『ベソかいてるヒマが、キミにあるのかい?』
「――」
ひたいに、汗が伝う。髪の毛が顔にまとわりつく。生気を失った顔、焦点が合わない目、ひどく乱れた呼吸。
「なんで……」
床に撥ねるしずくの音が、あまりに大きく耳をつんざく。心をかき乱しながら。
どうして忘れていたのか――息をふるわせ、ルーナが自問する。
つまり、思い出したのだ。誰を――言うまでもない。自分の姉を、ディアナ・ドミートリエヴナを!!
「何が……」
よぎるのは、彼女へと約束した言葉。
――そのときは、わたしがおねーちゃんをまもるね!
「まもるね、だよ!」
ぐっと手を握りしめ、ベッドを叩いた。
(今の今までいなかったかのように振る舞っていたくせに!)
泣きそうな顔で、くちびるを噛む。くやしさをにじませ。
(どうして……)
なぜ偽の記憶が、ウソっぱちの思い出なんかが浮かんだのか?
(わたしは、この家の
双子の妹だったはずだ。なのにディアナの存在を抹消していた。
ルーナだけでなく、セレーナまで!
実の娘だというのにだ。いくらなんでも不自然といわざるを得ない。
いや、おぼろげにだが想像はつく。
(あの時……)
アンドレイが何者かの名を口にした直後、衝撃が走って意識を失った。それは記憶に新しい。
得体の知れない威圧感に身動きできなかったのを思い出す。床に叩きつけられ、そこからを覚えていない。
ただいえるのは、不気味な感覚があったことだ。
立ち向かう気さえそがれるほどの。
が、それよりも。
「……」
部屋の中を見わたし、探って――あることに気づく。
「――」
そして言葉をつまらせた。なぜなら、
「そんな……」
ディアナがいた痕跡が、どこにもなかったからだ。
存在を消されたというよりも、初めから彼女が存在しなかったとばかりに!!!
使っていたベッドも、チェストも――そこにはない。いっしょに使っていた跡すらも。
誤ってつけた床の傷も、チャイをこぼした絨毯のシミも、なくなっていた。
「ありえない……」
タイルを取り替えたわけでも、新品の絨毯にしたわけでもないのに。
手を添えれば、まちがいなくいつもの手触りだ。
つまり、姉と、彼女がこの世にいた記憶が消えた。ディアナなどという人物が空想の産物であるかのように。
残酷な現実に、ルーナは
「いや……ちがう!」
たしかに、彼女はいたはず――では?
既視感がぬぐえない。
守れなかったのだろう。口を真横にむすび、くやしげさに顔がゆがむ。
「いつも! いつも!! いつもっ!!!」
女神から祝福を授かった?
剣と魔法の才能がある?
「だから、どうだって言うんだ!!!!」
何かができることは、しょせんその程度の価値しかない。幸せになるための道具を集めても、それだけの話だろう。
だって、幸せとは
「う……」
景色がじわっとねじまがる。ぎゅっとつかんだ毛布をぬらす。ルーナは泣きじゃくり――
『ベソかいてるヒマが、キミにあるのかい? 残された時間が、たった半日もないというのに』
と声がした。
「え……?」
キョトンとするすみれ色の瞳が、それを
「…………」
無言で、それを見つめ、息をのむ。こんなものがあっただろうか、と。
日に焼けて、少しくすんだ黒いムートン生地が風もないのにゆれる。はめ込まれた紫の球が彼女を映す。首には赤いリボンが巻かれていた。
(い、いや――)
しかし思う。こんなものがあっただろうか、と。記憶のどこにも存在しないものだ。そしてないはずのものがある。怪訝な顔でぬいぐるみを覗きこむ。
それ以前に、しゃべるものなのか?
