。いつもいつも、来なくていいんだよ」

 ぽん、と優しく肩を叩かれて、辰吉は苦笑する。

「いや、気になっちまって。じっとしちゃぁ、いられねぇんでさ」

「仕方のねぇ」

 と、権兵衛は小さく息を吐いた。

「折角来たんだ。ついでにこの辺り、見回ってきやす」

 飛び出していく辰吉の背中に、

「気を付けて行けよ」

 声を掛けて、権兵衛は表情を落とした。

「まぁだ、忘れられねぇのかねぇ。本当に生真面目で、不器用な野郎だよ」

 言い捨てて、権兵衛は辰吉の背中を見送った。


 辰吉は火事のあった周辺を、歩いて回っていた。

「回向院は無事か」

 土壁は黒く焦げているものの、火を貰うまではしなかったようだ。

 あまり大きな火事にならなかったことに、ほっと胸を撫で下ろす。

 しばらく歩くと、一際黒く焦げた瓦礫が散らばっている家があった。

「ここが、火元か」

 商家のようだが、家は跡形もなく燃え尽きて無残な残骸と化していた。

 今日は特に風が強かったから、火のまわりも早かったのだろう。

 辺りを見回していると、この場所には不似合いな小さい影を見つけた。

「童?」

 蹲って膝を抱えているのは、どうやら小さな子供のようだ。

 辰吉が静かに近づくと、その気配に気が付いた小さな肩が、びくりと震えた。

 童が恐る恐る、こちらを振り返る。

 顔を煤だらけにして不安な表情で振り返った童子は、歳の頃四、五歳くらいの男子おのこだ。

 辰吉は、にかっと笑って童に声を掛けた。

「よう、坊。親と、はぐれちまったのか? ここは危ねぇから、いつまでもいちゃぁいけねぇぜ」

 童は怯えた様子でゆっくり立ち上がると、一歩後ろに後退った。

「大丈夫だ。俺ぁ火消しの辰吉ってんだ。つっても普段は鳶だけどな。だから、心配いらねぇよ」

 安心したのか、小さな足が動きを留める。

 その場に立ち尽くし、辰吉をじっと見上げた。

「迷子になっちまったのか?」

 隣に並び立ち、頭を撫でながら窺う。

 童は首を横に振った。

「親は、どこに行ったんだ?」

 すると今度は俯いて、また小さく首を横に振った。

 どうにも要領の得ない。

 辰吉は、しゃがみ込んで小さな瞳に目線を合わせた。

「なんだって、こんな所にいるんだ? 何があった?」

 今度は先程よりも深く俯いて、辰吉の顔を見ようとしない。

 辰吉が下から覗き込むと、口がはくはくと動いていた。

 その様子に辰吉は、はっと気が付いた。

「ん? もしかしてお前ぇ、口がきけねぇのかぃ」

 童は上目遣いに見上げながら、こくりと頷いた。

 辰吉は、ううむと呻った。

 口がきけないのは厄介だ。

 言葉で情報のやり取りができないのは、不便極まりない。

「坊、文字は書けるか?」

 童が、また首を横に振る。

「だろうなぁ」

 見目からして、まだ年端のいかない童である。

 寺子屋にも、恐らくまだ通っていないだろう。

 辰吉は顎に手をあて、唸りながら頭を捻ると、立ち上がった。

「今日は俺のとこに来な。明日、御救小屋に行って、お前ぇの親を探してやるよ」

 童は更に俯いて、首を激しく横に振る。

「おいおい、今すぐは無理だぜ。明日まで待ちな」

 また更に激しく首を振っり、辰吉の足にしがみ付く。

 辰吉は、童の頭をぽんと撫でて、笑って見せた。

「心配すんな。お前ぇを置いて行ったりしねぇからよ。俺の所に来いって、言っただろ」

 童は辰吉を見上げて、初めて首を縦に振った。

「良い子だ。さ、行くぜ」

 辰吉は、しゃがん背中を向ける。

 それを呆然と眺めている童を振り返る。

「おぶってやるから、乗りな」

 驚いた顔をした童だったが、おずおずと広い背中に体を乗せた。

 小さな体をひょいと背負上げ、辰吉は歩き出した。

 くいと振り返ると、辰吉の背中の上で童がまた驚いた顔をしていた。

「高過ぎて、恐ぇかぃ? 俺ぁ、背が高けぇからよ。恐かったら遠くの景色を見ていな。そうすりゃ、怖くねぇからよ」

 ぶんぶんと首を横に振った童が、嬉しそうに、こくりと頷く。

「落ちねぇように、しっかり掴まっていろよ」

 辰吉は自分の長屋へと走りだした。


 長屋へ帰ると、住人たちが井戸の周りに集まって談話していた。

 人の輪の中にいたお春が、辰吉の姿に気が付いて小走りに寄ってきた。

「辰さん、火は消えたの?」

 不安げな顔で聞くお春に、辰吉は笑顔を返した。

「ああ、大きな火事にはならなかったようだぜ。もう消えていたし、大丈夫だ」

 住人たちが、ほっと胸を撫で下ろした。

「そうかい、良かった」

「こっちまで火が来ちまったら、どうしようかと」

 心配する女性たちの声が上がる。

「何言っていやがる。うちには火消しの辰さんが居るんだ。大丈夫に決まっていらぁな」

「ああ、そうだぜ。どんな火も、たちどころに消しちまうさ」

 男性たちが口々に褒めるので、辰吉はなんだか照れくさくなった。

「ところで辰さん、その子は?」

 お春が辰吉の背中にいる童に気が付いて訊ねてきた。

 皆の視線が集中する。

「ああ、この子なぁ。火事場に取り残されていたんだ。口がきけねぇようだし、親とはぐれたみてぇだから、一先ず連れて帰ってきたんだよ」

 集まる視線から逃れるように、童は辰吉の背中に隠れて、じっとしている。

「それは大変だったねぇ」

「かわいそうに。それじゃぁ、探すのも大変だねぇ」

 群がってくる人に怯えるように、童は身を縮こまらせた。

「明日にでも、御救小屋に行ってみるさ」

 手を挙げて部屋に入っていく辰吉に、住人たちが声を掛ける。

「なにか困ったら、言うんだよ」

「力になるからさ」

「明日の朝餉は用意しといてやるよ」

 皆の配慮に、辰吉は笑みを返した。

「ありがてぇ。よろしく頼まぁ」

 部屋に消えていく辰吉の姿を見送って、お春が言葉を漏らした。

「本当に辰さんは、困った人を放って置けないのよねぇ」

「そういう気質なんだよねぇ。鳶だけどさ、良い人だよね」

「顔も男前なら中身も男前ってな」

「正に江戸っ子だねぇ。敵わねぇなぁ」

 住人たちは口々に辰吉の噂話に花を咲かせた。

 皆がそんなことを話しているなど露と知らず。

 辰吉は布団を敷いて、童を寝かせていた。

「今日は怖ぇ思いして疲れたろう。ゆっくり休みな」

 童がこくりと頷いて、目を閉じる。

 その姿を、辰吉は酒を飲みながら静かに眺めていた。


 次の日の昼、辰吉は童を連れて両国広小路に建てられた御救小屋に出向いた。

 大きな火事ではなかったが、焼き出された人々はそこで寝泊まりし、炊き出しなどの救済を受けていた。

 辺りを見回していると、知り合いの同心・尾崎幸之助が声を掛けてきた。

「おう、辰じゃねぇか。その童は、どうした?」

 珍しいものを見るように眺める尾崎に、辰吉は苦笑した。

「尾崎様! こいつぁ、助からぁ。昨日の火事で迷子を拾ったんでさ。親が探しているんじゃねぇかと思って、ここに来てみたんでございますよ」 

 童は尾崎の好奇の視線から逃れるように、辰吉の足に隠れる。

 二人をとっくり眺めながら、尾崎は顎に手を当て考え込んだ。

「はて。迷子の届けは幾人かあったが、男子の届けは、なかったな」

「そうですか」

 しゅんとした顔で振り返ると、童は怯えた顔で辰吉を見詰めている。

 辰吉は笑顔を作って小さな体を抱き上げた。

「なぁに、心配すんな。俺が必ずお前ぇの親を見つけてやるからよ」

