夢ノ四 茜色の夕焼け

「さ、いいよ」

 ぽん、と軽く背中を叩かれて、お優は開けていた肌を隠し着物を直した。

 凜は手を洗って立ち上がると、戸棚の中から薬袋を取り出す。

「いつもとは少し変えてある。咳が酷くなってきたようだから、咳止めの作用が強い生薬を加えてあるからね」

 手渡された薬は、ずっしりと重い。

 いつもながらの重さに、優は顔を顰めた。

「ねぇ、凜さん。いつもこんなにもらえる程のお代は払っていないんだ。これは多過ぎるよ」

 返そうとするお優の手を、凜が目で制した。

「何も、将軍様が使うような上等な薬を調合しているわけじゃぁないんだ。貰うもんは貰っているんだから気にしなさんな。それより滋養のあるものを食べて、ゆっくり体を休めなよ」

 優しく微笑む凜に、お優は頭を下げた。

「いつもありがとう。凜さんに診てもらえて、本当に助かるよ」

「やめておくれよ。あたしは仕事をしているだけ、なんだからさ」

 奥に目をやると、優太が籠を両手に抱えいた。

「近所のお春さんに頂いたんですが、食べきれないので持っていってください」

 籠の中には艶やかな卵が沢山入っていた。

「こんなに沢山? もらえないよ」

「うちは二、三個あれば充分だからさ。腐らせるのは、勿体ないだろ」

 凜の隣では、優太はさっさと卵を風呂敷で包む。

 お優は戸惑いながらもそれを受け取り、また深々と頭を下げた。

「本当にありがとう」

 凜が、ぎょっとする。

「やめておくれよ。余っているものを流しているだけなんだ。大したことじゃぁないだろ」

 お優の顎に人差し指をあてて、くいと持ち上げる。

 不意に上げられた顔に、なんだか可笑しくなって笑みが浮かぶ。

 凜も、同じように微笑んだ。

「さてと。それじゃぁ、あたしは煙草を吸うからね。病人はさっさと帰んなよ」

 しっし、と払いのけるように手を振ってみせる。

 ふと外を見ると、もう夕刻だ。

 そろそろ旦那が仕事から帰ってくる。

 そんな動作にすら凜の優しさが垣間見えて、心がほっこりする。

 お優は荷物を持って立ち上がった。

「次は十日後。悪くなったら耐えずに、すぐ来るんだよ」

 煙管に煙草を詰めながら凜が念を押す。

「わかったよ」

 と返事して、一礼すると、お優はようやく帰って行った。


 後姿を見送って、優太は憂いた表情をした。

「お優さん、悪くなっていますね」

 秋口にはあまり聞かなかった咳も、冬の空風が吹くこの頃は湿った重いものに変わりつつあった。

「労咳は人にとって不治の病だ。悪くはなっても良くなることはないだろうね」

 凜が煙草に火を付け、煙を吸い込む。

「……」

 優太が悲しそうに俯く。

 横目でちらりと覗くと、凜は小さく息を吐いた。

「どんな生き物にも寿命ってのがある。長いか短いかはそれぞれさ。それが世の理ってもんだ」

「……凜さんだって、悲しいと思っているくせに」

 ぼそりと呟いて、優太が凜を、じっと見詰める。

「人の生死に、あたしらみたいな者が逐一心を動かしていたら、身が持たないよ。……ただね」

 凜は部屋に一つしかない小さな障子窓を開けた。

 乾いた冷たい風が流れ込んで、部屋の中に冬の空気が広がった。

「ただ、残った生を大事に生きて欲しいと、そう思うだけさ」

 凍った息と共に吐き出された声は風に乗って消えた。

 それを追うように煙草の煙が外に流れる。

 優太の目が、ぼんやりと消えゆく煙を追いかけていた。


 空が群青色の闇に染まる、暮六つ。

 長屋の台所では、夕餉の支度が始まる。

 ぐつぐつと煮立った鍋の中に味噌を溶くと、ふわりと良い香りが漂った。

 そこに昼間、凜からもらった卵を贅沢に流し込む。

 美味しそうな雑炊が出来上がった。

 丁度良く、旦那の平吉が仕事から帰ってきた。

「寒ぃ寒ぃ。すっかり冬になりやがったなぁ」