空耳だったのでは、といぶかしんだ、そのせつな。
『ボクはポラリス。キミがルーナって子だよね?』
熊の問いかけに、彼女は
糸でジグザグに縫われた口をとがらせ、もわっとした手が窓の外を指す。
『今夜……』
アメシストの目玉が光り、キッとルーナをにらむ。
『キミが今想っている子は、明け方までに助けなければならない。でないと、それが今生の別れになるよ』
「――っ!?」
突然すぎて理解が追いつかず、すみれ色の瞳がまばたく。
「何を……」
との質問をさえぎって、ぬいぐるみが名を口にした。
『ハティ――』
「は……?」
まぬけな声を出してしまった彼女へ、それはたたみかけていく。
『今、キミの想い人は、そいつの腹にいるんだ』
「 」
おどろきで声も出ない。ただ息をつまらせ、真っ白になった景色を望み――
「っ!?」
もふっ――と羊毛がほおをなでる。ふわりとした感触だった。なのにしびれるように痛む。
『気をしっかりと持て!』
埋めこまれた宝石が、ルーナを見すえ、激励を飛ばす。
『あの子を救えるのは、キミだけなんだ!』
ポラリスの声が、心の中を駆けていく。
「……」
すみれ色の目が注視する。抱いて寝るのにちょうどいい……じゃなくて!
「助け……られる、の?」
ルーナが問いただす。搾りだすように、かすれた声で。まるですがりつくように。
『やってみないと分からない』
けれど、ぬいぐるみは難しそうに答えた。
『でも、これだけはいえる。あいつは本気であの子を殺すつもりでいるってことと――』
月の光りでアメシストの目玉が輝く。
『キミだけが救える力を持ってるってこと!』
いぶかりながらも、ルーナは思いめぐらす。
ひとつはこのぬいぐるみと姉の関係だ。そもそも何者なのか、と。
しかしちがう感情もあった。ディアナを助けたい――偽りなく、そう願っている。
ポラリスがいうには、自分にしか彼女を救えないらしい。この熊を本心から信じたわけではないが、それでもだ!
「……の」
ふるえる口調で、ルーナが訊ねる。
「わたしは、どうすればいいの?」
まっすぐな瞳を向けて。
ぬいぐるみの真意は分からない。でもこの状況がまずいことは明らかだ。
神殿で感じた不気味な威圧感。気づけば記憶だけでなく、現実までが改ざんされていた。
あたかも、ディアナの存在を抹消するかのように!
胸騒ぎがする。
怪しいことこの上ないぬいぐるみではあるが。
「どうしたら、ディアナを助けられるの!!」
ルーナが問う。
『あの子が今囚われているのは、怪物のおなかの中。そいつは昼間キミたちが洗礼を受けた神殿にいるんだよ』
アメシストの目玉を光らせ、不穏なことを告げる。
でも驚きはそれだけではなかった。
『あの神官長といっしょにね』
「――」
ポラリスの言葉にいやな記憶がよみがえる。アンドレイの投げかけた侮蔑とともに。
理由は分からないが、彼はディアナを殺したがっていた。
尋常じゃない、常軌を逸した態度をあらわにして。
『いや――ちがうか』
と、熊は首を横にふり、ムートン生地をゆらす。そして語りだした。
『あの神官こそが、黒幕なんだから。怪物はあいつに使役されているだけだしね』
「え――」
と軽い悲鳴がひびく。すみれ色の瞳がいぶかしそうに視線をそそぐ。
だが熊は続けた。
『キミも、神殿に入る前に見ただろ? 月と星がいがみ合っているレリーフを!』
こくん、とあわい銀髪をはずませ、ルーナがうなずく。
たがいに剣戟を交える二人の乙女たち……
彼女らのいさかいは人々を巻きこみ、傷つけるものだった。
しかし、暁と同時に世界は平和をとり戻し――
『あれは史実にもとづくものだんだよ』
「は?」
突然何を言い出すのだろう。そんな顔でルーナがぬいぐるみを凝視する。
『だけどそれを語る前に――』
キッとアメシストの球を光らせ、ぬいぐるみが言った。
『まずは神殿へ行こう?』
と。
月の乙女は運命に抗い、理を創り直す! wumin @wumin
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