 肩車をしてやると、童の表情が少しだけ和らいだ。

 尾崎はその様子を見て、ふっと笑った。

「相も変わらず人が好いな、お主は。ならば、両国橋の欄干にでも行ってみろ。張り紙が、あるやもしれぬぞ」

 人通りの多い大橋の欄干には平素から、迷子や探し人の張り紙が貼られている。

 火事のような災害があった時などは、張り紙が増えるのだ。

 辰吉は、ぱっと明るい顔になって、尾崎に頭を下げた。

「成程、その手がありやしたね! 流石は尾崎様だ! ありがとうごぜぇやす」

 童を肩車したまま、辰吉は走り出した。

「しっかり掴まっていろよ」

 童が辰吉の頭に手を回して、ぎゅっとしがみ付く。

「気を付けて行けよ」

 尾崎の声に「へーい」と返事をして、辰吉は両国橋に向かった。


 この日の両国橋は人が疎らだった。

 火事の後で忙しない人が多いのだろう。

 近づいてみると、張り紙は普段より多いようである。

 辰吉は大きな欄干から順に張り紙を確認していった。

「うぅん」

 一つ一つ丁寧に読んでみるも、童の特徴に似た張り紙は見つからない。

 更に言えば、子の特徴はどれも似ていて、どれも当てはまるような気がしてくる。

「お前ぇなら、声が出せねぇとか話せねぇとか、書いてありそうだがなぁ」

 ぶつぶつ呟きながら張り紙を確認する辰吉の背に顔を寄せて、童はしゅんと小さくなっていた。

 結局、それらしい張り紙は見つからない。

 仕方がないので、童の特徴を書いた紙を張っていくことにした。

「よし! これで親の方から見つけてくれるかもしれねぇな」

 並んで立つ童の頭を撫でてやると、不安そうに俯く。

「そねぇな顔、するんじゃぁねぇよ。明日、別の橋も見に行ってみようぜ」

 童が更に不安げな顔になり、益々顔を下げる。

 辰吉は、しゃがみ込んで視線を合わせた。

「どうしたんだぁ。あ、腹が減ったんじゃねぇか? そういや昼餉が、まだだったな。何か食いに行くか」

 童は上目遣いに辰吉を見ると、小さく頷いた。

「よし、じゃあ、行くぜ」

 辰吉は童を抱き上げると、橋に背を向け歩き出した。

 童は橋の欄干に張られた紙を、見えなくなるまで、じっと見詰めていた。


 長屋の近くの蕎麦屋で二人は、かけ蕎麦を食っていた。

「美味いか?」

 必死に蕎麦をかきこみながら頷く姿を見て、辰吉は嬉しそうに笑う。

「そいつぁ、良かったなぁ」

 腹の減った辰吉も同じように蕎麦を啜る。

 二人の姿を見つけた女将が、驚いた顔をして辰吉に声を掛けた。

「なんだい、辰さん。いつの間に子供が出来たんだい?」

 辰吉は、へっと笑って女将を見上げた。

「昨日の火事で迷子を拾ったんだ。親を探しているんだが、見つからなくってよ」

「何だ、そうだったのかい。御救小屋には、行ってみたかい?」

「ああ。男子を探している親は、いなかった。橋の欄干も見てみたが、張り紙がなくてなぁ。ま、昨日の今日だ。気長に探すさ」

 女将が不思議そうな顔で辰吉を眺めた。

「何だい、あんたが面倒みるのかい? 御救小屋に預ければいいだろうに」

 女将の言葉に、辰吉は成程と思った。

「言われてみりゃぁ、そうさなぁ。その方が早く見つかるか……」

 ちらりと童を見やると、箸を止め不安な顔で俯いている。

「う……、っく」

 よく見ると、目から大粒の涙を流していた。

「おぉお? なんだ、坊。どうした? 蕎麦が詰まったか?」

 狼狽える辰吉の姿を笑い飛ばして、女将は童を抱き上げた。

「一人になるのは、寂しいもんねぇ。変なこと言って悪かったね、坊や。あんたは辰さんの所に、いなさいな」

 小さな手で目を擦りながら、童がこくりと力強く頷いた。

「あぁ、そういうことかぃ。俺は構わねぇが……」

 まだ不安の消えない瞳で童が辰吉を見上げる。

 その瞳はとても寂しく見えた。

 寒々しい、何かを諦めたような目だ。

 とてもこの年頃の子供の目つきとは思えない。

 辰吉はこの時初めて、童が何か深い事情を抱えているのかもしれないと感じた。

 引き結んだ口を緩めて、口端を、にっとあげた。

「そうさな。これも何かの縁だ。俺が最後まで、ちゃぁんと面倒を見てやらぁ」

 ほんの一瞬だけ、童の目に光が宿って見えた。

 女将が童を降ろして元の所に座らせると、箸を持たせた。

「だってさ。良かったね、坊や。安心してお食べよ」

 童はこくりと頷いて、また蕎麦を食べ始めた。

 先程より勢いよく食べる姿に、女将が笑う。

「坊やなりに不安なんだろうね。でも安心しな、坊は良い人に拾われたよ」

 一度、奥に戻った女将が、天婦羅と熱燗を持って戻ってきた。

「これは、あたしの驕りだ。一献、やっていきな。ほら、この天婦羅は坊やのだよ」

 辰吉は目を輝かせて徳利を持ち上げる。

「ありがとうよ! 早速頂くぜ」

 猪口をくいっと傾けて、一気に飲み干す。

 同じように童はキラキラした目で天婦羅にかぶりついた。

「ったあ! ただ酒は美味いねぇ!」

 ぱん、と膝を叩いて嬉しそうに酒を飲む。

 天婦羅を食う童と辰吉を見比べて、女将が笑った。

「なんだか似た者同士だねぇ、あんたたち」

 嬉々として酒を飲む辰吉を、童は天婦羅をくわえたまま、じっと見詰めていた。


 長屋に帰る頃にはすっかり陽も落ちて、茜の空は群青色に染まりかけていた。

 里山に帰るからすの群れを見ながら、辰吉は童と手を繋いで歩く。

「すぐに親は見つかりそうにねぇし、お前ぇに呼び名がねぇのは、不便だなぁ」

 ゆっくりと歩きながら童の顔を覗き込む。

 くりっとした小さな瞳が、じっと辰吉を見返した。

「つっても口はきけねぇし、文字も書けねぇし。名が、わからねぇ」

 辰吉はしばし考えこんで、ふと歩みを止めた。

 童の脇に手を入れて軽い体をひょいと抱き上げる。

 仰天する顔に向かい、にっと笑った。

「よし! 親が見つかるまで、俺がお前ぇに名を付けてやる。そうさな……啓太ってのは、どうだ?」

 童が呆けたような顔で辰吉を見詰める。

「良い名だろ。お前ぇの名は、今日から啓太だ!」

 童が大きく、首を縦に振った。

 呆けていた顔に、にっこりと笑みが浮かぶ。

 辰吉は少々驚いた顔になって、童の顔をじっと見た。

「お前ぇ、初めて笑ったな」

 辰吉もにっこりと笑顔になった。

 啓太が、ぐっと腕を伸ばして辰吉の首にしがみ付いた。

「こらこら、苦しいじゃねぇか。はは!」

 辰吉は啓太を抱いたまま、歩き出した。

「それじゃ、帰るかね。俺たちの家に」

 啓太は嬉しそうに笑いながら、またこくりと頷いた。


 炎が渦巻く音が響き、瓦礫が焦げる匂いが鼻につく。

 燃え盛る火の前で、辰吉は膝をついて項垂れる。

 仲間たちが辰吉の腕を掴んでなんとか立ち上がらせる。

 辰吉の動かない体を引きずって、その場から離れようとする。

「……なせ。離してくれ!」

 仲間の腕を振り切って、辰吉は家の前に戻った。

 今からでも何とかすれば助けられるかもしれない。

 火に巻かれた家の戸口に踏み入ろうとしたところを、権兵衛に止められた。

「辰吉! よせ!」

 強く腕を引かれて、体が後ろに傾く。

かしら……」

 振り返った辰吉を見下ろして、権兵衛は下唇を噛んだ。

「もう、駄目だ」

 辰吉は、その場に立ち尽くした。

 家は既に原型を保てない程に燃えさかり、瓦礫が轟音を上げて崩れ落ちていく。

(あの中に、いるのに……)