 白い息を吐きながら冷たい空気を纏って部屋に入ってきた平吉が、鍋を覗きこんで嬉しそうに笑う。

「夕餉は雑炊か。こりゃぁ、温まりそうだ」

「今日、凜さんに卵をもらったから、入れておいたよ」

「卵か! そりゃぁ、豪勢だねぇ。今度、礼をしねぇといけねえなぁ」

 平吉が火鉢の傍に寄る。

 絵を描いて遊んでいる太一を覗きこんだ。

「太一、今日は一人で留守番だったのか。良い子にしていたか?」

 太一が絵を描く手を止めて平吉を見上げた。

「うん! 俺、良い子で母ちゃん、待ってたよ!」

 元気な声で返事する。

 太一の頭を平吉が、わしゃわしゃと撫でた。

「そうか、そうか。そりゃ、偉かったな」

 頭を撫でられて嬉しそうにする太一を平吉が膝の上に乗せた。

「父ちゃん、俺ね、今日はね」

 太一が今日の楽しかった出来事を平吉に次々と話し始める。

 平吉が、にこにこと頷きながら話を聞いている。

 その光景を台所から眺めて、お優は睫毛を伏した。

 お優の労咳を、家族は知らない。

 たまに咳き込むだけだと誤魔化していた。

 咳を診てもらうために凜の診療所に通っているという説明を、平吉は信じている。

 まだ幼い太一には、わかりようもない。

 しかし、軽く咳き込む程度だった咳も、最近は頻回になり重く湿ったものになってきている。誤魔化すのも限界だった。

 事実を話せば、家族はきっと悲しむ。

 だが、このままではいられないことも、わかっている。

(私にはもう、時が無い)

 それが、お優の最近の悩み事だった。

「おーい、お優。飯にするか」

 平吉の声に、はっとして顔を上げる。

 にっこり笑って、平吉と太一がこちらを見ている。

 お優は憂い顔を隠して笑顔を作った。

「そうだね。そうしようかね」

 鍋を囲んで家族団欒、夕餉を楽しむ。

「そういや、診立てはどうだったんだ。凜さんは、何て?」

 平吉が雑炊を食べながら何気なく問う。

「……風邪、だろうってさ。咳止めの良い薬をくれたよ。だから、大丈夫」

 やや言葉に詰まりながらも、優は努めて平然と答えた。

「そうかぁ。それにしちゃぁ、なかなか良くならねぇなぁ。この頃は咳が酷くなっているだろ? 本当に、風邪なのかね」

 じっ、と平吉がお優の顔を覗き込む。

 お優は咄嗟に顔を引いた。

「り、凜さんが風邪だって言うんだから風邪なんだよ、きっと。良い薬も貰ったし、これから良くなるよ……」

 声が徐々に小さくなる。

 平吉は納得のいかない顔をしたが、一先ず頷いて、飯を一口頬張った。

「薬が、効くといいな」

 笑顔で、碗を差し出す。

 雑炊をよそりながら、お優は小さく笑った。

「きっと、大丈夫だから」

 美味しそうに飯を食う二人を、お優は寂しげな笑みで眺めていた。


 寝床に就いて数刻。

 激しい咳と胸の痛みで目が覚めた。

「ぐっ……っ、げほ……っ」

 平吉と太一を起こさないように咳を押し殺す。

 発作の咳を無理やり飲み込んで、呼吸を整えた。

「はぁ……はぁ……」

 ちらり、と隣を窺う。

 二人は、ぐっすりと眠り込んでいる。

 お優は、ほっと胸を撫で下ろした。

 ゆっくり息を吸って大きく吐き出す。

 冷たい空気は咳を誘発するので、あまり吸い込みたくない。

 何度か繰り返しているうちに、落ち着いてきた。

 お優は、起こしていた上体を横たえて、ゆっくり布団に潜りこんだ。

 外では寒風が吹き荒び、長屋の戸を、かたかたと揺らす。

 薄い布団一枚では体を温めるには足りない。

 足と足を擦り合わせて、なんとか夜を凌ぐ他になかった。

 最近は、眠るのも辛い。

 咳が酷くなった頃からだろうか。

 同じ夢を何度もみる。それが怖くて眠れないのだ。

 遠い遠い昔の夢。

 懐かしい、母の夢だ。

(……母さん)

