『いやなんだ、誰かを失うのは!』
「……どうしたのです。ルーナ・ドミートリエヴナ?」
というのに神官長アンドレイが、
全く悪びれず、それどころか問い質されたことすら気にかけていない。正義を信じて疑わない顔で。
「どきなさい。なぜそこの魔性のガキをかばうのです?」
彼の言葉に、ルーナは
頭がおかしい、と。
明らかに異常な態度だ。
「なぜって……おねーちゃんをわるくいわないで!」
目をうるませ、彼女は抗議する。両腕を広げ、アンドレイとディアナの間に立って。
だが、再び恐るべき答えを、彼は言い放つ。
「騙されてはいけません! ルーナ・ドミートリエヴナ、それはあなたの姉などではないのです!」
常軌を逸している。ただただ理解不能で話が通じない。
「なにを……」
「そのガキは――」
「この世に
大きく息をつき、彼は続けていく。
「この国……ノーヴィエソンツェは太陽、つまりアヴローラの加護によってできた。その臣民はみな何らかの祝福を授かり、祖国のため生きる。しかるに――」
かすれた声が、あまりに不気味な迫力がある。まるで見てきたかのような。
「そこの呪われたガキは……祝福を授からなかったのです!!! 女神アヴローラの! 太陽の祝福を!!!」
語気を荒げた、アンドレイの叫び声がとどろく。
気をゆるめると、首を縦に振ってしまいそうな、そんなひびきだった。
教条主義的で、紙に書かれた文字を丸暗記した言葉なのにだ。そこにはむき出しの感情がある。
「世界は女神の法によって治められるべきなのですよ! 人間ごときの浅知恵は、この世に混沌をもたらす! だから――」
「だからひとをころすの?」
が、幼げな声が冷たくひびいた。心を凍てつかせるかのようなしらべに、神官長がわずかにたじろぐ。
たかが三歳の幼女相手に。
「おねーちゃんが、しゅくふくをさずからなかったって、しょーめーできるの!?」
すみれ色の瞳がキッとにらむ。視線がぶつかり、火花を散らす。張りつめた空気で身動きが取れない。
「はぁ……」
緊張の糸を切ったのは、アンドレイの吐息だった。ついで彼は両手を広げ笑みを浮かべる。
「それは悪魔の証明という、詭弁のひとつですよ……」
「は――?」
三歳児に何を言うのだろう。が、真剣な面持ちで、この初老の男は述べていく。
「そうでないことを証明するのは限りなく困難なのです。およそ不可能といっていいくらいにね」
その答えに、わずかだがルーナは言葉をつまらせた。
頭がこんがらがる。
先ほどまで怒鳴り散らしていたのが、いきなり難しいことを述べたのだから。
「って――」
が、すぐに我に返り、彼女は問いただす。
「じゃあ、どうしておねーちゃんにしゅくふくがないことがわかるのっ!?」
「それはですね……」
まぶたを閉じ、アンドレイは編まれたひげをなで、それから見開き答えた。
「女神アヴローラが、そう私に告げたからですよ」
少しも疑いを抱いていない、つまり狂信者のまなざしを、ルーナへと向け。
「……じゃあ、そのしんたくがほんものだって、しょーめーできるの?」
もしかしたら別の何かかもしれない。
女神が
問題提起した彼女だったが――
「何を言うのですか、ルーナ・ドミートリエヴナ!? ここは太陽の神殿なのですよ!!? 女神アヴローラ以外の声が聞こえるわけがないじゃないですか!!!」
しわがれた声が強弁する。
いや、ちがう。
アンドレイは心の底から
ようするに……彼の中で、すでに結論は出ていたのだ。それは話が通じないことを意味していた。
それに気づき、判断をまちがえたことをルーナは悔やむ。
くちびるを噛むと、床を踏み鳴らす靴音が聞こえてくる。先ほど呼ばれた衛兵たちのものだろう。つまり時間がない。
バン――と勢いよく扉が開き、武装した男たちが儀式の間へと姿を現した。
「く――」
ルーナの目の前に、オリガの姿が浮かぶ。
幼い顔がはにかんで、語りかけられた言葉がよみがえってくる。
――いつまでもおにーちゃんと一緒にいられますよーに、って!