 瞳から一筋の涙が、流れた。

「……太、啓太」

 声を詰まらせて名を呼ぶ。

 しかしもう、助けることはできない。

 どうしようもない思いに胸を軋ませて、辰吉は声を殺して泣いた。

「啓太……啓太……」

 譫言のように繰り返す辰吉の肩を、啓太の小さな手が揺する。

「んん……」

 辰吉は薄らと目を開いた。

 啓太が間近で、辰吉を見つめていた。

「……お前ぇは……」

 目の前にいる童子が、夢の中の童と被って見えて、混乱した。

(ああ、そうか。こっちは、救えた命か)

 数日前、火事場で拾った坊であることを思い出し、胸を撫で下ろす。

 辰吉はゆっくりと腕を上げて、啓太の頭を撫でた。

「俺は、魘されていたのか?」

 啓太が心配そうな表情で、こくりと頷いた。

「不安にさせて、悪かったな。もう、大丈夫だ」

 まだはっきりとしない表情で笑うと、啓太は少しだけ安堵の表情をした。

 啓太を拾ってから、半月が過ぎた。

 御救小屋に親が来ている様子もなく、橋の欄干に張り紙もない。

 あの後、他の橋も見に行ったが、それらしい張り紙は見つけられなかった。

 啓太を拾って以来、辰吉は夢をみる機会が多くなった。

 あの夢は忘れられない、忘れてはならない現実だ。

 しかし、こうも頻回にみると、さすがにこたえる。

 それでも啓太に心配な顔は見せたくないと、無理やり笑顔を作った。

「辰さん、いる?」

 戸外から声がして、辰吉は布団から起き上った。

「おう、居るぜ」

 戸が、がらりと開く。

 朝餉を持ったお春が顔を覗かせた。

「啓太ちゃんと辰さんの朝餉、持ってきたよ」

 お春の清々しい笑顔が、辰吉の胸のもやもやを吹き飛ばしてくれるようだった。

「そいつぁ有難てぇ! 啓太、飯にしようぜ」

 啓太は力強く頷いて、お春にぺこりと頭を下げた。

 お春が、ふふっと笑って啓太の頭を撫でる。

「相変わらず行儀の良い子ね。そんなに気を遣わなくていいのよ」

 据えられた膳を前に、二人は揃って手を合わせた。

「いただきます!」

 勢いよく飯をかき込む姿がそっくりに見えて、お春が思わず吹き出した。

「ゆっくり食べなさいよ」

 二人の勢いは衰えず、あっという間に朝餉を平らげてしまった。

「ご馳走様でした!」

 箸をおいて、ふうと息を吐く様までぴったりだ。

「まるで親子ね」

 お春の言葉に、辰吉は眉を下げて笑った。

「親子か、そうだなぁ」

 お春が、しんみりした辰吉をじっと見詰める。

 目先に気が付いて、辰吉は苦笑した。

「俺にぁ、歳の離れた弟がいたんだ。随分可愛がっていたんだが、そいつは火事で死んじまってな」

 初めて聞く話に、お春が目を丸くした。

 辰吉は遠い目をしながら話を続けた。

「俺がまだ火消しを始めたばっかりの頃だ。家に取り残されている小せぇガキがいるってんで急いで助けに行ったら手前ぇの家でよ。もう少しで助けられたのに、目の前で大きな柱が落ちてきて下敷きになっちまった。その前の年に流行病で親を亡くした俺ら兄弟にとっちゃ唯一の身内だったのに、助けてやれなかったんだ」

 俯いた目に映っているのは、あの時の火事の様。

 夢にみる光景が、ありありと浮かぶ。

「辰さん……」

 お春の声で、辰吉は我に返った。

「なんだか、しみったれた話しちまったな! もう昔の事だから……」

 笑顔を作って上げた顔を、お春が両の手で、ぱちんと挟んだ。

 驚いて目を剥いた辰吉の正面で、お春が真剣な顔をする。

「辰さんのせいじゃないよ」

「お春……」

「辰さんが、悪いんじゃない」

 潤んだ目が辰吉を見詰めて揺れた。

 真剣な眼差しに、辰吉はどこか救われたような心持ちになった。

 気が付いたら、自然と笑みを溢していた。

「ありがとな」

 お春の小さな頭を撫でる。

 手を離したお春が、頬をぷっくり膨らませて赤くなった。

「私、もう子供じゃないのに」

 辰吉は、ははっと笑ってその頬を突く。

「ガキの頃から知っているからなぁ。癖だな」

 二人のやりとりを、啓太が楽しそうに眺めていた。


 朝餉が終わって落ち着いてから、辰吉はそそくさと準備を始めた。

「啓太、今日は出掛けるぞ」

 自分の着替えが終わってから、啓太の夜着を着替えさせる。

 啓太が首を傾げると、辰吉は楽しそうに笑った。

「今日は初午だろ。王子稲荷の稲荷祭りに行くんだよ」

 辰吉の浮き浮きした様子につられたのか、啓太の顔にも笑みが浮かぶ。

「よし! じゃあ、行くぜ!」

 啓太を肩車して、辰吉は浮足立って走り出した。

 一刻程、歩いたり走ったりを繰り返して道中を楽しみながら進む。

 道行に人が増えてきて、賑やかな雰囲気になってきた。

 出店が立ち並び、人垣の遠くには神輿みこしが見える。

「啓太、見てみろ」

 肩に乗せた啓太を見上げる。

 驚きと喜びが混じった何とも言えない顔で、神輿を眺めている。

 辰吉は満足そうに笑って、神輿に近づいた。

「すげぇだろ」

 神輿を担ぐ掛け声と歓声にかき消されないように声を張る。

 啓太が神輿を見詰めたまま、何度も頷いた。

 ゆっくりとした足取りで鳥居をくぐり、階段を上って境内に入る。

 神楽殿ではすでに神楽の上演が始まっていた。

 啓太が首を伸ばして、興味深そうに見詰めている。

「神楽を見るのは、初めてかぃ?」

 神楽から目を逸らさず、頷く。

 啓太の熱心な様子に、辰吉は人混みをかき分け前に出る。

 終わりまで、ゆっくり神楽を堪能した。

「さぁて、しっかりお参りしねぇと、神様に不義理しちまうからな」

 大行列に並び、拝殿の前に立つ。

 二人で横に並んで柏手を打ち、手を合わせた。

 辰吉が拝み終わって頭を下げると、啓太はまだ拝んでいた。

 その横顔は、何かを必死に願っているように見えた。

(やっぱり、親に会いてぇよなぁ)

 辰吉は拝殿の奥を見詰めて思った。

(神様、啓太を親に会わせてやってくだせぇ。こいつが幸せに暮らせるようにしてやってくだせぇよ)