 懐かしく恐ろしい夢を思い返しながら、お優は布団を頭まで被った。

 お優が寝息を立てはじめたのを感じ取って、平吉が目を開いた。

 平吉が憂慮して痩せた背中を案じている事実を、お優は知る由もなかった。


「母さん見て! お日様が、あんなに大きい!」

 お優が指さした方を、母が見上げる。

「本当ね、朱色に輝いて、とてもきれい」

 母が幼いお優に笑いかける。

 その笑顔が嬉しくて、繋いでいる手を、ぎゅっと握りしめると、母も優しく握り返してくれた。。

 お優は温かい気持ちになって、繋いだ手を振りながら歩き出した。

 けれど、すぐに夜がきて、周りは真っ黒な闇に染まる。

 暗闇に吐き出される、鮮やかすぎる真っ赤な血。

「はっ、はぁ……、げほっ……」

 激しく咳き込む声がして、お優は慌てて母に近づいた。

「母さん、大丈夫?」

 背中を擦りながら顔を覗きこむ。

 母は苦しそうに胸を掻き毟っていた。

 咳のせいで声も出せない口元からは、一筋の血が流れている。

 血を拭おうと懐紙を母の口元に近づける。

 母が咄嗟に、優の手を振り払った。

「この血に、触れては……だめ」

 荒い呼吸の合間に何とか言葉を絞り出して、お優を睨みつける。

「離れなさい」

 声に力はないが、鬼気迫った声音と表情が幼い心に突き刺さる。

 お優の胸を突き飛ばして、遠くに追いやった。

「母さん」

 お優は、泣きながら母親に近づこうとする。

「だめ……。くるんじゃ、ない」

 ぎろりとお優を見た顔は、まるで般若の形相だった。

 お優はぞっとして、動けなくなった。

 母は一層酷い咳をしながら、また大量の喀血をして、その場に倒れた。

「母さん!」

 手を伸ばすが届かない。

 母は倒れたまま、動かなくなった。

「母さん! 母さん!」

 お優は泣きじゃくりながら、母親に必死に手を伸ばす。

 手を伸ばせば伸ばすほど、母親の姿は遠くにいってしまうようだった。

「……う。お優」

 誰かが眠りの淵から優をいざなう。

 こっちだよ、と手招きされる方に、優の意識は浮上した。

「お優」

 瞼を開くと、目の前に平吉の憂い顔があった。

「平吉さん……」

 泣いていたらしく、涙が邪魔して平吉の顔が良く見えない。

 ごしごしと乱暴に腕で涙を拭いて、顔を確かめた。

「魘されてたが、大丈夫か」

 お優が布団から手を伸ばす。

 平吉は当然に、手を握りしめた。

 平吉の手の温かさを実感して、お優はやっと胸を撫で下ろした。

 逞しい腕に引き上げられて、体を起こす。

「またあの夢、みていたのか」

 お優は無言で頷いた。

 平吉が布団に半身起こしたお優を、そっと抱きしめた。

「大丈夫だ、俺がいるから」

 背中に回った手がお優を静かに撫でる。

 平吉の優しい手が背中をなぞる度に、お優の心に安寧が広がる。

「平吉さん、ありがとう」

 お優も手を回して、平吉を抱きしめる。

 何にも変えがたい大切な人がくれる温もりに、寄り添った。


 富岡八幡宮近くの茶屋には、太一と平吉が好きな団子が売っている。

 団子を買い求めた帰り、同じ長屋の辰吉に声を掛けられた。

「お優さん、遣いかい」

 辰吉が相変わらずのすっきりした笑顔で、お優の手元を見た。

「帰りだよ。うちの人と太一が好きな団子なんだ。深川八幡近くの茶屋でね」

 辰吉が閃いた目で頷いた。

「看板娘がいる茶屋だろ。名は確か……」

「お花ちゃん」

「そうそう」

 と、二人は頷き合う。

「へぇ。あすこの団子は美味いのかぃ。今度、行ってみるかな」

 顎を擦る辰吉に、お優は悪戯な笑みを浮かべた。

「団子なんて言って、お花ちゃんが目当てなんじゃないのかぃ」

「そねぇに別嬪な看板娘がいるんじゃぁ、一度は拝んでおかねぇとな」

 辰吉が、にっと爽やかな笑みを見せる。

 お優もつられて笑っていると、辰吉がふと表情を変えた。

「そっちの袋は、薬かぃ?」

 お優は、はっとして手元を隠した。

「あ、あぁ。最近、風邪をひいてね。お花ちゃんが、葛根湯を分けてくれたんだ」

 たどたどしく言い訳めいた説明をする。

 辰吉が、ふぅんと鼻を鳴らした。

 お優は咄嗟に笑って見せた。

「寒くなってきやがったからなぁ。体、大事にするんだぜ」

 辰吉が手を振って、部屋に帰っていった。

 ふう、と大きく息を吐く。

 お優は、ほっと肩の力を抜いた。

 空風が足元を抜けてゆく。

 長屋の狭い路地の吹溜りに、木の葉が、からからと音を立てて舞っている。

 お優はしばらくの間、ぼうっと眺めていた。


 その後、数日は調子が良かった。

 咳は出るが、胸の苦しさは収まっている。

 凜の調合してくれた薬が効いているのかもしれない。

 しかし、今日のような雲一つない快晴の日は、かえって咳が辛かった。

 空気も乾いて、呼吸をするのが少し辛い。

 目の前では、太一が折り紙をして遊んでいる。

 咳を堪えながら、お優は針仕事に勤しんでいた。

 太一が小さい手で器用に花を折っている。

「太一、そろそろ昼餉に……っ」

 声を発したら、途端に咳が込み上げて抑えきれなくなった。

「ぐっ……ごほっ……っ」

 一際酷い咳が立て続けに出て、止まらない。

「母ちゃん?」

 異変に気付いた太一が、顔を上げた。

「っ……」

 何か言おうにも、咳が邪魔をして言葉にならない。

「げほ、げほ……うっ」

 途端に胸が苦しくなって、何かが込み上げてくる。

「! ぅっ……かはっ……」

 胸の奥から上がってきたものを堪えきれずに、吐き出す。

 口元を抑えた指の隙間から大量の血が流れ出た。

「がっ……は、はぁっ、はぁ……」

 気泡の混じった真っ赤な血が、辺り一面に広がり畳を汚した。

 太一は立ち上がり、その光景を不思議そうな顔で眺めている。

 前倒れにになった体を起こせずに、お優はひたすら荒い呼吸を繰り返す。

「母ちゃん」

 太一が小走りに優に近づいた。

「だ、め……」

 来ては駄目だと言いたいのに、声が出ない。

 息を吸い込むと刺激で咳が出て、呼吸をすることも、ままならない。

 太一が近くにあった布巾を握って優の隣に立ち、口元を拭おうとした。

「母ちゃん、大丈夫?」

 お優は咄嗟にその手を振り払い、太一の体を遠ざけようと押しやった。

 勢いに抗えない太一の体が、後ろに倒れ込む。

「触っては、だめ! 離れ、なさ、い……」

 言葉を発して、はっとした。

(これじゃ、あの夢と同じだ)

