涙で目覚める

@ponponponko

第1話

 「おはようございま〜す」

 出勤すると、じろりと同僚に睨まれて違和感を覚える。いつもは挨拶を返してくれるのに。

 自身のロッカーに近づけば、セロテープでメモが貼ってあった。


【 皆川さんへ 出勤したらすぐに発注室に来てください。 一之瀬】


なんだろう、またQUOカードの金額入力を間違えたかな。ピッと勢いよくメモをロッカーから剥がすと、メモを貼り付けていたテープの一部が残ってしまった。くそう、めんどいな、と思いつつ、カリカリと爪でセロテープの断片を剥がす。 

 なかなか取れない。

 一生懸命に剥がそうと爪でカリカリやっていると、発注室のドアが勢いよく開いた。


「ちょっと、皆川さん!出勤したらすぐって言ったじゃん!!!」

「あ、店長、メモを剥がそうとしたら、びって剥がれてしまって、」

「もー、そのままでいいからさ、早く入ってよ」

大急ぎで発注室に入り、ドアを閉めるとバン!と大きな音がなってしまった。

 店長が顔をしかめ、私は申し訳なさそうにするしかなかった。急ぐといつも力加減を間違える。

 座って、と店長に言われるまま、パイプ椅子に腰掛けた。


 発注室は、業務発注用のパソコンと机、椅子が2つだけの狭い部屋だ。面接や発注はこの部屋で行う。

 パソコン用のちょっといい椅子に座った店長が、くるりと私の方を向いた。

 どうしたんだろう、なんか今日は変だ。

 こわい。

 薄暗い部屋のなか、張り詰めた沈黙を店長が破った。


「皆川さん、あなた今日休み。」

「え?」

「あなたの出勤日は、昨日。」

「…え?いや、私確認しましたよ、だってシフト表には」

そう青ざめつつシフト表の昨日の日付をチェックすると、私の休日を示す白丸が印字されている。シフト表を指差して、語気を荒げる。

「ほら!私休みですよ!」

店長はハア、と大きくため息をついて私に背を向けた。

「今日は日曜日、5日です。だから、おやすみなの。」

サーっと頭から血が抜けていくような気がした。日付を間違えていたのだ。ずっと、今日は4日の日曜だと思っていた。日付と曜日のズレで気づきそうなものだが、そもそも疑問にも思わなかった。

 …ということは。私は昨日、無断で欠勤したのだ。

 もうダメだ、と脳内で呟いていた。

「…申し訳ありません…」

「あのさ、シフトの時間気をつけてねって、先週遅刻した時に言ったばかりだよね?」

「…はい。」

背を向けて話す店長と、俯いて涙を堪える私と、目線は全く交わらない。

 ただ、店長の冷たい声だけで、もう十分だった。

「皆川さん。あなた、もう来なくていい。」

「えっ…と…」

「前からちょっと思ってた。あなたきっと向いてないよ、この仕事。正確に数字を写せない、言われたことをすぐに忘れる。読んだり聴いたりしたことを人に説明するのに時間がかかる。やる気あるの?って思うよ普通。」

息が早く浅くなる。苦しい。

「…っすみません。でも、私、これでも間違えないように気をつけてて、全然怠けているつもりはなくって、このシフトも、手帳に書き込むと写し間違えちゃうから、シフト表自体を毎朝見直すようにしたんですけど、」

「分かってるよ。今回は、シフト表を見直す日付を間違えたんだよね。でもね、結果としては無断欠勤なの。」

「…すみません。」

「あのさ、私は、皆川さんが接客とかすごく頑張ってるの知ってるよ。だから、失敗の全ては悪気がなくて、あなたもそれに悩んでるってことをよく知ってる。」

喉に熱いかたまりがこみ上げてくる。


 ぐっと歯を食いしばり、なんとか返事をする。

「…はい゛…」

「でもね、あなたと付き合いの長くないお客さんからしたら、ふつうにお店としてのサービスがなってないって思うわけ。そうすると、うちの店、ひいては全国チェーンのブランドに傷がつくの。」

