『ねえ、ほんとうに、それでいいの?』
はずむ声がひびく。
――いつまでもおにーちゃんと一緒にいられますよーに、って!
オリガの、妹の言葉が頭の中を駆けめぐる。
あどけない表情を浮かべ、まだ小さな手がひっしと抱きつく。
『オーリャ……』
だが、目の前にたたずむのは――火に包まれた妹の姿だった。
『オー……』
息をできない、吐けない、吸えない苦しみが胸を締めつけてくる。
景色がゆれ、視界がふるえ、世界が真っ白に染まっていく。
なぜ?
どうすればいいのか――自問自答し始めた、そのせつな。
焦げ臭い煙をたちのぼらせる炭が、息を吐くようにうなだれる。
真っ黒になり、ふれればくずれてしまいそうな、人の形をした何かが。
『ウソ……だよ、な……』
目の前のそれが、オリガだという事実を受け入れられない。
本当は別の誰かで、妹はどこかで生きている。そう信じたくなるほどに。
ガリガリガリガリ……文字どおり身を削る音を立て、炭の首がふり向く。欠片をまき散らして、くぼんだ
すがるようなしぐさに硬直する。
――たすけて!!
そんな声がした――ように思えてならない。幻聴と割り切れないのだ。
――いたい、あついよぉ、おにーちゃん!
指先まで震え、身が張り裂けそうだった。
『や、やめ……』
なのに言葉が続かず、無力感がおそってくる。三本の剣が、心臓をつらぬくかのように。
「やめて――」
そう叫ぶのと同時に、ルーナは目を覚ました。
まばゆい光が景色をおおう。でもそれはランタンの灯り……
「…………」
すみれ色の瞳が映したのは、いつもと変わらない風景。それが広がっている。
寝かされていたのは自室のベッド。白い壁に天井がまばゆく光を放つ。
生まれてからずっと住んでいる、自分たちの家だった。
「え……」
なのに違和感をぬぐえない。何がが、決定的に異なっている。
「わ、たし……」
神殿に行き、洗礼を受けた。そこまでは覚えている。だが肝心なところがぼんやりとしていた。もやがかかったみたいに記憶を閉ざす。
「そうだ……」
アンドレイと名乗った神官長から、石版の上に立つように指示された。それから剣と魔法の才能に富んでいることを歓喜され……
「……」
そこまでは覚えている。だがその先からを、思い出せない。
気がつくと自室に寝かされていたのだ。
儀式の間から家までの間に、何が起こったというのだろう?
(何が、大切なことを忘れている……?)
だけど記憶を探れない。あたかも、こちらをこばむかのように。
と――
「ルーナ!」
ドアをきしませ、靴音とともに澄んだ声が想いをかき乱す。赤みがかった銀髪をなびかせ、赤い瞳が彼女を覗きこむ。
「ま……」
疲れきったセレーナの顔を瞳に映し、ルーナは口をつぐんだ。
「大変だったわね」
ふわりと、やわらかい手が触れる。ついでぎゅっと抱きしめられた。
「洗礼式で急に倒れたんですってね……心配だったのよ」
ぬくもりが伝い、心に落ち着きが取り戻されていく。
「でも、怪我はしてなくて……よかった……」
「それに……」
ついで彼女の目がささやく。
「洗礼を受けた子の中で、一番祝福されたんだってね。私、驚いちゃった」
「……」
まだ記憶が
「とってもすごい祝福だからね。体がびっくりしちゃったのかもっておっしゃってたわ」
何かがおかしい。心の奥で、そう問いかける自分がいる。だが同時に、セレーナの声がそれをかき消していく。
「ルーナ、あなたは私たちの、自慢の娘よ!」
彼女の両手がやさしく包みこむ。この瞬間がずっと続いてほしい、と願い始めるには十分だった。
そう――自分はルーナ・ドミートリエヴナ。女神アヴローラから多くの祝福を授かった、彼女の自慢の娘……
まるで暗示をかけるみたいに、心がそれを
何かから目をそらすように。誰かを忘れようとしているみたいに!!