 辰吉は、もう一度手を合わせ啓太のこれからを願った。

 参拝を終えると、二人は手を繋いで拝殿を離れた。

 境内の奥に歩くと、市が立ち並ぶ場所に出た。

 沢山の凧が並ぶ市に、啓太が目を輝かせる。

「これは火防凧ひぶせだこって言ってな、火を防いでくれるんだぜ」

 店先には色々な絵柄の大小様々な凧が所狭しと掛かっている。

 色とりどりの凧に、啓太は目を白黒させながら見入っていた。

 そんな啓太を、がひょいと抱き上げた。

「好きなのを選びな」

 啓太が辰吉を振り返り、目を大きく見開いた。

 辰吉がうんと頷くと、啓太は目を輝かせてきょろきょろと凧を選び始めた。

 沢山の凧の中から啓太が選んだのは、小さな奴凧やっこだこだ。

「もっと、でっけぇのを選んでいいんだぜ」

 啓太は選んだ凧を小さな手でしっかりと持って、首を横にぶんぶんと振った。

「それが、いいのかぃ?」

 辰吉を見上げて深く頷く。

 辰吉は、ふっと笑って銭を出した。

「親父さん、これを貰うぜ」

「毎度! 坊、父ちゃんに良いの買ってもらったな!」

 瞬間、啓太が肩を強張らせた。

 恐る恐る辰吉を見上げる。

 その様に、辰吉は優しく啓太の頭を撫でた。

「ありがとうよ」

 屋台の店主に手を振って、二人は市を後にした。

「明日は凧上げするか!」

 啓太と手を繋いで帰路につく。

 啓太が嬉しそうに凧を抱えて、笑顔で大きく頷いた。


 それからも何度か御救小屋に足を運び、欄干の張り紙の確認にも毎日通っているが、啓太を探している親は一向に見付からなかった。

 辰吉と暮らし始めた当初は強張っていた啓太の表情は、段々と緩んできて笑顔を見せることが多くなった。

 火事場で随分と怖い思いをしただろうから表情が強張るのは仕方のないことだ。

 親とはぐれた不安も大きいだろう。

 辰吉との暮らしが、今の啓太に安堵を与えているのは確かだった。

 しかし、辰吉の心には幾分かの不安も湧き始めた。

 このまま親が見つからなかったら、啓太は寂しい思いをするのだろう。

 自分のような身寄りのない人間にはしたくない。

 早く親を見つけてやりたいと思う。

 だが、憂慮する訳はそれだけではなかった。

 啓太が来てから、明らかに夢をみる夜が増えた。

 あの夢は、辰吉の心を揺るがせる。

 火事場において、その足を鈍らせるのだ。

 それが辰吉の心を焦らせる要因の一つでもあった。

 

 間の悪い事態とは続くものだ。

 この夜も、火事があった。

 半鐘の音が遠い間隔で鳴っている。

 火事はまだ遠いらしい。

 啓太に半纏を着せて外に飛び出す。

「お春! 啓太を頼む!」

「辰さん!」

 ちょうど部屋から出てきたお春に抱きかかえていた啓太を手渡す。

 辰吉は火事装束に着替えて長屋を出た。

 火事場に着くと、既に纏持ちが屋根に上がって纏を振り上げていた。

「火元は、ここか」

 燃え盛る火を、じっと見詰める。

 目の前の火事が夢の光景とだぶって見えて、子供の泣き声が頭の中に木霊する。

(畜生、こんな時に)

 いつもなら何も考えずに飛び込んでいけるのに、体が強張って動けない。

 じりっと地を踏みしめて、意を決して体を前に出す。

「辰!」

 飛び出そうとした時、後ろから権兵衛の声が飛んできた。

 はっとして振り返る。

「頭! 俺も屋根に……」

「待て、お前ぇは人を誘導しろ。あっちだ」

「けどっ……」

 前のめりになる辰吉の肩を掴んだ手に、権兵衛がぐっと力を籠めた。

「辰、絶対に無理はするんじゃぁねぇ。手前ぇの為だけじゃぁねぇ、他の皆の為でもある。わかるな」

 辰吉は悔しそうに下唇を噛んで俯いた。

「辰吉」

 駄目押しのように掴んだ肩を揺すられて、辰吉は顔を上げた。

「わかりやした。行きます」

 頷いて踵を返すと、辰吉は人混みへ走って行った。

 後姿を沈痛な面持ちで見送って、権兵衛が現場に戻っていった。

「おーい! こっちだ! 急げ!」

 人々の波を火除け地へ誘導しながら、ふと、遠くの空に舞う火の粉を見上げる。

 赤く染まる空に、半鐘の音が鳴り響いている。

 辰吉は未練を断ち切るように首を振って、目の前の仕事に集中した。

「気を付けろ! 押すなよ!」

 半刻程で粗方の人々は避難を終えた。

 火の手もだいぶ落ち着いて、いつの間にか半鐘の音は消えていた。

 人の誘導を終えて、辰吉は火元の家の前に戻った。

 真っ黒に煤けた瓦礫が転がり、木の焦げた匂いが辺り一面に充満している。

 焼け跡や瓦礫を、只々じっと眺めていた。

「死人は出なかったとよ。火はでかかったが怪我人も少なくて済んだみてぇだし、重畳だ」

 権兵衛の声に、ゆっくり振り返る。

「頭……」

 振り返った辰吉の顔を見て、権兵衛は苦笑した。

「何でぇ、しけた面しやがって。手前ぇは立派にやることをこなしたじゃねぇか」

 言葉なく俯く辰吉の肩を、権兵衛は優しく叩いた。

「いつまでも、気に病むんじゃぁ、ねぇぞ」

 小さく一言だけ残して、権兵衛は仲間たちの元に走って行った。

「頭……」

 辰吉はその場に立ち尽くし、ぎゅっと強く拳を握りしめた。


 火事があった数日後、辰吉は同じ長屋の凜の元を訪ねていた。

「辰吉さんが、あたしんとこに来るなんて、珍しいねぇ」

 煙管を弄び煙草を燻らせながら、凜が辰吉を眺める。

 辰吉は優太が差し出した茶を手にとって、中に映る自分の顔を見詰めていた。

「いやな、ちょぃと相談事が、あってよ」

 歯切れの悪い辰吉の言葉に、凜は吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出した。

「風邪でも、ひいたかぃ?」

 くすくすと笑いながら訊ねる凜に、辰吉は顔を上げる。

「そうじゃぁねぇ。体は、ぴんしゃんしていらぁ。そうじゃなくって、夢の話で」

 凜が煙管の灰を煙草盆にかん、と落として、煙管をふっ、と吹いた。

「で? どんな相談だぃ」

 凜の眼から目を逸らして、辰吉はおずおずと話しはじめた。

「半月くらい前に、火事場でガキを拾って、預かっているんだが、よ……」

「啓太って子かぃ。名無しの坊に、あんたが名を付けてやったとか」

「ああ、そうだ。啓太は、啓太って名は、死んだ弟の名なんだ。俺の弟は火事で焼かれて死んだ。もう、何年も前ぇの話だ。その名をあの坊に付けたのは、別に深い意味があったわけじゃねぇ。けど……」

