プラジュニャー
澤田啓
第1話 インテューイション・マン
彼は何者でもなかったが、それは彼が何もかも……世界の全てをその手の中に収めていたから。
彼はその名を誰からも知られていたが、それは彼が何もかも……世界の全てがその掌から零れ落ちることを止めなかったから。
※出典:セラエノ断章 第2章 31:6『崩壊する虚無とその深淵』より抜粋
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握り締めた拳から流れ落ちる血液は、決して彼の傷口から流れ落ちたモノではない。
それはただの返り血、彼に敵対する勢力から放たれた無謀な命知らず……文字通り自らの生命に何ら保障も掛けず、恐るべきモノに敵意を向けてその眼の前に立つと云う愚挙を強行した鉄砲玉の、朽木の如く倒れ伏したその……過去は人間であったのだろうと思しき肉塊から、絞り出すように抉り取られた血飛沫の成れの果てであった。
ジョンは、この堕落し腐敗し切った国の首都に生息する希少種だった。
この国の首都とは云ってもここは見捨てられた貧民街、外国人の不法滞在者とその予備軍……そしてこの国から見捨てられてしまった下級国民が巣食うだけ、弱肉強食が法であるだけの
そして……この街で暮らすジョンが希少種であると言った訳は、彼が平和主義者であり非暴力主義者であったからに相違ない。
そう、彼の偉大で屈強な肉体……身長は198cmで体重が120kg、そして体脂肪率は脅威の6%を保持すると云う『筋肉の装甲車』の如き威容を誇る人物こそがジョンであった。
何故に彼が究極の平和主義、そしてマハトマ・ガンディーも青褪める程の非暴力主義者となったのか……少しだけ彼の出自を遡って見てみよう。
今から26年前に彼は……ジョンはこの世に生を享けた。
この街に暮らす子供にはよくあることとして、当時のジョンである赤子は父親の居ない子……私生児として産まれ育てられていた。
しかし少年時代のジョンには、他の子供とは違う自分だけの世界を持っていた。
それこそが彼の母親の入信していた『星の智慧派』と呼ばれる新興宗教団体である。
その宗教団体を率いる、ナイ神父を主宰者に置く『星の智慧派』の教えは
① 智慧を付け、知識と経験に基づく直観力を身に付ける。
② 健康な肉体と健康な精神にのみ、究極の智慧が宿る。
③ 自らが得た智慧を、汝の隣人へ伝播させ……汝の隣人に愛を伝えよ。
母親に引き連れられて『星の智慧派』に入信したジョンであったが、そこでナイ神父からの薫陶によりメキメキと頭角を現した。
鍛え上げられた肉体と深淵なる神秘学の知識、その二本に裏打ちされたジョンの精神的支柱は、何よりも強く逞しい信仰の力へと還元されて行ったのだ。
ある年の冬、ジョンの母親が亡くなった。
その年に全世界的規模で感染が拡大した、新型感染症に罹患し……打つ手ももないまま衰弱していたのだ。
頬は削げ腕は痩せ細り、寝間着から覗く胸元は肋骨が浮き出て……枯れ枝のような躰は今にもポキリと折れてしまいそうにも見えた。
もう間もなく息を引き取るであろう虫の息の愛する母親を前にして、ジョンは母親の躰を抱き起こし、『星の智慧派』の教義に則り……愛と感謝を込めて母親を強く、力一杯に抱き締めた。
ゴリゴリと骨の軋むような音を立てながらジョンの母親は、小さく呟くような声と掠れるような溜め息を吐いて息を引き取った。
そして寝台の上に横たわる己が母親の表情が、穏やかで神聖……どのような宗教画に描かれた聖母像よりも美しく見え………その瞬間、ジョンの脳裏には天啓にも似た直観が舞い降りた。
『これが……この愛の形こそが、ナイ神父の教えであり……究極の信仰……その具現化だったのだ…………』
確信を持ったジョンは、母の永眠する寝台もそのままに放置し『星の智慧派』本部へと駆けて行った。
出迎えたナイ神父は、ジョンから彼の母親がたった今亡くなったことを告げられた。
お悔やみの言葉を述べるナイ神父に、ジョンは捲し立てるような勢いで……母親が亡くなった時の状況と、その時に自分自身が得た直観的着想について熱く語り続ける。
しかしジョンの着想は、ナイ神父にとって受け入れ難いものであったようで……彼の意見を取り入れる気配もない。
その時ジョンは閃いた、理解が及ばぬ人にも愛を以って道を伝えてあげれば良いのだと。
そしてナイ神父の許へ駆け寄ると、母親が末期の際に行った手順を用いて、ナイ神父に愛と感謝を込めて抱き締めた。
天上界に住まう天使たちが打ち鳴らす、澄んだ音色の楽器のような音と…… ジョンへ己が認識の不明を恥じて詫びるナイ神父の声に、彼は嬉しさの余りナイ神父を抱き締める力を更に強くした。
ナイ神父もまたジョンの母親と同様に、気高く美しい聖人のような姿へと転身し……永劫の聖者としてその名を歴史に刻むこととなったのである。
さて、賢明なる読者諸君ならお気付きになったであろう。
今現在、巷間を騒がしている『愛と死を司る伝道師・
貧民街に根城を構える
彼は柔和な笑顔で道行くあなたやあなたの家に近付き、自身が信仰する『星の智慧派』へとあなたを勧誘するだろう。
そこで彼からの勧誘を断ったり、『星の智慧派』を否定するような発言をしてはいけない。
それは即ちあなたの死を意味するのだから、我々の注意喚起については必ず覚えておいて戴きたい。
そう……今日は2021年3月13日の土曜日、人々が自宅に居る時間を見計らって
今……あなたの家のインターフォンを鳴らした人物こそ彼なのかも知れない、そして……外出中のあなたに背後から声を掛けた人物こそが彼なのかも知れない…………。
皆さま、お気を付けて……楽しい週末をお過ごし下さい。
BGM
『Mind Games』
(1973:John Winston Ono Lennon)
プラジュニャー 澤田啓 @Kei_Sawada4247
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