(……わたしは、大事なことを?)
しかし、それが何だったのか?
が、そのせつな、
「――っ!?」
頭が割れそうな痛みにうめいた。脳みそをグチャグチャにかき混ぜられているみたいだ。
顔をゆがませ、ひたいをおさえた娘に、セレーナが恐慌する。
「ルーナ!?」
この
そんな気分にさいなまれていく。悲しませてしまったという思いに、胸が張り裂けそうだった。
(だって……)
あわい銀髪をゆらし、すみれ色の瞳が自身をたしなめる。
(わたしは、セレーナの
「な、なんともないよ――」
ムリにほおをゆるませ、ルーナがほほ笑む。
神殿ではちょっと体調が悪くなって、気を失っただけ――そこでは何もなかった。
言い聞かせる文句が、思考を埋めつくしていく。
――わたしは、ちょっと体が弱い、けど女神に愛された、ごく普通の女の子!
走馬灯に見えなくもない、
「わ、わたし、おおきくなったら、まほーけんしになって――」
どこかで聞いたような言葉が、自然と口から出た。希望に満ちたまっすぐな口調で、目を輝かせて。
「ありがとう……でも、今はゆっくり休んで」
ふたたび、柔らかい手とふかっとした胸が、ルーナを包みこむ。
ほのかな、花のような匂いに、心まで吸い込まれていく。
「う、うん!」
うなずく彼女はにっこりと、でもどこかこわばった表情だった。
「じゃあ、おやすみなさい!」
「おやすみ」
そう告げ、セレーナはランタンの明かりを消す。部屋のドアをパタンと閉める音がひびき、静けさがもどる。
(きっと――)
明日の朝になればいつもの日常にもどれるはず……あわい期待を抱き目を閉じた。
なのに――
――いつまでもおにーちゃんと一緒にいられますよーに、って!
また同じ言葉が頭にひびく。オリガという幼女の、無邪気な声が。
(ど、うして――)
執拗に、繰り返される
ボロボロに焼けこげた炭が、首をかたむけ問いかけてくる。
――いたい、あついよ! おにーちゃん、たすけて――!!!
「――っ!!?」
目をぎゅっとつむり、身をちぢませ、頭から毛布をかぶった。肩を抱く爪が肌に食いこむ。
大粒の涙がボロボロとこぼれ、胸がひどく痛む。
ふれたらくずれそうな手が、かけらをこぼしながらすがりついてくる。
(こわい! こわい!! こわいっ!!!)
訳が分からず、ぎゅうっと目を閉じて振り払おうとした。
(おねがい、やめて――!!!)
泣きじゃくり、必死に自分の中から追い出そうと枕に顔をうずめる。
今、わたしはしあわせなのだ、と呪文のように唱えながら。
くぼんだ、真っ黒な眼窩がこちらを向く。ジッと見つめられ、それは問いかけてきた。
――ねえ、ほんとうに、それでいいの?
「……?」
訊かれたことが理解できない。
なのに、たたみかけながら、何度も同じことを
――おにーちゃんは、それでこうかいしない? しあわせだって、こころからいえる?
そもそも、お兄ちゃん?
(わたしは――)
女の子のはず。たとえどれだけ幼くても!
だが、非難する目を向け――られなかった。
心をえぐるようなうずきで、
――あんなにたいせつにおもってたのに、わすれちゃったの?
(わすれる……誰を? …………
何を、ではなく!?
すみれ色の瞳が見開いた。息も荒い。汗びっしょりだ。焦点もあっておらず、体もふるえている。
「――」
のど元で名前が呼ばれるのを、今か今かと待っているようだ。
しかし、いったい誰の!?
「オー……」
いや、ちがう?
なぜか、そんな感じがして――
「ディ……ア……」
口にしたのは、
ついでおぼろげに、同い年の幼女の顔が
「ディ……ア……ナ?」
おびえた赤い瞳が、ルーナへと訴える。
――おねがい……たすけて!
と。
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