 そこで辰吉は口籠った。

 凜が無言で、辰吉を眺める。

「……坊を拾ってから、昔の夢をみることが増えて、火事場に行くのが怖くなっちまった。火を見ると夢が頭に浮かんできて、足が竦む。これじゃぁ、仕事にならねぇ」

 湯呑を握る手に力が入る。

 いつの間にか俯いていた顔に、悔しさが滲む。

 優太が眉を下げて見詰める隣で、凜が静かに聞いた。

「夢を、売るかい?」

 辰吉は顔を上げて、言葉を詰まらせた。

 またゆっくり下を向くと、辛そうに言葉を絞り出した。

「あの夢は、俺にとって大切なもんで、忘れちゃならねぇもんだ」

「夢を売ったからといって、想いや記憶が消えるわけじゃぁない。ただ、夢をみなくなるだけさ」

「それでも」

 凜の言葉に被せて、辰吉が前のめりになる。

「それでも、夢をみなくなったら、いつか忘れちまいそうで、そいつが火事より、怖ぇ」

 辰吉の真剣な顔を見詰めていた凜が、ふっと口元を緩めた。

「だったら今は売りなさんな。売っちまったら同じ夢は二度とみない。大事にとっておきなぁよ」

 辰吉は、肩を落とした。

「俺ぁ、どうしたらいいんだぁ」

 項垂れる辰吉を心配そうな顔で見詰めていた優太が凜に目を向ける。

 凜が、ふうと一つ小さく息を吐いた。

「答えが出ないなら、出るまで悩むんだね。夢を売りたくなったら、いつでも来なぁよ」

 煙管に煙草を詰めながら、凜が辰吉を横目で流し見る。

「そう……だな。そうするよ」

 辰吉は項垂れたまま帰って行った。


「買ってあげたら、よかったのに」

 優太がじっとりした目で睨む。

 凜は、ふんと鼻を鳴らした。

「じきに売りに来るよ。まだ、ちぃとばかし早いだけさ」

 煙草に火を付け、煙を吐き出す。

「大事なもんを手放す時は覚悟が必要だ。決められない間は、無暗に動くもんじゃぁない。自戒なんざ失くても大丈夫だって自分で思えなけりゃ、後悔が残るだけだよ」

 優太が納得のいかない顔で、出した湯呑を片付けようと持ち上げる。

「あ」

 顔を上げた凜を振り返り、湯呑の中を見せた。

「茶柱が立っていますよ」

 凜は、ふっと笑った。

「良かったじゃぁないか」

 旋風が長屋の狭い隙間を流れて、ひゅうと音を立てて吹き去っていった。


 江戸の冬は火事が多い。

 乾燥した空気が引火を誘発し、乾いた強い北風が火事を増長させる。

 規模の大小はあれど、冬の火事は日常茶飯事だ。

 この夜も、辰吉は疲れた顔をして長屋に帰ってきた。

 いつもなら寝ている啓太が、この夜は起きて辰吉の帰りを待っていた。

「啓太、起きていたのか。寝ていろと、言ったじゃねぇか」

 疲れた笑みで啓太の頭を撫でる辰吉に、啓太は首をぶんぶんと横に振る。

 立ち上がると、桶から水を一杯持ってきた。

「ああ、俺にか? ありがとうな」

 飲み干して湯呑を畳の上に置く。

 深い闇の中で、行燈の灯りが二人の顔をぼんやりと映し出す。

 辰吉は啓太の顔をじっと見詰めて押し黙った。

 啓太も辰吉を心配そうに見上げている。

 啓太の親は、一向に見付からない。

 親の方に探している気配が、まるでないのだ。

 死んだと思って諦めているのか、親が既に死んでいるのか。

 もしくは、あの火事場に捨てられたのか。

 その可能性に行きついて、辰吉の心は沈んだ。

 もし捨てられたのだとしたら、啓太の親が子を探すことはない。

 親に捨てられた子の気持ちは、どんなものだろう。

 両親と弟を亡くしている辰吉でも、想像を絶するものである筈だ。

 考えただけでも、胸が痛い。

 しかし、辰吉の胸に去来する思いは、それだけではない。

(もし捨てられていたり、親が死んでいたとしたら。俺ぁこいつを、これからどうするつもりなんだ)

 軽い気持ちで面倒を見始めた。

 親も、すぐに見つかるだろうと思っていた。

 しかし、こうも手掛かりがないと、そう巧くは行かないような気がしてくる。

 仮に、このまま親が見つからなかった場合、捨て子扱いになる。

 奉行所に申し出れば『町の預かり子』として辰吉が面倒を見るのは可能だ。

(俺には、こいつを預かって育ててやる覚悟があるのか)

 神妙な面持ちで押し黙っている辰吉を、啓太は身動きもせず、じっと見詰めていた。

 小さな瞳にありありと浮かぶ不安に、今の辰吉は気付かない。

 かーん、かーん、かーん。

 そう遠くない場所で、半鐘の音が響いた。

 はっとして、顔を上げる。

「また火事か!」

 辰吉は戸口に飛び出した。

 そこで振り返り、啓太を見詰める。

 啓太が不安げな顔で、辰吉の目をじっと見ていた。

 振り切るように逸らすと、近くにあった半纏を着せて啓太を抱き上げた。

 斜向かいの、お春の長屋の戸を叩く。

「お春! すまねぇ、また火事だ。今度は近いから、啓太を頼む!」

 お春が飛び出して、辰吉から啓太を抱き上げた。

「気を付けて行ってきてね!」

「おう!」

 勢いよく返事して、ふと啓太を見やる。

 辰吉は苦笑気味に啓太の頭を撫でると、踵を返し走り出した。

「……」

 辰吉の後ろ姿をじっと見詰めていた啓太が、急にお春の腕から飛び出した。

 見えなくなった背中を追いかけて走り出す。

「啓太ちゃん、駄目よ!」

 お春の制止も虚しく、啓太の姿は煙の中へ消えていった。


 火元は長屋から近かった。

 辰吉は燃え盛る炎の中で、逃げ惑う人々を誘導する。

「そっちじゃねぇ! こっちだ! 急げ!」

 鍋や布団を携えた人々が避難する列を、広小路へと誘う。

 振り返ると、火はすぐそこまで迫っていた。

「ちっ、さっきのより、でけぇな」

 別れ際の啓太の様子が心配だったが、帰るわけにもいかない。

 両手で頬をぱんと叩き、気合いを入れる。

 そこに、お春が血相を変えて走ってきた。

「辰さん!」

 息を切らせて駆け寄ったお春が、前のめりに辰吉にしがみついた。

「何でぇ、いってぇ、どうした……」

「啓太ちゃんが! いなくなったの!」

 辰吉は目を見開いた。

 すぐに、近くにいた仲間に声を掛ける。

「すまねぇ、ちぃとばかし離れる」

 今度は、お春に向き合った。

「ここは危ねぇ、お前ぇは長屋の皆と避難しろ」

「私も啓太ちゃんを探す!」

 勢い込むお春の両腕を掴んで、辰吉は目を合わせた。

「火事場は危ねぇ。お前ぇは、ここから離れろ。俺がちゃんと探すから、な」

 辰吉の何時にない鬼気迫った眼差しに、お春が渋々と頷く。

「よし、良い子だ」

 頭を撫でると、お春がぽろぽろと涙を流した。

「ごめんね、辰さん。私が、目を、離したから」

 辰吉は笑顔でお春を、そっと抱きしめた。

 吐息がかかる程に近い耳元に囁く。

「お春のせいじゃねぇよ。大丈夫だ。啓太は、きっと無事だ」

 すっと体を離し、またぽんと頭を撫でた。

「ちゃんと、戻るんだぜ」

 辰吉は荒れ狂う火の中に向かい走った。

 お春が茫然と、辰吉の後姿を見送る。

 頬がやたらと熱いのは、炎のせいだろうかなどと考えながら、ぼんやりと長屋の方へ向かい歩き出した。


 火が燃え盛る中を、辰吉は啓太の名を叫びながら歩き回った。

 小さな足で歩ける範囲はそう広くない。

 長屋から火事場までの道を探して回るも、一向に見付からない。

 人々が逃げ惑い、火に巻かれた混乱の最中で、あの小さな体を探すのも容易ではない。

「くそっ、どこに行っちまったんだ」

 思わず溢した時、目の前を人魂のような白い炎が、ふわりと通り過ぎた。

 人魂が、ふわりふわりと辰吉の周りを浮遊すると、道の先を飛んでいった。

「なんだ、ありゃ」

 気になって、人魂の後を追う。

 人魂は、まるで辰吉を先導するように先へ先へと進んでゆく。

 その後をついて行くと、町の外れの小さな稲荷神社に行きついた。

 火の粉が飛んできたのか、社の屋根と鳥居が燃えている。

 社の前に、蹲る小さな影を見つけて、辰吉は走った。

「啓太!」

 燃える鳥居を潜り抜け、社の短い階段に座り込む啓太を抱き締めた。

「馬鹿野郎! こんなところで、何していやがる!」

 辰吉の怒号に小さな肩をびくりと震わせる。

 啓太は辰吉の姿を見るや、堰を切ったように泣き出した。

「う……、うっく」

 辰吉の胸にしがみ付いて、しゃくり上げて泣いている。

 その手は小刻みに震えていた。

「怒鳴って、すまねぇ。怖かったな。もう、大丈夫だ」

 啓太を胸に抱いて背中を擦ってやる。

 それでも啓太は泣き止まず、辰吉の火事装束を掴む手に力を籠める。

 この小さな手に、こんなに力があるのかと驚くほど強い力でしがみ付いて離れなかった。

(俺が出掛けに、あんなこと考えちまったから、不安になっちまったのか)

