アスタ・ラ・ヴィスタ!

@onewancat

プロローグ・色彩と空白

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 今日もみんなは笑っている。

 昔はきっと自分にもあったはずのその笑顔を、今の自分は忘れている。

 だけれど今の自分には、それが必要なのかもわからなくて。

 それが俺には、

 眩しくて仕方がなかった。



#####



 サーっと、雨音が鳴っている。

 絶えずその音が流れているが、その朝は静かな朝だった。雨音は、静寂の一種だ。


 ベッドに横たわっている人影は、もぞもぞと体を動かしている。

 不思議なのだが、何故起きるまでは寒さを感じていないのに、起きた瞬間こんなにも体は冷えているのだろうか。


 寝ぼけた朝だからこその、訳のわからないそんな思考を巡らしながら。人影は時計に目を向ける。


 時刻はすでに、朝8時を過ぎている。

 冬のこの時間帯の寒さは常軌を逸していると小さく声を漏らしながら、人影はベッドの中に再度くるまった。


 この世に存在する幸福の中でも極上のもの、二度寝をするためだ。

 人間の三大欲求の一つ、睡眠欲を叶えているのだから、その幸せさと言ったら比較しようがない。

 

 だから。

 部屋の外から中に向けたノックの音など、聞こえていないと、そう決まっている。


「おい、二度寝をするな。昨日のお前に俺は起こしてくれと頼まれているんだ」


 ドアの外から中へと声が入り、横たわっている人影に伝わる。昨日の自分のお願いなんて、二度寝という極上の宝石からしたら雀の涙ほどの価値もないのだが、かといって好意で起こしにきてくれた友人を無碍にはできず。

 人影はのそり、と起きあがることにした。


「うん……うん。ありがとう、火楽ひがく


 ドアをガチャと開けてお礼を言いながら、外にいた友人を中に入れる。この寒い中、自分の遅い準備を外で待たせて、風邪を引いてしまえば、それこそ部屋の主であり頼み事の主としては問題がありすぎる。