 母親が自分にしたことと、まるで同じだ。

 あの夢は只の夢ではない。

 お優の幼い頃の記憶の一部だ。

 お優の母親は労咳で死んだ。

 子供ながらに心に重く残った母の辛そうな顔を、姿を、未だに夢にみる。

 自分が母親と同じ病になってから、夢の頻度は増した。

 何度も同じ夢をみて、何度も心を痛めている。

(私はあの時、とても悲しかったのに)

 それなのに。

 母親と同じ振舞いを、自分の子にしてしまった。

 後悔の念が、どっと押し寄せて、涙が込み上げる。

 滲む視界の中で、太一は泣きも騒ぎもしない。

 尻もちをついたまま、じっとしていた。

 だが突然、むくりと立ち上がり、外に飛び出して行った。

「た、いち……。待って……」

 ひゅうひゅう、と息が吐き出されるばかりで声にならない。

 吸えば吸うほど呼吸は咳に飲まれて息が出来ず、胸元を掻き毟る。

 苦しさで遠のく意識の向こうに、出て行った太一の後ろ姿が見えた。

「た、いち……」

 お優は咳き込みながら、どうにもできない体を丸めて小さく蹲った。


 凜と優太が長屋を訪れたのは偶然である。

 知り合いが持ってきた長芋を分けてやろうと持ってきたのだ。

 近くまで来ると、長屋の戸が中途半端に開いている。

「お優さん、いるかい」

 中を覗いた凜は、眉を顰めて部屋に駆け上がった。

 血の海の中で一人倒れているお優を見つけたからだ。

「お優さん、おい!」

 体を起こすと、口元に手をやり呼吸を確認する。

 胸に耳を当てて心の臓の音を聴くと、とくりとくりと温かい音がした。

「り、ん……さ……」

 薄らと目を開けて、お優が浅く意識を取り戻した。

 ひゅうひゅう、と音を立てて苦しそうに息をする。

 お優の背中を支えながら抱き上げた。

「今、布団に寝かせてやるから」

 優太が素早く布団を敷き、その上に優を移す。

 手を離そうとする凜の腕を、優が力なく掴んだ。

「たいち、が……」

 か細い声に耳を近づけて聞き取る。

「た、いち、が……どこか、に……」

 凜が目を見開き、優太に目配せした。

 優太が、一つ頷いて部屋を出る。

 しっかりと外から戸を閉めると、大きな声で長屋の皆に呼びかけを始めた。

「みなさーん、助けてくださーい!」

 長屋のあちこちから、わらわらと住人たちが出てきた。

 あっという間に優太を取り囲んだ。

「何だい、大声出して」

「優太ちゃんじゃないか。どうしたんだい?」

 口々に問う長屋の住人達に、優太は潤んだ瞳で俯いた。

「実は、お優さんが風邪で寝込んでいて、その隙に太一ちゃんが居なくなっちゃったんです。探すのを手伝ってくださいませんか」

 うっう、と泣きながら懇願する優太に、皆が慌てだした。

「そう言えば、姿を見ていないね」

「太一は、まだ小せぇじゃねぇか。一人でどこか行きやがったのか?」

「お優さん、体を壊しているのかい? ちょっと……」

 斜向かいに住んでいるおかねが部屋を覗こうとする。

 優太が全身で遮った。

「お優さんは、凜さんが診ているから大丈夫です! それより太一ちゃんを!」

「凜さんが診てるのかい。なら、安心だね」

 心配そうにしながらも、お兼がほっと手を引く。

「そういう事情なら、お優さんは凜さんに任せて、俺たちは太一を探そうぜ!」

 長屋の人々は方々に散っていった。

 優太が、ふうと一息吐いて、部屋に戻る。

 戸をぴっしり閉めると、凜に向かい、にっと笑って見せた。

 優太に頷いて、凜は布団に横たわるお優の赤い口元を懐紙で拭い取った。

「そういうことだから、太一は大丈夫だ。あんたは、ここで休んでいな」

 お優が虚ろな瞳で小さく頷いた。

「ありがとう……」

 凜は、お優の目の上に手をかざした。

 暗くなった視界に誘われるようにお優の瞼が下がる。

 吸い込まれるように眠りに落ちた。