 啓太は口がきけないせいか、他人の表情や言葉の抑揚をよく捉える。

 辰吉の思いを感じ取って、子供ながらに不安になったのかもしれない。

「ごめんな」

 辰吉は、啓太を強く抱きしめた。

 突然、頭上で、ぱちぱちと木が爆ぜる音が大きくなった。

 社が燃えて、目の前に炎にまかれた注連縄が落ちてきた。

「とにかく、ここから離れねぇと」

 顔を上げると、目の前の鳥居が先程より大きな音を立てて燃えいる。

 辰吉たちの周りは、あっという間に火に囲まれた。

 火の粉が舞い落ちてきて、着物を焦がす。

 辰吉は体全体で啓太を覆い庇う。

 火事装束の前を開けて、その中に啓太を包み抱いた。

「くっそ。火が回って、身動きがとれねぇ」

 社の梁が勢いよく燃えて、今にも落ちてきそうだ。

 これ以上待つのは危険だ。

 辰吉は啓太を抱え無理矢理に立ち上がる。

 その瞬間、燃えていた梁が二人を目掛けて落ちてきた。

「危ねぇっ!……」

 咄嗟に背中を丸めて、啓太を懐に庇う。

「!……」

 強い衝撃を覚悟していた背中には、なんの痛みもない。

 不思議に思って顔を上げると、目の前を人魂がふわりと飛んだ。

「こいつぁ……」

 よく見ると、落ちてきた梁が思わぬ場所に弾かれている。

 辰吉たちを囲んでいた火が、二人を避けるように炎の先を外に向けていた。

「いってぇ、どうなってんだ」

 驚いて眺める辰吉の目の前に、人魂がふわりと舞い降りる。

 白い人魂は丸い形から徐々に人の形を成してゆく。

 やがてその顔は、忘れられない、大切な人になった。

「啓太……」

 目の前に、火事で死なせてしまった弟の啓太が立っていた。

『兄ちゃん』

 啓太が、きれいな笑みを辰吉に向けた。

『兄ちゃん、もう俺のことは忘れておくれよ。俺は兄ちゃんを恨んでやいないよ。助けようと、駆け付けてくれたじゃねぇか』

「なに、言いやがんだ。俺はお前ぇを、一時だって忘れちゃいねぇ!」

 啓太が静かに首を横に振った。

『いつまでもあの時の火事を、引きずっちゃなんねぇよ。兄ちゃんは、お江戸の花形、格好良い火消しだろ。俺の自慢の兄ちゃんなんだぜ』

「啓太……」

 辰吉の視界が涙で歪む。

『今は、その子を助けてあげておくれよ』

 啓太の体が、人の形から人魂に戻っていく。

 二人を誘って、ふわふわと揺れた。

 辰吉は涙を拭って懐の啓太をしっかり抱抱え直した。

 火の輪を潜り抜け、一心に走った。

 ふわりふわりと進む人魂だけを見詰めて、只ひたすらに走り抜けた。

 いつの間にか赤い火は見えなくなり、気が付けば静かな場所に着いていた。

「ここは……」

 そこは辰吉の両親と弟が眠る墓だ。

 辰吉は体を引きずるように弟の墓標に近づくと、膝をついた。

「啓太、啓太」

 涙が堪えきれずに、どんどん溢れてくる。

「ありがとうよ……ごめんな、ありがとう……」

 辰吉は両手をついて、その場に泣き崩れた。

 懐の中で辰吉の胸にしがみ付いていた啓太の頬に、辰吉の零した涙が流れていた。


 その夜の火事は大きかったが、火消したちの懸命な消火活動が功を奏し、大きな被害は出なかった。

 辰吉たちの長屋も、ぎりぎりのところで火を免れてた。

 次の日の朝、井戸に顔を洗いに出て行くと、男衆が井戸端会議をしていた。

「やっぱり辰吉さんたち火消しは、頼りになるねぇ」

「本当だぜ。火消し様様だな」

 口々に褒められて、なんだか気恥ずかしくなる。

「いやぁ、俺ぁ、昨日はあんまり……」

 口籠っているところに、お春が部屋から顔を出した。

 ふと目が合う。

 お春の頬が赤く染まって、辰吉まで熱が昇る。

 目を逸らしながらも、お春がいそいそと辰吉に近づき、大きく頭を下げた。

「き、昨日は、ごめんなさい。啓太ちゃん、ちゃんと見られなくて」

 赤い顔で俯くお春を直視できず、辰吉の目が泳ぐ。

「あ、あれは……、その、あれだ。お前ぇのせいじゃあ、ねぇよ。気に、すんな」

 ぎこちない言葉に、お春が黙ったまま頷く。

 そんな二人の様子を見て、周りの男たちが、ぴんときた。

「なんでぇ、二人とも。火事の夜に何か、あったのかぃ?」

 揶揄うように言われて、辰吉の顔が真っ赤になった。

「な、何もねぇよ!」

 思わず大きな声を出してしまい、はっとする。

 周りの皆が、にやにやと笑いながら、顔を赤くしている辰吉とお春をまざまざと見比べた。

「いい加減、一緒になっちまいな! ったく、まどろっこしいったらねぇよ」

「ちょっと大助さん、何、言ってるの!」

 増々頬を赤くしてお春が声を荒げる。

 その間にも辰吉は、ほれほれと突かれて、観念したような顔をした。

「そう、だな。お春、一緒になるか」

 耳まで真っ赤にして、辰吉はお春の目をじっと見詰めた。

 お春が、ぽかんとして辰吉を見上げる。

 突然、目に涙を滲ませた。

「な、なんで泣くんだよ。俺じゃぁ不満か」

 ぎょっとして慌てふためく。

 困り果てる辰吉の周りで、皆が笑い飛ばした。

「そりゃぁ、嬉しいからに決まっているだろうよ」

「良かったねぇ、お春ちゃん」

 いつの間にか出てきた女たちに囲まれたお春が口元を手で覆う。

 泣きながら辰吉に笑い返した。

 その顔を見て、辰吉はようやく胸を撫で下ろした。

 後ろに立つ大助が何気なく辰吉の足元を見て、首を捻った。

「んじゃぁ、啓太はどうするんだい?」

 皆の眼の先が啓太に集まる。

 啓太が辰吉の足に隠れた。

 辰吉は、不安顔の啓太を躊躇いなく、ひょいと抱きあげる。

 啓太をまっすぐに見て、にっと笑った。

「もう、親探しは止めだ。俺が啓太を育てる。お春、いいか?」

 真剣な顔でお春を見詰める。

 お春もまた真面目な顔で、辰吉を見つめ返した。

「良いも悪いも、啓太ちゃんはもう私たちの子よ!」

 周りが「おお!」とどよめいた。

 お春の顔が先ほどより赤く染まる。

 辰吉は驚いた顔をしながら、ははっと笑った。

「啓太、お前ぇの母ちゃんは、とんだ肝っ玉だな!」

「もう、辰さんの馬鹿ぁ」

 辰吉の腕をお春が、ぽかっと叩く。

 それを摑まえて、辰吉がお春の肩を抱いた。

 お春は照れながらも嬉しそうに逞しい腕に収まっていた。

 皆の笑い声が長屋中に響く。

 啓太もまた、今までにない程の満面の笑みを浮かべていた。


 しばらくして身の回りが落ち着いた頃。

 辰吉は、お春と啓太を連れて亀戸の梅屋敷にやってきた。

 立春も間近になると、梅が見頃を迎える。

 春の足音が冬を遠ざけ始めた江戸は、火事の件数がようやく減った。

