~後編~ 気の結び
ユェンはその男、
ユェンもユェンの父親も徐杭に騙されていた。ユェンの父親はこのことを知らず、ユェンが何者かに攫われたから今は捜索依頼を出していると説明する徐杭の話を信じ切っていた。結局、農村に残されたユェンの父親は貧しさから解放されることも一切無く、働き者の娘を手放しただけであった。
宋蒯は大狼連合の下部組織の構成員であり、徐杭は表向きは善良な商人で、裏では大狼連合の取引相手であった。宋蒯が繁華街から離れた農村付近に大狼連合の一拠点となる隠れ家を組織しようと視察に出向いていた時、偶然ユェンを見かけた。
ユェンの器量の良さもさることながら、彼女の持つ不思議な気の感性に惚れ込んだ宋蒯は、彼女を己の妾として欲しがり、徐杭と交渉したというのがことの顛末であった。
些か回りくどい手段であったが、これは宋蒯が
また、徐杭の下で、宋蒯にとって都合の良いように、事前にユェンを教育しておくことも、婚姻関係を結んだ理由に含まれていた。独特の気の感性を持つとはいえ、一介の村娘であるユェンをそのままあの魔窟に連れ込めば不祥事を起こりかねない。宋蒯はそう考えていたのだ。
ユェンの持つ気の感性は、幾度も太腥の気と同調することで培われた。そのことを知った太腥は、自分が彼女を事件に巻き込むきっかけを作ったのかもしれないと、思い悩んだものである。
無事に宋蒯からユェンを連れ出して逃げ延びた太腥は、徐杭のいる商店へ忍び込んだ。徐杭が大狼連合と取引をした証拠を掴むためであったのであるが、これは驚くほど簡単に解決した。
太腥は、女を盗られたと徐杭に抗議をするために現れた宋蒯を捕まえることに成功したのである。太腥は宋蒯に気づかれない様に忍び寄り、己の気を使って相手の不意を突いた。宋蒯は魔窟で戦った気の使い手であったが、その実力は挫折したとはいえ
捕らえた宋蒯をその足で
宋蒯は
徐杭と婚姻関係を結んでいたユェンも、参考人として
それから一週間ほどの間。ユェンが解放されるまで、太腥は気が気ではなかった。
その日も、繁華街での興行を終えた太腥は、農村にある丸太の上に腰を下ろし、ぼんやりと薄暮に染め上げられた情景を眺めていた。
朱に染まった黄昏の農園では、仕事を終えた農民たちが一人、また一人と帰路に還る姿が散見される。
沈みゆく日の光を浴びた蜻蛉の影が中空を舞いながら太腥の頭上を通り過ぎて行く。その蜻蛉の群れを見上げながら、太腥は「今日はもう来ないのかな」と呟くと、ゆっくりと腰を上げた。今では野宿ではなく、街の安宿で止めて貰えるだけの資金はあった。太腥は街へ戻ろうと歩を進めようとした。
その時、太腥はユェンの気がこちらに近づいてくるのを察知した。太腥は居ても立っても居られなくなり、ユェンのいる方へ駆け出す。程なくして、太腥の名を呼びながら走ってくるユェンの姿が視界に映った。
「太腥さん、待っていてくれたのね。ありがとう」
ユェンはとても嬉しそうであった。太腥もユェンを笑顔で出迎え、二人はそのまま並んで歩きだした。
二人はこうして話せるのがとても久しぶりで、積もる話もたくさんあった。最初は何気ない世間話などであったが、やがて今では投獄されて刑の執行を待つ身となった徐杭との縁談の件に移っていた。
太腥はその件には触れない方が良いのでは念を押したが、ユェンはどうしても話しておきたいからと言って取り合わなかった。
ユェンの話は、ほぼ太腥が
ユェンは宋蒯の元に売られた後の話は語らなかったが、太腥もそれには触れなかった。大方の見当はついているし、ユェンにはあの魔窟における男たちとの生活を思い出して欲しくは無かった。太腥の気遣いにユェンも気づいており、ユェンは太腥に深く感謝していた。
ふとしたことで、あの一件で、嫁の貰い手がいなくなったとユェンの父親が嘆いているという話を太腥は聞いた。太腥はユェンほどのしっかり者なら、お嫁に欲しがる男は幾らでもいるのでは聞き返した。ユェンはかぶりをふった。
「かつての夫が犯罪者で、そのうえ大狼連合の構成員の妾だったって、もう知れ渡っているの。繁華街には二度と行けないし、他の農家の人たちからも、やっぱり、そういう目で見られているから……。もう、こんな女を欲しがる人なんていないよ」
太腥はそんなことは無いと言いかけたが、酷く暗い面持ちになったユェンの顔を見て、それ以上言えなかった。
僅かに残っていた日の光も見えなくなっていき、青みがかった情景の中。ユェンと話していられる時間も無くなっていた。
「もう遅くなっちゃったね。太腥さん、今日もありがとう。それじゃあ……ね」
立ち去ろうとするユェンをぼんやりと見つめていた太腥は、またユェンがずっと遠くにいってしまうのではという気がした。それは初めは不安感、やがて躊躇、そして一つの強い決心へと瞬く間に移り変わっていた。
このままユェンを行かせたら自分は一生後悔する。太腥は、ユェンを呼び止めた。
「きみと一緒にいたい、生涯を通じて同じ道を歩みたい……そう願っている人間なら、ここにいるよ」
ユェンが太腥の方へ振り返った。見つめ合うユェンと太腥。やがてユェンが口を開いた。
「あの……太腥さん」
ユェンの頬が見る見るうちに赤く染まっていった。
「太腥さん……年の差って気になりますか」
恥ずかしそうにしていたユェンであったが、やがて、彼女は太腥に向かってにっこりと微笑んだ。
その後、ユェンを娶った太腥はその農村で暮らすことになった。十五歳のユェンと、四十歳の太腥で歳の差は離れていたが、ユェンの父親は恩人である太腥が婿になってくれたことを大変喜んでくれた。
周囲の住民からは相変わらず冷たい目で見られていたユェンと太腥であったが、二人の人の好さが相まって、徐々にではあるが、働く二人に親し気に声をかけてくれる者も増えていった。
そして、太腥は新しい仕事に就くことになる。あの事件で関わった
太腥は自分の技術が世間に認められたことが嬉しかった。しかし、その頃にはユェンは男の子を出産しており、農業に育児と忙しくなっていたので、太腥はすぐに返事をすることができなかった。だが、ユェンとユェンの父は、太腥がやりたい仕事をやった方が良いと勧め、太腥も決心するに至ったのである。
太腥たちは農村をあとにし、ある町外れに一つの塾を開いた。ユェンとユェンの父も農村を地主に返還し、太腥と共に暮らす道を選んだのである。
太腥が度々教え子たちに語る、座右の銘があった。誰かから教えられたわけでもないは、自分の経験に基づいた文言であった。
「最もかけがえのないものは、一番身近にあり、一番遠くにある。そのことに気づけるかどうかが一つの運命を分かつ岐路となる」、と。
その男 太腥 来星馬玲 @cjmom33ybsyg
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