ここまで、一息に説明する店長の声が、ぐさり、グサリと私を貫いていく。

「皆川さん。だから、あなたはもう来ないで。契約を終了します。」

俯いていた顔を上げると、顔を背けていたはずの店長は、私のことをじっと見つめていた。硬い表情からは、彼女の感情をうまく察することは難しかった。

「…申し訳ありません。お世話になりました、失礼します。」

 バックルームに戻ると、さっきまでいなかったはずの仕事仲間がずらりと並んでいた。みんな、揃って私を睨んでいた。もう、いたたまれなくて、私は荷物を持って飛び出した。


 走った。走って走って走って、むせて、息ができない。

 何も考えたくないのに、頭が勝手に思いを巡らせてしまう。

 店長は悪くない。失敗の多い私に根気強く教えてくれた、注意してくれた。きっとこの話をするのも心苦しかったのだろう、彼女はそんな人だ。

 同僚も、当然の反応だ。私の発注ミスの処理で仕事が増え、私への客のクレーム対応に当たる事もあるのだ。トラブルメーカーの私に挨拶を返していただけでも、大人な対応をしてた。

 私が悪い。私だけが悪い。人として当たり前のことをできない、私が悪いのだ。


 走っても走っても、考えるのをやめられなかった。

 トートバッグを肩にかけて走ったので、何度もカバンが肩からずり落ち腕に引っかかってイライラした。


 気づけば、全く知らない道に出ていた。

 なんかこの道、小さい頃住んでた街で見た気がするなぁと思って立ち止まったら、もうダメだった。


 泣き崩れた。もう、何もかも嫌だ。私が悪いのは分かってる、知ってるけど。

 どうすれば良かったのか分からない。


 溢れる涙が、顔をつたう。大声で泣き叫びたいのに、喉の奥に何か詰められているように声が上手く出ない。

 なんで?涙が頬ではなく眉間に流れた。


え?


 ガバッと飛び起きると、私はボロボロと泣いていた。ゆめか。夢だったのだ。

 でも嗚咽は止まらず、私はそのまま泣き続けた。午前2時45分、バイトを無断で欠勤した翌日の深夜である。


 泣きたいだけ泣いて落ち着いたら、もう眠れなかった。布団から這い出て、涙を吸ってくちゃくちゃに丸まったティッシュを暗闇でかき集める。四つん這いでテッシュの塊をを居間のゴミ箱に捨てて、ゴロリと床に寝転がった。

 深夜特有の静かさと、床の冷たさが私を冷やして、ブルっと震える。


 昨日、アルバイトの出勤日を間違えた。店長から、今日なんでバイト来なかったの?と電話が来た。完全なる無断欠勤である。

 しかも先週、私は出勤時刻を2回も間違え、遅刻をかましているのだ。

 さっきの夢は、やけにリアルで、恐ろしく、あり得る未来だった。

 唯一、夢よりも現実が恵まれているのは、店長が私を買ってくれている事だ。今の所はだけど。

 以前、私が失敗の多さを理由に退職を申し出たら店長が止めてくれた。

「失敗は誰でもするよ。それで迷惑かけるからやめちゃうなんて、そんなこと言わないで。私は皆川さんがいつも丁寧に接客してくれてるのを見てる。」

あの時は涙が出そうだった。ていうか泣いた。店長はいい人過ぎるのだ。私みたいなのを雇ってくれるだけじゃなく励ますことまでしてくれる。


 なんとかもう一度眠ろうと、冷蔵庫から牛乳を取り出してマグカップに注ぐ。レンジにそっと置いたつもりが、ガン!と痛そうな音がして、「痛っ」と言ってしまった。


 温めスイッチを押すと、ブォォォォンと電磁音が部屋に広がる。あ、今深夜じゃん。お隣さんに聞こえてたら悪いなと思いつつ、レンジは止めない。オレンジ色に照らされて、ゆっくり回転しながら温められるマグカップを見つめて、立ち尽くしていた。


 できて当然の仕事が、何故かできない。釣り銭の数え間違い、金額入力ミス、誤発注、口頭伝達が下手。

 何か間違えるたびに、呆然とする。気づく頃には、いつもやらかしている。失敗した原因が分からないのだ。対処法も一応は考えてみるものの、原因が分かっていないから根本解決にはならない。

 なんでだろうな、とずっと考えている。考えても分からないくせに。


 ピーッピーッと主張するレンジの音で我に帰り、マグカップを取り出すと牛乳が溢れていた。そうだ、牛乳の量が少ない時は500W2分半は長いのだ。


 レンジ内でこぼれた牛乳を、悲しい気持ちで拭き取る。マグカップを取り出して冷えた手で包むと、じわっと温度が手のひらに流れてきた。ズズ、とホットミルクの表面に口をつける。熱い。牛乳の膜が唇にくっついた。