 辰吉の仕事もひと段落したので、家族水入らず出掛けよう、となったわけである。

 木々に散らしたように咲く小さな薄紅色の紅梅は仄かな梅香を漂わせる。

 鼻腔をくすぐる芳香が心地よい。

 三人は啓太を真ん中にして、手を繋いで歩いていた。

「あれが噂の、臥龍梅か」

 辰吉が足を止めたのは、一際大きな梅木だ。

 垂れさがった枝が一度地中に潜り、また地表に突き出した様がまるで横たわっている龍のようだと、水戸光圀が命名した梅である。

 八代将軍吉宗も鷹狩の帰りにこの地を訪れ、臥龍梅を見て生命が繰り返し生き続けることになぞらえ「世継ぎ梅」と命名した。

 亀戸梅屋敷の中でも一番人気の梅である。

「枝ぶりが見事だねぇ」

「本当に、竜が寝そべっているみたい」

 啓太も初めて見る大きな梅を驚いた目で眺める。

 視線を感じて、ちらりと横目で見やる。

 年増の女が遠巻きに、こちらを見ているのに気が付いた。

 梅を観ているのかと思い臥龍梅から離れてみたが、その女は自分たちの後ろを付いてくる。

 観光客にしては質素に見える着物は、屋敷の掃除屋か植木屋か。

 しかし、どうにも雰囲気が怪しい。

 梅屋敷の中を一通り見終えて近くの茶屋で一服する。

 桜餅を食べながら、辰吉はお春にそっと耳打ちした。

「おい、お春。少しばかり早く帰ぇるぞ」

 お春は不思議そうな顔で首を傾げた。

「どうしたの? この後、亀戸天神に行くんじゃないの?」

 辰吉が、ちらりと後ろを見る。

 木の陰に、先程の女の姿があった。

「どうも、付けられているみてぇだ。何の用か知らねぇが薄気味悪ぃ。お前ぇらを危ねぇ目にぁ合わせられねぇから、先に帰ぇんな」

 思わず後ろを振り向こうとするお春の肩を慌てて掴む。

「あからさまに見んな。いちゃもん付けられたら、面白くねぇだろ」

 お春が黙って頷いた。

 啓太が桜餅を食べ終わるのを待って、お春が啓太の手をとり立ち上がる。

 二人が歩き出すと、女も引き寄せられるようにその後を付いて来た。

 辰吉は間に立って、女の行く手を阻んだ。

「姐さん、俺たちに何か用かぃ?」

 鋭い眼光が女を睨みつける。

 よく見ると、女は所々当て布をしたぼろの着物を纏い、髪を適当に結い上げて、何ともみすぼらしい格好をしている。

 突然、目の前に現れた辰吉に驚いて、女は仰け反った。

「啓太ちゃん!」

 後ろからお春の声がして振り返る。

 啓太が辰吉の所に走ってきた。

「啓太、お春とあっちに行っていろ」

 啓太が辰吉の足にしがみ付いて顔を見上げる。

 今度は視線を移し、じっと目の前の女を見詰めた。

「七郎……」

 女が感慨深げな顔で啓太を見詰める。

 目を潤ませながら、女は一歩、啓太に近づいた。

 すると啓太が辰吉の着物を、ぎゅっと握り足の後ろに隠れた。

 女の顔と啓太の顔を見比べて、辰吉は目を見開いた。

「七郎って……あんたまさか、この子の……母親、か?」

 女は躊躇いながら、小さく頷いた。

「仕事で、たまたま通った道すがら、偶然見つけて。懐かしさで、つい後をつけました。申し訳ごぜぇません」

 女が深く頭を下げる。

 辰吉は混乱した。

 このひと月、手がかりすら見付からなかった親が突然目の前に現れた。

 それは良いことの筈だが、何か違和感がある。

 自分の子供を見つけたのに声も掛けずに、ただ遠くから見ていた行動。

 みすぼらしい母親の格好。

 それに、啓太の怯えた反応。

 久しぶりに母親に会えたのに、嬉しそうな顔は微塵もしていない。

 それどころか、まるで辰吉に縋っているようだ。

「あんた、どうして……」

「お鶴!」

 数々の疑問符が浮かぶ頭で、どうにか言葉を絞り出そうとした瞬間。

 女の後ろから来た男が辰吉の声を遮った。

「こんな所で何をしていやがる。休む暇なんか、ねぇんだぞ!」

 ずかずかと大股で歩いてきた男もまた貧相な格好をしている。

 背負籠を背負っているところを見ると、行商人のようだ。

 こちらに歩いてきた男が、啓太を見て明らかに顔色を変えた。

「……手前ぇ、生きていやがったのか」

 啓太が、びくりと肩を震わせ、辰吉の足に強くしがみ付いた。

 後から来たお春が、咄嗟に啓太を抱き上げる。

 啓太がお春の胸に、震えながら縋りついた。

 その様子を見て、辰吉は大方の事実を察した。

 ふう、と一つ息を吐くと、男に目を向ける。

「あんた、この子の父親かい?」

 お鶴と呼ばれた母親が目を潤ませて男を見上げる。

 男が、ばつの悪そうな顔をして口籠った。

「俺らの息子は死んだんだ。そんなガキは、知らねぇ……」

 男が、ふいと目を逸らす。

 辰吉は、ふんと鼻を鳴らした。

「そうだろうな。こいつぁ、俺たちの子だ。他の誰にも渡したりしねぇよ」

 男が顔を上げ、辰吉を凝視した。

「本当の親に会ったんなら、こいつがこねぇに怯える筈がねぇ。お春、行くぞ」

 踵を返し二人を連れていこうとした時、

「待って!」

 お鶴が叫び声を上げた。

「私らはその子の、七郎の親です」

「おい、お鶴!」

「あんたは、黙っていなよ!」

 男の制止を撥ね退けると、お鶴は辰吉の前に土下座した。

「訳あって、その子を火事場に捨てましたが、後悔してんです。お願ぇします、後生です。一度だけでも、触れさしてもらえねぇでしょうか」

 必死に頭を下げるお鶴の肩を、男が掴む。

「お鶴、止めねぇか!」

 掴んだ手を振り払い、お鶴が怒鳴った。

「あんたにとっちゃぁ邪魔な足手まといでも、あたしにとっちゃ腹を痛めて産んだ大事な子なんだ! 勝手に、勝手に捨ててきたのは、あんただろ!」

 お鶴の鬼気迫る表情に、男は振り払われた手を、びくりと引っ込めた。

 また辰吉に向き合うと、お鶴は必死に頭を下げた。

「お願ぇします。お願ぇします」

 辰吉は不憫そうな目でお鶴を眺めた。

 啓太に目を向ける。

 怯えた顔のまま、啓太がお春の胸元に必死にしがみ付いている。

 辰吉は、優しく笑って啓太の頭を撫でた。

 お鶴に近づくと、膝をついて伏せる肩を持ち上げた。

「こねぇな場所で土下座なんざ、するもんじゃねぇよ」

 お鶴が、ぱっと顔を上げた。

「そんじゃぁ……」

「啓太には、触れさせねぇ」

「え……」

 きっぱりと言い切った辰吉の言葉を理解できない顔で、お鶴が表情を強張らせた。

 辰吉は、お鶴を睨みつけた。

「懐かしさだの、勝手にだのと、随分と手前ぇに都合の良い言い分だな。あんたは結局、息子を探しもしなかったんだろ。第一、あんたを見て、あの子は怯えて震えてんだ。捨てる前ぇに、どんな所業をしていたか、知れやしねぇ」