 汚れた畳の上をしゃきしゃきと綺麗に掃除し終えた優太が、間を置かずに、すっくと立ち上がった。

「それじゃ、凜さん。おいらも太一ちゃんを探しに行ってきます」

「ああ、頼んだよ」

 優太が出て行くのを見送って、凜は優の寝顔に視線を落とした。

「なんでもかんでも、一人で抱えられるもんじゃぁ、ないんだよ」

 お優のひんやりした青白い額に、そっと手を添えた。


「母さん、母さん」

 愛しい母を思いながら、お優は一人で泣いていた。

 隣の部屋から、母親の苦しそうな咳が聞こえる。

「部屋に入ってきては、駄目」

 母の恐ろしい形相を思い返し、身震いした。

 いつも優しい母が、この頃はお優が近づいただけで酷く怒る。

 幼心に、それが恐ろしく悲しかった。

 胸を掻き毟って苦しんでいる母の力になりたいのに、自分には何も出来ない。

 傍に居ることすら、できないのだ。

 そんな自分が歯痒かった。

「母さん」

 すると突然、隣の部屋が静かになった。

 恐る恐る部屋の中を覗く。

 布団に横たわる母親は真っ白い顔で眠っているようだった。

 その隣で父親が声を殺して泣いている。

 動かない母親と、泣いている父親。

 母は死んだのだと、何となく、思った。

 お優は、襖を開けて部屋に入った。

 父親が優を抱きかかえて、母親の姿を見せてくれた。

 久しぶりに見る、母の穏やかな顔。

 少しだけ微笑んでいるような口元には、うっすらと血が付いている。

 優は枕元の懐紙をとって、それを拭いてやった。

 母はもう、お優を叱らない。鬼のような顔もしない。

 けれど、もう永遠に名を呼んでくれない。

 これが現とは思えなくて、優は只々母親の白く透き通るような顔を眺めていた。

 そんな幼い自分の姿を、優は遠くから見ていた。

 あの時、よくわからなかった母の死。

 家から母の姿が消えて少ししてから、じわりじわりとお優の心に痛みを与えた。

 今は、違う意味で胸が軋む。

 自分も近いうちに母と同じようになる。

 その時、平吉はどうするだろう。

 太一はどう思うのだろう。

 自分が居なくなって、やっていけるのだろうか。

 様々なことを考えたら、怖くて体が竦んだ。

 怖い、死ぬのが怖い。

 平吉や太一を残して逝くのが、怖い。

「嫌だ、死にたくない」

 口に出したら、恐ろしさが増した。

「平吉さん、太一」

 お優は声を上げて、子供のようにわんわん泣いた。

 胸が苦しくて張り裂けそうだ。

「誰か、助けて」

 叫んだ時に、どこからか声がした。

「お優さん、お優さん」

 お優は、声に導かれるように明るい方に向かって飛び上がった。

 ふわふわした感覚が全身を覆う。

 心地良い浮遊感に酔った体が浮き上がった次の瞬間、鉛のように重い何かが胸を圧迫して途端に息が苦しくなる。

 苦しさに耐えかねて、お優は目を開けた。

「目が覚めたかい」

 開いた瞳に飛び込んできたのは、凜の顔だった。

 瞬時に現状が理解できずに、混乱した。

(確か針仕事をしていて……。そうだ、血を、吐いたんだ)

 俄かに太一のことを思い出す。

「太一は……!」

 起き上ろうとするお優の体を、凜が制した。

「まだ起き上るには早いよ」

 お優の体を横にして、口元に匙を差し出す。

 お優は差し出されるがまま、その匙を口に含んだ。

 苦い汁が口の中に広がる。

「血を濃くする薬と咳止めだ。全部、飲んでおくれ」

 凜が傾ける匙を勧められるまま全部飲みきって、最後に水を含む。

「落ち着いたかい」

 お優は、こくりと頷いた。

「太一は長屋の皆が探してくれているよ。優太も一緒に探しているから、時期に見つかるさ」

 お優の胸が、じりっと焦げた。

 誰よりも真っ先に探しに行きたいのに、体が動かなくて起き上ることすらできない。 

 そんな自分が、歯痒くて情けない。

(あたしは、母親なのに)

 悔しくて、目に涙が滲んだ。

(太一……)