そういえばこの膜、名前も形成過程も知らないままだ、なんて思いながら、そろりとカーテンを開けて階下を覗いた。

 家の前の公道は時間が止まっているかのように、ひと気がない。電灯の光がその近辺を明るくおおっていた。世の中の電灯は、道を照らすことが当然の機能だ。だとしたら、私は切れかけの電灯だと思った。点滅するし、暗いし。役に立たないから取り替えなくちゃ。そう呟いたら、目の前の電灯がバチッとまたたいた。

 ゾクっとして、カーテンを閉めた。眠らなきゃ。寝不足だからこんな暗いこと考えるんだ。


 明日、というか今日は出勤はない、はずだ。あんな夢を見た後で自信がない。朝起きたら、必ずシフト表を確認しようと決意した。今はなんとなく見たくなかった。見たら、また間違えてしまいそうだと思った。


 ぬるくなったホットミルクをちびちび飲んでいると、眠くなってきた。もう一度布団に入って、枕を裏返す。さっき泣いたせいで枕の表が湿ってしまったのだ。


 瞼を閉じ、起きたらやることを考える。

 まずはシフト表の確認だ。いや、もういっそ職場に顔を出しに行こう、シフト入ってたら怖いから。そこでしっかりシフトを確認して、休みなら休みで帰ろう。そうだ、無断欠勤の事、まだ店長に会って謝れていない。詫び状を書こう。誠意は見せなきゃ伝わらない。昨日出勤で迷惑をかけた人にも謝っておかなきゃ。あー、鈴木君、昨日ワンオペで2時間頑張ってくれたってことだよなあ、申し訳ないなあ。今度なんかお菓子あげよう。

 なんとかしなきゃ。なんとかして、みんなの信頼を取り返さなくちゃ。バイト、頑張らなくちゃ…


 そうして、少しずつ遠のく意識を手放して、私は眠った。

 自分の嗚咽で目が覚めたことなんて忘れて、深く深く、眠った。


 体を起こすと、あたりはすっかり明るくて私は青ざめた。まって、今何時だ?

 時計を鷲掴むと15時を指している。私のシフトを確認すると、なぜか15時半から出勤予定になっていた。休みじゃないんかい!

まずいまずいまずい!!!!!

 駆け出すように洗面所へ行き、洗顔と着替えだけして家を飛び出す。詫び状もお詫びのお菓子も、何も用意できていない。

 でも、それよりも、また無断で欠勤して店長や同僚の信頼を裏切りたくはなかった。


 私は走った。

 走って走って走って、むせて、息ができない。でも、走り続けた。


 バイト先のドアの前で、息を整える。人の何倍もできて当然のことで失敗するなら、せめて挨拶は、元気よくしたい。おはようございますをいうべく、スゥーっと酸素を取り込んだ。

が、声が出ない。叫んでも叫んでも音にならない。

 え?と思った瞬間、瞼が開いた。


 また夢か…とため息をついて瞼を閉じようとして、やたら部屋が明るいのに気づいた。一気に緊張が走り枕元のスマホを引ったくって画面をみる。

 10時23分。

 飛び起きて、手帳に挟んだシフト表を雑に開く。今日の日付を確認すると、13時半から出勤になっていた。

 あ、あぶねー!!!!てか、休みじゃないんかい!


 大急ぎで身支度をして、化粧をする。

 11時。

 無断欠勤の詫び状を、店長と同僚に宛てて、したためた。

 12時。

 いつもより早く家を出て、近所の有名なケーキ屋さんでお詫びマドレーヌを買った。

 12時半。

 バイト先へ早歩きで向かうと、13時に到着した。従業員通用口のドアに手をかける。息を吸って吐いて、もう一度吸って、

「おはようございますっっ!」と大きな声でドアをあけた。

 真っ先に目が合った林さんは、目を細めて「おはよ〜」と返してくれる。お花がでているみたいだ。林さんはふわふわしている。

 そういえば夢に出てきた怖い同僚、あれマジで知らん人だわ。誰だろう。

 ガチャっとドアを閉めて正面に向き直ると、鈴木くんがちょうど売り場からバックルームに戻ってきた。

「あ、はざーす」

「おはよう鈴木くん。」

ツカツカ彼に歩み寄ると、彼はちょっと不思議そうに首を傾げた。

「あれ、皆川さんどうしたんすか」

「いや、これさ、この前私シフト間違えて、無断で欠勤して迷惑かけちゃったから。

お詫びです。よかったら食べて。」

「え、いっすよ全然。」

「あ〜いいなぁ〜おいしそぉ〜わたしのは〜?」

「林さんのはないかもしれない〜」

「皆川さんの発注ミスしたエナジードリンク、一緒に売り捌く話は白紙に戻そうかなぁ〜」

「それはきついわ…」

 また以前のミスを思い出して顔を歪めながら、林さんにもお詫びマドレーヌを渡す。

 ご満悦の林さんと、もしゃもしゃとマドレーヌを頬張る鈴木くんを見て、胸を撫で下ろす。昨晩の悪夢では、店長以外誰一人として現実の同僚は出てこなかった。二人にあんな冷たい態度を取られたら、泣いてしまう。