「全く、相変わらず朝に弱いな。明日からは自分で起きろよ、ばく


 ため息一つ吐きながら、火楽と呼ばれた少年は部屋の椅子に腰掛ける。

 その様子は部屋の主である漠から見ても様になっていて、やはりイケメンというのは何をしても様になるものなのだろうか、などと思わず唸り声をあげる。


「……うん、ありがとう。悪い、朝から手間をかけさせて」

「はん、お礼なんざいらねえよ。早く準備しろ」


 そう言いながら漠の部屋の冷蔵庫を勝手に開ける火楽。友人の家とはいえ、何も言わずにその行動を取れるのは、果たして。

 どうやらイケメンだから様になっていたわけではないようだった。


 しかし、漠はそれを気にした様子もなく。

 どころか、申し訳なさそうな顔を一瞬だけ顔に浮かべ、じゃあそうするよ、なんて言って部屋のクローゼットに向かっていった。


 ごそごそ、と衣擦れの音がしばらく。

 部屋専用だったダボついたヨレヨレのパジャマを脱ぎ捨て、漠はカジュアルな服を身に纏っていた。

 しかし、その様子はどこかしっくりこなかった。服を着ている、というよりは着られている、と言った感じだ。


「お、この前買ってた服じゃねえか」


 火楽は冷蔵庫から取り出した牛乳を口にしながら、着替えてきた漠を見る。

 似合っているかいないかでいえば、似合っているその黒いコートに黒いズボンという真っ黒コーデだが、火楽的にはナンセンスだった。

 買うときにも少しばかりの文句を口にしたが、


『派手なのは好きじゃないんだ』


 なんて、服を着る張本人がそれ以外の色を悉くやんわりと拒否してきたので、どうしようもなかったのである。


「うん、冬用に一着買っておいてよかった。これ以外の服を着ていたら、寒さで死んでたかもしれない」

「んな大袈裟な。今日からまた授業再開だからな、さっさと行こうぜ」


 火楽と漠が仲良くなったのは、半年前。大学の新入生ガイダンスを受ける際に偶然隣合って、意気投合したのが始まりだった。


 その後も大学の講義も同じものを取り、夏休みにしょっちゅう遊んでいたので、今では大体一緒にいる。

 最近町にやってきた漠としては、常識を教えてくれる貴重な存在であり、数少ない友人の1人である。


 準備を終え、漠と火楽の2人は部屋から出る。

 雨が降っているので、傘をさしながら2人は並んで大学へと向かう。


「あ、そうだ漠。俺今日はサークルの手伝いがあるから、授業終わったら先帰ってていいぞ」

「うん、わかった。相変わらず忙しいんだね、火楽」


 漠と火楽の2人は基本的に一緒に帰り、晩御飯を共にして解散するという仲良しっぷりなのだが、どちらかに用事があればその限りではない。

 というより、火楽という男の方には用事があることがほとんどである。


 それは火楽の何でもこなせるそつなさや、彼自身がいわゆる御曹司と呼ばれるものであるからとも言える。

 端的にいえば、頼られやすいのだ。


 それに対して、漠がそういう類の用事を持つことはあまりない。頼りない、というのも理由の一つだが。


「俺からしてみりゃお前の方が忙しい。今週は?」

「今週は今日以外はバイトかな。本当は今日も働きたかったんだけど、どっちにもたまには休めって言われちゃってね」


「バイト先からそんなこと言われるやつ初めて見たわ」


 このように、バイト戦士であることも彼を頼る人間が少ない理由の一つだったりする。

 要するに、『これ以上負荷をかけたくない……』という話である。


 そんなふうにポツポツと。雨が降る中会話をしていれば、大学がもう目の前である。今日の授業は一体なんだったか、などと考える漠の目の前を1つの人影が横切った。


彩子あやこじゃねえか。相変わらず今日も機嫌悪そうだな」


 その人影に火楽は声をかける。どうやら知り合いらしい、と漠はその様子を見守る。

 そして声をかけられた彩子という女学生は、ギロリと、それこそ火楽の言う通り機嫌悪そうに2人を見返した。


「……誰かと思えば、火楽じゃないの。なに、なんか用?」


 突き放すような物言い。人によっては気圧されてしまうほどの語気の強さ。


 振り返りざまにそんなふうに言葉を発した彩子と呼ばれた女学生を見て、漠は少しだけ目を瞬いた。


 絶場彩子ぜつばあやこ。その美貌と燃えるような気性が故に、大学内でも有名な女学生だ。

 長く伸ばした髪を翻し、彼らを睨むその端正な顔立ちに、赤く光るその目は、並の男ならば一撃で惚れてしまうのではないかと思うほど。

 実はファンクラブもあったりする。本人に知られれば解体必死なので、裏でこそこそと運営されているファンクラブだが。


「用はねえが、朝からそんなにイライラしてて疲れねえのかなってな」


 そんな彩子に、火楽は微塵も物怖じせず話しかける。


「うるさいわね、私だって朝からイライラしたいわけじゃないわよ。ただ今日はちょっと、面倒なことがあって叩き起こされちゃったの」


 ため息を吐きながらもうやんなっちゃうわ、と髪の毛を靡かせる。その仕草に、遠くの方から黄色い悲鳴が上がった気がする。


「ていうかあんたも珍しいわね。友達いたんだ」


 そういえば、と目をパチクリさせながら火楽に失礼な直球ストレートを投げつける彩子。

 が、そんな言葉に火楽は特に怒ることもなく。


「その辺のやつは下心が見え隠れしてるからつるむ気にはなんねえが、こいつは別だ」


 そう言いながら、漠の肩に手を置く。肝心の漠はと言えば、実は彩子のことを噂程度でしか知らないのでいきなり話を振られてびっくりである。


「ふぅん……? 初めましてよね? 私は絶場彩子、あんたは?」


 くいっと顎でお前も自己紹介をしろ、と漠を促す彩子。その促しに、漠も快く返事をした。


「ああ、初めまして。俺は天野漠あまのばく。よろしく、ええっと……」


 ここまでは。何の問題もなかったのだが。なんなら、『火楽の知り合いにしては礼儀があるじゃない』なんて、高評価をいただいていた漠くん。なんなら、握手を求められてまでいた。


「うん、よろしく。じゃあ火楽、そろそろ授業に行こうか」


 が。何とこの男、話を振られると思ってなかったが故に、名前を思い出せず、加えて差し伸べられた手を握手だと思わず、授業に遅れるのが嫌だからと、素通りしたのである。


 その状況にぴしりと固まる彩子と、大爆笑する火楽。


「……………」


 彩子はもはや言葉も出ず。


「ははは! 残念だったな彩子!」


 火楽は笑いを止められない。


「……? どうしたんだ?」


 そして漠は状況がわかってない。


 差し伸べた手をプルプルと振るわせながら、握り拳に変え、漠を睨みつけるは修羅の顔。

 しかし当の本人の漠は、今自分はもしかして睨みつけられているのだろうか、なんてとぼけた顔をしている。


「……もしかして今、睨みつけられていたりするのか?」


 そして少年の視界は土一色になった。気づけば漠は倒れ込み、聞こえてくるのは大笑い。彩子の堪忍袋の緒の耐久度は、そこまでだった。


「……ふぅ」


 そしてスッキリ。目の前のどこかズレた男をチョップで黙らせたことで、彩子の気は済んだようなのだった。

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