 焦燥で、どうにかなりそうだ。

 お優の傍らで、凜が徐に口を開いた。

「怖いかい」

 ぎゅっ、と瞑っていた目を開いて、凜を見上げる。

 涙に滲んだ目では、凜の表情を見取ることができなかった。

「……」

 先程の夢を、思い出した。

 あの夜のことは何度も夢にみる。

 幼い自分を俯瞰して改めて思った。

 このままだと、母親と同じ末路を辿るのは間違いない。

 それは想像を絶する恐ろしさだ。

 お優は両手で目を覆って、小さく囁いた。

「死ぬよりも、二人を置いて逝かなきゃならないことが、怖い」

 言葉にしたら、これが現実であることを思い知り、また胸が苦しくなった。

「私が死んだら、太一はどうなるの。二人は、どうやって生きていくの」

 涙が溢れて止まらない。

「そうなったらそうなったで、どうにかなるもんさ」

 凜の意外な言葉に、優は覆っていた手を退けた。

「人ってのは案外、強いよ。残されたらそれなりに、生き方を考える。あんたも、そうだったろ?」

 凜が少しだけ微笑んで、優の目に溜まった涙を優しく拭う。

「死んだ後よりも、今のあんたには、もっと大事なもんが、あるだろうよ」

 言葉の真意がわからなくて、呆けた顔をする。

「あたしは医者の他に、夢買屋って商いをしているんだ。うちの部屋の前に、変わった看板が掛かっているだろ」

 凜の長屋の戸を思い出して、頷く。

 確かに『夢買』という看板が揺れていた。

「夢買ってのはさ、人が寝ている間にみる夢を買い取るんだ。そうすると、同じ夢はもう、みなくなる」

 凜の話はどこか現実味がない。

 お優は、ふわふわした心地で話を聞いていた。

 凜が優の顔を覗き込むと、額にそっと手を当てた。

「あんたの母親の夢を、あたしに買い取らせてくれないか」

 どきり、と肩が震えた。母

 親の夢を凜に話したことは一度もない。

 平吉にすら、詳しい話をしたことはなかった。

「どうして、それを」

 驚いた顔のお優に、凜が当然と返す。

「さっきも、みていただろ。労咳の母親の夢を。その夢が、あんたを苦しめている」

 ずきん、と胸に痛みが走った。

 大好きだった母。

 病が進むにつれ、いつの間にか鬼のように怖い母親になっていた。

 確かに母の夢は、優を少なからず苦しめている。

 自分も同じように子を、夫を傷付けてしまうのだろうか。

 実際にさっき、夢の中の母と同じように太一を突き飛ばしてしまった。

 あんな振舞いは、したくないのに。

 けれど、わかってしまった。

 母が、どんな思いであんな行為に至ったか。

 今だからこそ、痛い程良くわかる。

 自分を、どれだけ大事に思ってくれていたのかを。

 今の優にとり、あの夢は不安や恐怖を煽るものでしかないのかもしれない。

 あの夢をみなくなったら、この胸の蟠りも少しは消えてくれるのだろうか。

「凜さん」

 優は凜を見上げた。

「この夢をみなくなったら、変われるかな」

「あたしにそれは、わからない。あんた次第だよ」

 凜の微笑が、いつも通り柔らかくて、胸がじわりと熱くなる。

 お優は目を伏して、ゆっくりと思考を巡らせた。

 今のままでは同じことの繰り返しだ。

 どこかで何かを変えなければ、未来は変わらない。

 込み上げてくる思いを止められず、お優は口を開いた。

「子供の頃は悲しいだけだったけど、母さんが、あの時どうしてああしたのか、今は良くわかるんだ。だからこそ余計に、辛い。夢をみなくなったら、母さんの思い出を忘れるようで、それも怖い。けど、母さんの夢に怯えて暮らすのはもう嫌だ。自分と重ねて辛い気持ちになるのも、嫌なんだ」