 全く知らない人を、夢の中だと同僚だと思い込んでしまうの、めちゃくちゃ不思議だなあと思いながら、自分のロッカーに向かう。 

 すると、メモがあった。夢と同じように、セロテープで貼ってあった。思わず瞼をギュッと閉じる。恐る恐る目を開けようとした時、背後で声がした。

「ねぇ、皆川さんの声しなかった?」

振り向くと、発注室から出てきた一ノ瀬店長が目を丸くして立っていた。

 シャキッと背筋を伸ばして、腰を折る。お詫びだから60度。

「て、店長!わ、私、昨日は無断で欠勤して!あの、本当に申し訳ございませんでした!!!!!

あのこれ!詫び状とお菓子!です!お納めください!!!!」

「えーマジで?律儀だなぁ。そのためにわざわざ休みの日に職場来たのー?」

あ、このお店、前にテレビでやってた〜とニコニコしながらマドレーヌに手をつける店長をみて、安心しつつ、ん?と引っかかった。

休み?いやいや、シフト入ってますけど。なんて言葉を飲み込み、カバンからまたガサガサとシフト表を取り出す。鈴木君がチラリとシフト表を見て、吹き出した。

「皆川さん、それ今月のシフト表じゃないっす」

「えっ」

固まった私の手から、はらりと紙が落ちる。林さんがそれを拾って、ぶはははは!と笑い出した。

「うわ〜これいつの〜?そりゃ出勤日も間違えるよぉ〜。」

「やっぱり紙のシフトってだめだよね、私も本部に電子化してくれってずっーと頼んでんの。」

一ノ瀬店長だけが真面目に困った顔をしていて、後の2人は笑い転げている。

 呆然と佇む私。事実のダウンロード処理が追いついてない。待ってくれ。

 店長と目があう。ニヤリと笑った彼女は、わざとらしく切り出した。

「で、どうする?今日、実は人手足りないんだよね。」

「はっ、働いてもいいですか?!」

「うん、助かる。よろしく!」

ポンと私の肩を叩くと、店長は発注室に戻っていった。鈴木君が、

「そういや今日、皆川さんは?っておはやし製薬の小山さんに聞かれたっす。休みって言ったら帰っちゃったんすけど。」

「え?なんの用事だったかわかる?」

「皆川さんの企画を全国店舗の販促として使うことになったらしいっす。」

「あ〜、アレねぇ。エナジードリンク誤発注で、どうやって売るか企画書?始末書?書いてたもんねぇ〜」

あの企画面白かったよねぇ、とニコニコする林さんにバレないように、ちょっと泣いた。さっきも店長に肩を叩かれたとき、小声で「気にすんな」と言われたのだ。

 この世界は、辛いことが止めどなく押し寄せるくせして、時々救われる。私が得意なことは誰かが得意で、私の苦手は誰かの得意だ。だから、なんだかんだで私も働くことができている。まあ、いつも美味しいとこだけ貰ってるような気がして、ちょっと申し訳ないけども。

 店長、林さん、鈴木君、他の皆さん、いつもありがとう…と心の中で拝む。


 仕事服に着替えようとロッカーに向きなおると、扉に貼られたメモが再び視界に入る。

そうだ、メモだ。店長への謝罪で忘れていた。今度はゆっくりキレイに、セロテープを剥がして、読んだ。


【皆川さんへ 今月の出勤申請、また幾つか間違えてました。今週中に修正して提出して下さい。 一ノ瀬】


「あーーーー!やっちゃったあああああ!!めんどくさいー!けど店長ごめんなさいぃぃぃ!!」

「あと皆川さ〜ん、今日レジ頼める?私、品出し多い日なんだよねぇ。」

「やります、やりますよ。お金のやり取りは苦手だけど、お客様と話すのは好きなんだ…」


 サッと規定ジャケットを羽織り、黒いスニーカーに履き替える。バイト服、可愛いとは思わないけど、別に嫌いじゃない。


 前髪を直していたら、もうレジの交代時間だよ〜と林さんに言われて、私は売り場へと駆け出した。

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