一章・つまりは悪いのは

1-1

 講義を聞き終え、漠は筆箱などを手早く片付けて席を立った。


「さて、じゃあ帰るか」


 いつもならここからバイトへと赴くのだが、今日はバイトがない。彼にとっては珍しい休みだが、かといって趣味などがこれと言って存在しない彼としては、家に直帰するしか選択肢はないのだった。


 授業棟から外に出て、空を軽く見上げる。時刻は夕方、天気はやや曇り模様。気温は程よいが、また雨が降りそうな気配もする。


「うん、雨の匂いがする。多分降るんじゃないかな」


 そうして自分の感覚を確かめながら、すたすたと自分の家への帰り道を歩いていく。家の備品で何か足りないものはあったかな、と考えながらぼうっとしていると。


「ん…? あれは、絶場?」


 自分の前を歩いていく女性を見かけた。どうやら家の方向は似たようなものだったらしい。とはいえ、今朝チョップを喰らった身としては、彼女の視界にまた入ると何か文句を言われるのではないか、というのが漠の意見である。つまるところ、ここで彼女を見たことはなかったことにして…。と、忍び足で離れていこうとしたその時。彼女の足元に、黒い人型の何かがいることに気が付いた。


「うん? なんだろうあれ、ペットかな?」


 もちろんそんなわけはないのだが、世間知らずここに極まれり、といったところの漠にとってはそう見えたのだろう。少しだけ首を傾げつつ、彼はたいしてそれを気に留めることもなく帰っていったのだった。


#####


 次の日、漠は火楽と会ったのち少し驚くことになる。


「おい漠、お前昨日会った女、彩子覚えてるか?」

「ん、うん。もちろん、強烈な挨拶ももらったしね」

「はは、あれは傑作だったが。いや、あいつ昨日から家に帰ってないらしくてな」

「え」


 そんなまさか。昨日の帰り道に見かけたあの後ろ姿は別人だったのだろうか、それとも。と思考を巡らせる。


「あんな奴だが、あれでも性根はかなり真面目な奴だ。誰にも何も言わず一晩丸々どこかに行くようなタイプじゃないし、多分何かあったんだろうと思うんだが…」

「ああ、うん。彼女だったら昨日見たかもしれない」


 悩まし気に顔をしかめていた火楽にそう口にした。見間違いかもしれないけれど、と一言だけ付け加えながら。


「どこでだ?」

「帰り道、ええと、商店街前の路地かな。あそこで確か、路地裏のほうに歩いて行った気がするよ」

「路地裏? なんでそんな方向に…? あいつの家はあっちの方角じゃなかったはずだが、いや待て、そうか」


 心配そうな気配をさらに強めながら火楽は声を漏らす。確か火楽と彩子はとても仲が良かったわけではなく知り合い以上友達未満くらいの関係だったはずだが、ここまで真剣に悩むあたりこの男の人の好さがにじみ出ている。

 ちなみに、漠くんは。


『心配性だなあ』


 などと他人事のように悩む火楽を眺めている。一般的な感覚が欠落してしまっている彼は、周囲から見れば普段は優しいはずなのに妙に薄情に見えてしまっていることだろう。


「よし、わかった。それじゃあ今日俺はそのあたりをうろついてみる。お前はバイトだったよな」

「うん、暇だったらついていきたかったんだけどね。残念ながら」


 人一人がいなくなったにしては、あっけらかんとしたその態度。相手によっては不快感を催したりするかもしれないのだが、幸いにもそこにいるのは火楽という男。彼にとって、漠のそういうところはマイナスではなくプラスのイメージだったりするのだった。

 いわく、『あれは薄情なんじゃなくて、必要ないところに感情のリソースを割いてないだけで、効率的ってやつだ』とのこと。


「じゃ、バイト行ってくる。火楽も気を付けて」

「ああ、頑張れよ」


 そうして、火楽の背中を見送って。漠はその日バイトに向かい、何事もなく家に帰り眠りにつくのだが。結局彼は次の日に今日のことを少しだけ後悔するのだった。


#####


「え、火楽が休み?」


 次の日、漠が大学について最初に知らされたのは火楽が珍しく来ていないという話だった。


「うん、珍しいよねー。漠君何か知ってる?」

「いや…」


 火楽と仲の良い女子からそう聞かれ少しだけ言いよどむ漠。明らかに昨日話に出ていた裏路地が原因だとは思う。が、この女子にその話をしてあそこに行かれて、またいなくなったりすればいよいよ具合が悪いことになる。


「うん、心当たりは一応あるから今日少し帰り際に寄ってみるよ」


 そっかー、と女子は口にして授業道具を取りだそうとかばんを探り始める。とりあえずはそう言っておくことでこの場はやり過ごしたのだった。


 そしてしばらく。


 講義が終わり、漠は二日前に絶場彩子がその姿を消し、昨日は友人たる火楽さえもそこで消息を絶った、路地裏へと向かう。この時、他にも人を連れて行けばいいものを、基本的に人に頼るという概念が頭の中にない漠は一人で路地裏へと到着した。


「ううん、これといって不思議なところはないような」


 二人の人間が行方不明になった怪しさ抜群のはずの路地裏は、暗さは十分で、人によっては恐怖を感じたりもするのだろう。けれど、漠としては特にこの状況が怖かったりはしないし、何か異常を感じたりもしない。


「困ったな、バイトもわざわざ休んだのに」


 こうなってくると、想像しづらい話だがあの二人が何者かに襲われてさらわれた、なんていうのも選択肢として入ってくるかもしれない、とそこまで考えたところで漠は頭を大きく捻る。


『あるだろうか、そんなこと…?』


 常識的に考えれば彼らがいかに凄い人物であったとしても、人間であることに変わりはないので普通にそういうこともあり得るはずなのだが。二人のオーラというか、そういうものがなかなかその結末を想像させてくれない。むしろ逆にやっつけてしまいそうだ。


「どうしようか…、ん?」


 なんて唸っていた矢先、漠の視界の端に何かが映った。それが何かを確認しようと目を向けると。


「あ、絶場のペット」


 あの、黒い人型の何かがそこにいた。その黒い人型は、どうにも景色から浮いているように見えた。立体としてそこに確かにあるはずなのに、見れば見るほどその立体感が薄れていくというか…。

 というかそもそも、この生き物はどこを見ているんだろうか、と首を傾げる漠。何となく自分ではなさそうなので、じゃあ後ろかな、と振り返ったその直後。


「あれ?」


 上から何かが覆いかぶさるように彼を包み込み、そのまま飲み込んでしまうのだった。

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