トゥンヌス・シンドローム

ナツメ

トゥンヌス・シンドローム

 岸井きしい庸太郎ようたろうは走っていた。

 こんな書き出しは、例えば「走る」がテーマの小説を募集したら百人中九十人が思いついて、四十人が実際に書いてきそうな陳腐な文言だが、事実なのだから仕方ない。


 岸井庸太郎は走っていた、かれこれ二十八時間ほど、一度も立ち止まらずにだ。


 彼に目的地はない。走ること、それそのものが彼の目的、いや、彼に課せられた義務とも言ってもいいかもしれない。

 二十九時間前に遡ろう。

 岸井庸太郎はいつものように、遅刻ギリギリの時間に目覚めた。それでいつものように雑に顔を洗って、雑に着替えて、焼かないままの食パンに雑にマーガリンを塗って、それを牛乳で流し込んで、へたったビジネスシューズに雑に足を突っ込んで家を出た。

 そして岸井庸太郎はいつものように、駅までの道を走った。徒歩で八分のところ、走れば六分で着く。学生時代は陸上部で長距離走者だった岸井庸太郎にとって、六分間走り続けることなど屁でもなかった。

 五分半走ったところで駅が見えた。走りながらチラリとスマホを確認する。あと二分で、遅刻を免れるギリギリ最後の電車が来る。今日もなんとか間に合った。

 そう思いながら岸井庸太郎は、陸上部仕込みの美しいフォームから徐々に速度を落としていく。

 そのスピードが小走りから早歩き程度に変わった瞬間、岸井庸太郎を激しい動悸が襲った。


 ――心臓が、握りつぶされるかのように痛い!


 ろくに準備運動もせず走ったからだろうか? いや、そんなのは毎日のことだし、だいたい、急に動いて脇腹が痛くなる、なんてものとは比べ物にならない痛みだった。

 思わず足を止めかけると、ズキズキと痛みは増して、バクバクと鼓動が余計に早くなる。

「うっ」

 岸井庸太郎は小さく呻いてその場にしゃがみ込んだ。が、すぐにバネじかけのように跳ね上がった。

 しゃがみ込んだ途端、心臓だけでなく、頭痛、めまい、吐き気、その他ありとあらゆる不調を全部混ぜて煮詰めたような、強烈な感覚に襲われたのだ。

 それは平たく言えば、死の感覚だった。

 その感覚は彼に直感をもたらした。


 ――止まったら、きっと俺は死んでしまう。


 痛みをこらえて、岸井庸太郎はよろよろと歩き出す。ふーふーと口から荒く息を吐き、丹田に力を込める。そして一歩、また一歩と速度を上げる。

 ドクドクと脈打っていた体中の血管が、速度が上がるにつれ、ほんのわずかずつではあるが凪いでいった。



 そうして、岸井庸太郎は、かれこれ二十八時間、一度も止まることなく走り続けることになったのだ。

 会社は当然無断欠勤で、午前中はポケットの中の社用携帯がひっきりなしに震えていたがそれどころではなかった。何しろ命がかかっているのだ。

 信号待ちでも止まれない。赤信号に行き当たったらその場でくるりと向きを変え、とにかく進める方向に進んできたから、岸井庸太郎は今自分がどこにいるのかもわからなかった。

 もちろん走り続けていると呼吸は浅くなり、肺が痛くなって、安物の合成皮革の靴でかかとには靴擦れができた。それでも、少しでも速度を落とせばまた、あの心臓を握られる感覚に襲われ、だから岸井庸太郎は立ち止まることはできなかったのだ。

 気づけば、アーケードの中を走っていた。昼時の商店街にはそこそこ人がいて、一日中――文字通り一日中――走り続けてヨレヨレになったスーツ姿の男はただでさえ目立った。だが構っていられない。

 がむしゃらに走る岸井庸太郎の背後から、もう一つの走ってくる足音があった。

 足音の主は岸井庸太郎を追い越して、短距離走の速度で去っていく。すれ違いざま、肩をぶつけられた岸井庸太郎はよろけたが、ズキリという痛みの予感に慌てて姿勢を立て直して、また走る。

「そこの男! 待ちなさい!」

 後ろから、いやにハリのある若い男の声がした。

「そこの! スーツの男! 止まりなさい!」

 おそらく自分に言っているのだろうと岸井庸太郎は思ったが、呼び止められる理由に心当たりはない。心当たりがあったところで止まれないのだが。

「こら! 貴様! 逃げるな!」

 声はずいぶん近くまで迫っていた。

「逃げてないです、人違いです」

 岸井庸太郎は速度を上げながらそう言った。

「なら何故走っている! 逃げようとしてるんだろう。やましいことがないなら止まりなさい!」

 もっともである。しかし。

「事情があって止まれないんです!」

「何を言っているんだ貴様! さっきそこでひったくりしただろう!」

「してないですよォ!」

 岸井庸太郎の悲痛な叫びも虚しく、追ってくる男は無線で応援を呼んでいる。視界には入っていないが、やはり警察官だろう。

 そこで先程ぶつかってきた人物のことを思い出した。そうか、真犯人はあいつだ。

「お、お巡りさん! それ犯人僕じゃないです! さっきすごい勢いで走ってくるやつにぶつかられたんです! きっとそいつが犯人ですよ!」

 はっはっ、という呼吸の間に、なんとかそう訴えるが「見え透いた言い訳をするな!」と一喝されてしまう。

 交番勤めとはいえ警察官であれば、二十八時間走り続けてくたびれきった丸腰の男を捕まえるなど造作もないように思われるが、すんでのところで岸井庸太郎はその手を逃れ続ける。なにせ命の危機なのだ。

 追いかけっこをしたままアーケードを抜け、広い道路に出ると、ファンファンとパトカーのサイレンが聞こえてきた。応援がきたのだ。

 車で追われたら一巻の終わりである。岸井庸太郎は機敏に方向転換し、細い路地に逃げ込む。

「待て!」「止まれ!」背後から迫る声と足音が一気に増える。岸井庸太郎にとってここは全く知らない土地で、この細道がどこに続いているかもわからない。挟み撃ちにされてしまうかもしれない。なるべく細くて込み入っている方に逃げ込んでいく。

 路地から路地へ、岸井庸太郎と警官たちはドタドタと足音を立てながら大移動する。その距離は徐々に徐々に狭まっていく――。

「そら、堪忍しろ!」

 一メートルも離れていないところでそんな声がして、岸井庸太郎は、いよいよ終わりを覚悟した。

 しかし、すぐそこに右に曲がる道があって、その角にはゴミのたっぷり入ったポリバケツが置いてあった。

 岸井庸太郎は力を振り絞ってダッシュした。その速度は推定時速五十キロ、ウサイン・ボルトをも越える速さだ。

 そして角を曲がり際、ポリバケツを力任せに倒す。それはちょうどその道の入口を塞ぐようにぶちまけられて、警官たちの足を滑らせるには十分だった。

 先頭の警察官が転倒するのを視界の端で見て、これでなんとか逃げ切れるとほっと息をついた岸井庸太郎の目の前に現れたのは、そそり立つコンクリートの壁だった。


「あっ」

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