それは、かつて叶わなかった願いだった。そして彼女はすでにいない。
夜空に輝き、世界を真っ白にそめたあの光によって。
(オーリャ!)
どうしたら――よかったのか?
もっといろいろしてやればよかった――と、何度思ったことだろう。
人生は一度きりだ。
いや、生まれ変わったじゃないか、といわれそうだ。
だが、今生……つまりルーナとしてなら、かけがえのない生涯のはず。
(俺はオーリャに何もしてやれなかったが……)
ついで、放心するディアナへと目をやった。
ショックのあまり、「あ……」とうめきをもらしている。床にぺたんと座り、肩をふるわせながら。
(もう……いやだ! いやなんだ、誰かを失うのは!)
もしディアナがオリガだとしたら?
見捨てるなんて選択肢は、あってなならない!
あの時は何もできなかったが、おそらくだが今は違う。
なら、答えはひとつだ。
意を決し、ルーナは奥歯を噛みしめた。そして石畳を踏みしめて、地面を蹴り上げる。手をのばし、姉を、ディアナをつかんだ。
逃げるために。彼女を助けたい一心で。
それはもしかするとまずい行動だったのかもしれない。だが、事態は急を要する。何もしないよりはるかにいい結果となるはずだ。
「おねーちゃん!」
ぐっと、姉の手を引く。
が、彼女はだらんとして、反応しない。肩に重さがのしかかる。
祝福を授からなかったこともあるだろうが、殺せとまでいわれたのだから。
だけど――
「走って!」
数年ぶりに、真剣な声が口から飛び出した。
ぴくん――と幼い肢体が動く。
「あ、このガキっ!?」
編んだひげをゆらし、アンドレイが叫ぶ。
「おい、そいつを捕まえろ! 生死を問わずに――いや、赤目のガキだけは殺せ!」
神官長の命に、衛兵たちが凶刃を向ける。
(何が殺せ、だよ! 頭おかしいんじゃないの!!)
ついカッとなって、心の中で悪態をつく。
が、狂信者と言い争いをするのは不毛。話は進まず、妥協点など探れないのは明白だ。
彼らは自分の中にある答えで、世の中を思い通りにしたいだけなのだから。
あるいはいう。
女神のお告げと称して、ディアナを殺したいだけなんだろう、と。
ルーナも、ディアナも、直接女神の声を聞いたわけじゃない。
日差しが自分を照らしたのは事実。姉が石版に立つと、曇ったのも、だ。
しかし祝福を
ルーナはそれを確かめていない。
いや――
そんなことはどうでもいいのだ!
女神の祝福?
剣と魔法の才能?
祖国は太陽の加護で成り立った?
姉を抱き寄せ、衛兵たちをかいくぐり、彼女は自分へと言い聞かせていく。
それらは人生の、ほんの些細なことにすぎない。
本当に大切なことは?
自身にとって価値があるものは何か――
(こいつらを
これからのことは、その後で考えればいい。
衛兵たちはノロマで、神官長は老体なのだ。追いつけるはずがない。
(逃げ切れる――)
そう、せめてジーマとセレーナのところまで行けば!
どうにかなるはず!!
姉を抱きかかえ、ルーナは走った。
閉じられた扉を蹴り飛ばす。
「~~~っ!!?」
しかし異様に堅牢に閉められている。
けど逃げなければディアナの命はないのだ。
せめて二人の下へ……。
そうすれば、ディアナの安全は確保できる――はずだったのに。
「――っ!?」
なのに足が止まる。
止めざるを得なかった。
身をすくませる強い威圧感におそわれて。胸をざわつかせ、すみれ色の瞳がそれを凝視する。
目には見えない――しかしまちがいなくいる、そんな気配だ。何者なのか、あるいは生あるものではなかったかもしれないが。
しかしためらいは、わずかに隙を生む。
そしてその隙を、アンドレイは見逃さなかった。琥珀色の
「ハティ――」
しわがれた声が小さく名を呼ぶ。
次の瞬間、強い衝撃にルーナは息をつまらせる。ついで幼い肢体がはずみ、石畳の上を
そこで彼女は意識を失ったのだ。
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