 辰吉の鋭い眼光が、怒りを帯びる。

「そもそも後悔しているんなら、触れさせろじゃぁなく、返せ、だろうが。それも言えねぇ親になんざ、指一本たりと触れさせるかよ!」

 お鶴が、深くこうべを垂れた。

 後ろに立っていた男が、小さな声で話し出した。

「……うちは貧しい上に家族は十人。毎日を、何とか生きていんだ。七郎は生まれつき口がきけねぇし人足には、ならねぇ。だから口減らしに、どさくさに紛れて火事場に捨てた。親だなんて、名乗れるわけもねぇ」

 辰吉は、言葉に詰まった。

 啓太は話せこそしないが、賢い子だ。人足にならない程ではない。

 捨てざるを得ない次第が、他にあったのだろう。

 火事場のどさくさで死んでもいいと置き去りにした事実は、どうしようもなく腹が立つ。

 しかし、二人のみすぼらしい着物や、やるせない表情は、生活の苦労を如実に物語る。

 この家族の詳しい事情を知らない自分が、これ以上責めるのは無責任に思われた。

「良い人に、拾われました」

 ぽつりと呟くと、お鶴が立ち上がり、深々と頭を下げた。

「私の勘違いだったようです。大事なお子さんに妙な言い掛かりをつけて、どうもすみませんでしたね」

 お鶴が背を向けて、早足に歩き出した。

「おい、お鶴!」

 男が啓太を、ちらりと見て、俯く。

 辰吉に小さく頭を下げると、お鶴の後を追って行ってしまった。

 辰吉とお春は、啓太の手を強く握った。

 無言のまま、二人の後ろ姿を、見えなくなるまで眺めていた。


 陽が傾きかけて、青い空に茜が染みる。

 乾いた空風はいつの間にか、ふわりと暖かく感じられるようになった。

 そんな中、川沿いの土手道を三人は手を繋いで歩いていた。

「啓太、疲れたろ。抱っこしてやらぁ」

 辰吉は啓太を抱き上げた。

 優しく微笑んで、頭を撫でる。

「お前ぇ、七郎って名だったんだな」

「辰さん……」

 お春が寂しそうな顔で二人を見上げる。

 辰吉は微笑んだままの瞳で啓太を見詰めた。

「七郎の方が、いいか?」

 啓太は泣きそうな顔で、首をぶんぶんと横に振った。

「俺らに気を遣うこたぁ、ねぇんだぜ。折角、親に会えたのに、勢いで追い返しちまった。お前ぇは本当に俺らと一緒で、いいのか?」

 真っすぐな眼差しを、啓太が真正面で見詰める。

 口を、はくはくと動かした。

「ん?」

 声こそ出ないが、口の形が「け、い、た」と動いている。

 その動きを、何度も何度も繰り返した。

「啓太ちゃん」

 お春が、必死に口を動かす啓太を見て、涙を滲ませた。

 辰吉の視界も滲んで茜が染みる。

「てっ、一丁前にしやがって。そうだな、お前ぇは啓太だ。俺たちの大事な啓太だ!」

 啓太の小さな体を、滲む空に向かって高く高く抱き上げた。

 寄り添うお春の肩を抱き、啓太に頬擦りする。

「俺たちは、家族だ」

 大きな陽が山間に沈む中、三人は互いを慈しみながら身を寄せ合っていた。


 その後、啓太は奉行所に捨て子として受理された。

 齢十になるまでの正式な預かり親に、辰吉が認可された。

 両国橋の欄干に張った張り紙を、べりっと剥がす。

「これで、よしっと」

 迷子の張紙を剥がしたら、胸の閊えがとれた気がした。

「後は……」

 辰吉はその足で、夢買屋の凜の元に向かった。


「決心が、ついたのかい」

 相変わらず、長煙管で煙草をふかす凜に、辰吉が頷く。

「凜さん。俺の夢を、買い取ってくれ」

 清々しい眼差しは強い決意の色を帯びている。

 凜は煙管を置いて辰吉に向き合った。

「前にも増して一層、良い男になったじゃぁないか」

 一瞬、ぽかんとした辰吉が、吹っ切れた顔で照れ笑いした。

「夢をみなくなっても、俺はもう、弟も、あの火事も忘れねぇ。夢に足を竦ませている場合じゃぁねぇんだ。俺ぁ、これから家族を養わねぇといけねぇからよ。それに、そういう俺の方が、弟はきっと喜ぶ」

 笑んだ瞳には慈しみと寂しさが同居して見える。

 凜は、ふっと笑って、辰吉の前に膝立ちになった。

「ちょいと、目を瞑んな」

 目を瞑った辰吉の額に片手をあてる。

 円を描くようにくるくると手を回す。

 辰吉の額から、薄紅色の煙のようなものが、もくもくと浮かび上がった。

 その先をついと摘まんで、するりと引き抜く。

 狭い天井を埋め尽くす程の薄紅の煙が、雲のようになって広がった。

「夢ってなぁ、こねぃな形をしてんのかい」

 驚いた顔で見上げている辰吉の前で、凜はその煙をついとひっぱり集める。

 掌に乗るくらいの塊に、ころころと丸め込んだ。

 それをぽいっと口の中に放り込む。

 ごくりと飲み込んで、ふうと息を吐いた。

「ご馳走さん」

 一連の様を、辰吉が呆気に取られて眺めている。

 凜は長持から小袋いっぱいの二朱銀を取り出すと、辰吉に手渡した。

「夢の相場は知らねぇが、こんなには……。流石に貰えねぇ」

 両手でやっと持てる程の袋に、ぱんぱんに詰まった朱銀を見て辰吉が慌てる。

 突き返そうとする辰吉を、凜は目で制した。

「お春と一緒になったんだろ。あの、おきゃんと所帯を持つとは物好きだ。けどまぁ、見る目はあると思うけどねぇ。だからさ、祝儀だと思って貰っておくれな」

 凜の目が、にやりと微笑む。

 辰吉が、ぐっと言葉を飲み込んだ。

「貰ってください、辰吉さん」

 横から優太が、にっこり笑う。

 辰吉は重たい袋を受け取った。

「凜さん、有難てぇ」

 深々と頭を下げる辰吉に、凜はぎょっとした顔をする。

「よしておくれよ。あたしは、あんたから夢を買ったんだ。妥当な対価を払っただけださ。それに、お春は、よく夢を売りに来るからねぇ。ちゃぁんと支払わなけりゃ、あたしが叱られちまう」

 くすくすと笑いながら煙管を咥える凜に、辰吉がははっと笑う。

 何度も礼を言って、辰吉が帰って行った。

「なんだかんだで、良かったですね」

 優太が、ほっこりした顔をする。

「雨降って地固まる、ってところかねぇ」

 煙管の先に煙草を詰めて火を付ける。

 凜の顔も心なしか笑っているようで、優太も嬉しい気持ちになった。

「血の濃さだけが身内ってわけじゃぁ、ないからね。良い家族になるだろうさ」

 小さな格子窓を開けて、外の景色を眺める。

 梅が咲き、桜が膨らむこの季節は、土の下で新芽が芽吹く時を待っている。

 吹き流れる風は徐々に温かく、仄かな梅の芳香を運んでくる。

 長屋の隙間を流れる風も、いつのまにか柔らかく心地良い香りになっていた。



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