 凜が静かに「うん」と頷く。

 思いを口に出したら、胸がすっきりした。

「今のままじゃ、だめだね」

 お優はしっかりとした瞳で顔を上げた。

「凜さん、私の夢を、買い取っておくれ」

 凜は先程と同じ微笑で、頷いた。

「わかった」

 凜の細くて長い指が、再び優の額に触れる。

「目を、瞑っておいでな」

 手を、くるくると回すと額から灰色の煙がもくもくと浮かび上がった。

 煙の先を、ついと摘まんで、するりと引き抜く。

 灰色の煙は雲のようになって、凜の手の上に乗った。

 恐る恐る目を開いた優は、驚いてそれを見詰めた。

「それが私の夢……なのかぃ」

 凜は一度だけ優を振り返った。

 掌の煙に向き直ると、すうと大きく吸い込んだ。

 煙を口に吸い込んで、一気に、ごくりと飲み込む。

「ご馳走さん」

 小さく一言呟いた凜が、優に向き直る。

「これで同じ夢は、もうみない。捉われるものは無くなったんだ。あんたは、あんたらしく生きなよ」

 まるで狐に化かされているような心持ちになった。

 もう夢はみない、と断言されても今はまだ実感がない。

 ただこれで、自分の中の何かが変わってくれればと、そう思った。

「凜さん、ありがとう」

 自然に笑みが零れた。

 お優を眺める凜の表情が和らいだように見えて、何故か、ほっとした。

 すると外から大勢の人の気配がした。

 どたばたと大きくなった足音が、部屋の前でぴたりと止まると、部屋の戸が勢いよく開いた。

「お優さん! 太一、見付けたぜ!」

 長屋の住人に抱かれて、太一が上目遣いにお優を窺っていた。

「太一……!」

 お優は布団から飛び起き、覚束無い足取りで太一に歩み寄る。

 勢いのまま倒れ込むように、太一を抱きしめた。

「太一、良かった。太一、ごめんね……ごめんね……」

 涙を流して太一を強く抱きしめる。

 顔を上げると、長屋の皆に向かって頭を下げた。

「皆さん、本当に本当に、ありがとうございます」

 何度も何度も礼をして、深々と頭を下げる。

「何、言ってんだい。こういう時は、お互い様だぜ」

「そうだよ、見つかって良かったじゃないか」

 長屋の住人から口々に出る言葉に、涙が溢れた。

 そこへ、必死の形相で平吉が走り込んできた。

「お優、太一! 無事か!」

「平吉さん……」

 驚くお優に、いつの間にか凜の隣に戻っていた優太が得意げな顔をする。

「おいらが、ひとっ走り行って伝えてきたんです」

 平吉が優と太一の姿を見比べる。

 安堵の顔で肩を撫でおろすと、二人を力一杯抱きしめた。

「お優、太一、良かった」

 二人の体温を直に感じる。

 お優の瞳からは涙が溢れて止まらない。

 太一を探す手助けをしてくれた長屋の皆も、目を潤ませて三人を見詰めていた。

 ふと、太一が手に持っている花に、凜が気が付いた。

「その花は、福寿草じゃないかぇ」

 福寿草は春を告げる花で縁起が良いとされており、元日に飾ったりもする。

 冬に咲く花だが、今時分はまだ季節が早い。

 太一は小さな腕を精いっぱい伸ばして、福寿草を優に差し出した。

「母ちゃんにあげる」

「え?」

 太一が下を向いて、口籠った。

「母ちゃん、元気なかったから。俺の秘密の場所に咲いている、きれいな花、取りに行ったんだ。これ見たら、母ちゃん、元気になるかと思って」

 お優の胸に温かい感情が込み上げた。

「そう、だったの。そうだったの。太一、ごめんね。ありがとう」

 お優はもう一度強く、太一を抱きしめた。

 長屋の皆に見守られる中で、三人は幸せそうに笑いながら涙を流していた。

 その輪をこっそり抜け出して、凜と優太は静かに帰って行った。

 部屋の台所に、持ってきた長芋と夢の代金を置いて。


 次の日にみた夢は、今までと違っていた。

 夕陽の中を、母親と手を繋いで歩いている。

 何かの歌を口遊みながら歩く姿は、とても楽しそうで、幸せそうで。

 母は何度かお優を振り返り、笑顔をくれる。

 夕陽に照らされた母の笑顔は、とても美しかった。

 前にも何度か、みた夢。

 この夢のあと、決まって苦しそうな母の姿をみていた。

 しかし、その夢はもう、みなかった。

 凜が夢を買ってくれたというのは、どうやら本当らしい。

 お優は大事な事実に、気付いた。

 母が苦しそうに鬼の形相をしていたのは、死に際だけだった。

 生前の母は、お優の前では、ずっと笑っていた。

 血に触れたのを叱ったのも、突き飛ばされたのも、一度きりだ。

 きっと苦しくて辛い時もあった筈なのに、そんな時ですら、笑っていたのだ。

(こんな大切なことを、忘れていたなんて)

 お優の胸に閊えていた何かが、すとんと落ちた。

「凜さんの、お蔭なんだ」

 診療所に来ていたお優が、にっこりと笑う。

「あたしは、あんたの夢を買っただけだよ。それは、あんたが自分で思い出した過去だろ」

 胸の診察が終わり、お優は着物を直す。

「怖い夢より、もっと大切な夢を見ていたこと。思い出せたのは、やっぱり凜さんのお陰だよ」

 凜は何も言わずに、静かに微笑むと、いつもの薬を手渡した。

「咳止めを強めにしてあるから、いつものように煎じて日に二度、飲みなぁよ」

 お優は頷いて、薬を大事そうに抱えた。

「凜さん、私さ、残っている時を笑って過ごすって決めたよ。家族三人で楽しい思い出をいっぱい作ろうって、思ったんだ。太一にも平吉さんにも、私の笑っている顔を、いっぱい覚えていてもらいたいからさ」

