パトスの夜 ロゴスの朝
丹寧
直感と直観
この人、私のこと好きだな、と直感が囁いた。
私と会った時、なめらかに動いていた視線がほんの少し、当事者にしかわからない長さで停滞した。一瞬、視線が私を離れるのを躊躇った。
正直、悪い気はしない。ふしだらになった覚えはないが、もう大人になって何年か経っている。自分で自分を養っている。何かあっても、自己責任だ。
そういうことを言うと、冴はだいたい考え込むような顔をした。
「まあ、個人の自由だから」とか言ってお茶を濁す。本当は私の貞操観念に引いていると思う。
食べることや眠ることと同じくらい、普遍的な欲求なのに、なぜかみんな、存在しないかのように振る舞う。とくに女性と言うやつは。
ものすごく重要なことなのに、付き合うまでそんなもの存在しないかのように装う。
冴の家で、冴のプロジェクターで、冴所蔵のフレンチシネマを観ながら、よく愚痴った。
「付き合う前に確かめたら、何がいけないの? こういう映画はありがたがって観る日本国民なのに」
スクリーン上のマリーヌ・ヴァクトの美貌に釘付けになりながら言った。ひたすら官能的な映画だ。映像も芸術的に美しい。
「これをありがたがって観る日本国民はマイノリティだよ。私はオゾン監督好きだけどさ」
冴がやんわりコメントする。たしかに刺激は強すぎる映画だ。
「それに、日本ではそういう契約慣行なんだから、大人しく倣った方がいいよ。安全のためにも。契約や慣行を平気で破るのって、大体ろくな奴じゃないし。それに、何やかんや麻衣も、契約後の履行に徹してるわけでしょ」
「うむ」
「ウケる」
議論を終わらせる時、冴はたいていそう言う。この話はこれで終わり、なんて言わない。文学的な映画ばかり観る冴らしいと言えばらしい。
その冴が書いたシナリオで、映画を撮った。自主映画だけど、オーディションから何から結構大がかりで、制作部として私も大いに庶務の腕をふるった。その打ち上げで、初めて会った俳優がいた。
一度も染めたことのなさそうな髪に、健康的な白い肌。眼は好奇心に溢れていて、その好奇が自分に向けられたとわかると、胸が疼いた。
でもって、一晩中打ち上げした翌朝、私は彼の部屋に上がろうとしていた。ミニシアターにほど近い、阿佐ヶ谷のワンルーム。まあまあ片付いていて、でも人間味ある散らかり方をした部屋だ。
私は大丈夫だ。体を預けたからと言って、心まで預けるかどうかは、私自身が決めることだ。そのくらいの判断はつく。自棄になってるわけじゃないし、安売りしているつもりもない。
部屋には自主映画俳優らしく、大量のDVDの在庫と、まあまあ大きなディスプレイがある。どうぞ座ってと示された先のベッドに腰掛けると、途端に彼が隣に腰をおろしてきた。
「一目見て、早く二人になりたいと思ったんだ」
言いながら私の首と、服と肌の境に手を添えた。不思議なことに、何ら胸が高鳴らない。契約締結後に、そういうことに及んだ人たちと比べて、まったく。
「これでも待った」
物欲しそうな視線を受け止めつつ、私は戸惑った。今までこの人に持っていた興味も肉欲も、綺麗さっぱりどこかへ消えた。理由はわからない。何となく、この数秒の間のせりふと挙動で、一気に冷めてしまったことだけは、直感的に知っているけど。
彼の顔が近づいてきた時、ふと、冴が好きそうなフレーズが頭の中にひらめいた。
心を預けられる相手じゃなければ、体を預けるべきでない。
とても簡潔で、重要なことだった。そうだ。体を預けた後に心を預けるかどうかは私が決められるけど、そもそもこいつに心を預けたいかは、最初に決めたっていい。
て言うか今まで、もっとずっと丁重に扱ってくれた人はいた。まあ今は一緒にいないけど。そういう人とするから特別なものなのであって、行動自体はそれほど美しいものじゃないのだとしたら。
そういうことに及ぶ時の自分は控えめに言ってすごく無防備で、そういう自分を丁重に扱ってもらうことこそが重要なのだとしたら。
「シャワー浴びたい」
急に大声で言ったので、相手はびっくりして動きを止めた。その隙に立ち上がって、バッグを掴むと一目散に部屋を出た。
夏の東京の朝は早い。東の空はすでに白み始めていた。
鬼電すると、冴は起きてくれた。そのまま、ほとんど誰もいない中央線に乗って、冴の家まで行った。鍵は開けておいてくれたので、打ち上げで屍と化したままの冴が寝る部屋に、さっさと上がり込んだ。
叩き起こして、ことの顛末と、直観した真理をとうとうと語った。
すべて聴き終えた冴は、充血した目をこすった。
「私がオゾンの映画を観せて悟って欲しかったことが、あの俳優の手で一瞬で理解できたとか……」
「あの映画を観ようって言ったの、そう言う意味だったの?」
「うん。ただの雰囲気動画じゃなかったでしょ。感覚で動いてるように見えて、ガチガチのロジックが根底にある」
眠そうな冴に、今思うとなかなか無礼なことを言った。
「一行で言えば済むことを、二時間かけて伝えようとしたの?」
「映画ってそういうもんじゃん。それに、一行で言ったって聞かなかったでしょ?」
「うむ」
否定できない。
「日本型契約慣行のメリットがわかったか」
「こういう哲学に基づいた慣行なのかと、本質を理解した」
冴は私を叱ったり、説教したりしなかった。こういう、やぶれかぶれな時に丁重に扱ってくれて、しかも失敗を笑い飛ばしてくれる人が、わたしには必要だ。
「麻衣は、体で勝負する必要もないんだよ。だから今まで、契約慣行を守るメンズにだけ相手にされてきたんだよ」
「うむ」
「今日は素直ね」
「真理を悟ったから」
枕元のスポーツドリンクを飲んだあと、冴は二日酔いの蒼白な顔で言った。
「ウケる」
パトスの夜 ロゴスの朝 丹寧 @NinaMoue
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