 翳りのない真っ新な笑顔を見て、凜が表情を改めた。

「話すのかぃ」

 お優は伏した目で、こくりと頷いた。

「平吉さんだって、私から何も聞かされないのは、かえって辛いだろ。だから、話してみようと思ったんだ。話してどうなるかは、わからないけどね」

 労咳は人に移る病だ。

 お優の病の進行具合からすれば、家族と共に暮らすのは難しいかもしれない。

 それは、母親が労咳であったお優本人が一番よくわかっている。

「そうかい」

 凜が只一言、呟いた。

「うん」

 少しの沈黙が二人の間に流れた。

「いやだ、湿っぽい顔しないでおくれよ。私は残りの人生を、楽しく暮らすって決めたんだからさ」

 ははっと笑う優に、凜が煙管をくるくる回しながら笑う。

「そんな顔、しちゃぁいないよ。あんたが、そう決めたなら、良かったさ」

 どこか照れを隠しているような凜が珍しくて、優は、ぷっと吹き出す。

 少しだけばつの悪そうな顔になった凜に、優は改めて向き直った。

「だからね、本当に、ありがとう」

 お優が柔らかく微笑む。

 凜が同じ顔で微笑んで、頷いた。


 その夜、お優は平吉に自身の病や、凜に買い取ってもらった夢を総て話した。

 この咳が実は労咳であること。

 助からない病であること。

 自分の命も長くはないこと。

 自分の母親も同じように労咳で、その夢に悩んでいたこと。

 巧く纏められずに行ったり来たりするお優の話を、平吉はただ黙って最後まで聞いていた。

「……」

 話し終わった後、二人はしばらく黙っていた。

 重い沈黙を先に破ったのは、平吉だった。

「治す方法は、本当にねぇのか?」

 お優は睫毛を伏して頷く。

 だが、すぐ笑顔を作って顔を上げた。

「だけど……」

 瞬間、平吉の腕が伸びて、お優の体を力いっぱいに抱きしめた。

「少し前から、様子がおかしいのには気付いてた。悪い病なんじゃねぇかと、ずっと案じて……」

 平吉が抱きしめる腕に力を籠める。

「平吉さん……。言えなくて、ごめんね」

「どうしようもねぇのか、畜生」

 平吉の声は震えていた。

 お優は平吉の背中に手を回し、広い背中をゆっくりと擦る。

「今すぐ、どうにかなるわけじゃない。生きている間は楽しい思い出を沢山作ろう。幸せに、笑って暮らそう。そう簡単に、死んでなんかやるもんか」

 明るく言い飛ばして、お優は平吉の体をすっと離した。

「でもね、この病は人に移るんだ。私のは、もう随分と進んじまってる。今更かもしれないけれど、近くにはいない方が、いいかもしれない」

「一軒家、借りようぜ」

 お優の話に被せて、平吉がびしっと言い切った。

 呆気にとられる優に、話す隙を与えない勢いで平吉が話し出す。

「お優の母ちゃんは、同じ家に住んでいたんだろ? いくつか部屋のある家ぇ借りて、部屋ぁわけて住めば、何とかなるんじゃねぇか。元気な時は、一緒に飯とか食ってさ」

「それでも移るかもしれない。って、それより、いきなり何を言い出すんだい。今更一軒家なんて」

 金も掛かるし探すにも時がかかる。

 しかし平吉は、ぱんと胸を張った。

「忘れてんのか? 手前ぇの旦那は大工だぜ。親方に相談して良い場所を見繕ってもらわぁ。金なら心配すんな。今まで以上に働いて、いくらでも稼いでやらぁ!」

 威勢よく話していた平吉の目が、少しずつ潤んでいく。

「だから、だからよ。一人で何でも、やろうとすんな。どんな時も、俺が、俺と太一が、傍に居るからよ」

 お優の腕を掴んで、平吉は懇願するように俯く。

「一人で、悩むんじゃねぇよ。これからは、ちゃんと話して、一緒に考えて、一緒に楽しく暮らすんだ。約束しろよ」

 震える声と手から伝わる平吉の思いに、優の目からも涙が溢れる。

 平吉の肩に縋るように寄り添って、優は頷いた。

「そうだよね、家族だからね。ちゃんと約束する。平吉さん、ごめんね」

 平吉は顔を上げると、優の頬を両手で大事そうに包み込んだ。

 額と額を合わせると、優の目を見詰めた。

「俺がお前を、お前たちを、幸せにしてやるからな」

 にっ、と笑った平吉の目からは、涙が流れている。

「うん、ありがとう。平吉さん、いっぱい、いっぱい幸せになろう」

 お優の目から流れる涙も止まらない。

 二人は泣きながら、これからを誓い合った。


「母ちゃん、早くー」

 太一の間延びした声が響く。

 河原を歩く平吉と太一が、後ろから追いかけるお優を呼んだ。

「はいよー」

 返事して小走りに駆け寄る。

 陽は西に傾いて、綺麗な夕陽が空を茜色に染める。

 駆け寄ったお優は太一と手を繋いだ。

 反対の手を伸ばすと、平吉が小さな手を握る。

 平吉とお優に挟まれて、太一は楽しそうに手をぶんぶん振った。

 嬉しそうな太一を眺めて、平吉とお優は顔を見合わせて微笑んだ。

 三人して歌を口遊くちずさみながら、夕陽に向かって歩いてゆく。

 何でもない一刻一刻を大切に胸に刻み込むように、三人は生きていた。

 その後姿を、凜と優太が微笑ましく見詰めていた。

「良かったって、言えるんでしょうか」

 複雑な表情で優太が三人の影を見守る。

「人の生は、あたしらにとっちゃ一瞬だ。悔いなんて、何かしら残るもんだ。だったら思ったように生きるのが、一番いいさ」

 乾いた風が河原の草を、さらりと揺らす。

 乱れた髪を手で抑えて、凜は優太を振り返った。

「福寿草の花言葉を知っているかぃ? 永久の幸せ、なんだとさ」

 優太が伏していた目を、ぴくりと上げた。

「だから、きっと大丈夫だよ。あの家族はね」

 夕陽に照らされ消えてゆく三人の影を、凜と優太は只々ずっと見守っていた。


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