おうちは時間を止めました

井ノ下功

郵便屋さんは平原を行く

 平原の真ん中にぽつんと家が建っている。

 石壁。赤い屋根。煙突から細くたなびく白い煙。

 人が通らなくなって久しいこの地には獣道すらない。しかしその家には誰かが住んでいるようだった。


(かつてここは街道だった。百年くらい前の話か)


 男は歴史を脳裏に。


(広く、活発な往来があった。――廃れたのは別のルートができたからであるし、盗賊がはびこったからでもある)


 奇怪な鳴き声をあげて飛び出てきた小型の魔物の心臓へ鉛弾を撃ち込む。


(魔物の増加が後か先かは分からない)


 時間があればきちんと皮を剥ぎ肉を取るところだが、今は日が落ちる前にあの家へ着きたかった。ナイフを死体に突き刺し持ち上げる。血が乾くまでは他の魔物避けになる。

 他に目印となるものがないから家までの距離は計り知れない。見た目通りの旅路とはならないことを男は経験則として知っている。


(あの家はかつて旅人たちの休憩所だった)


 男は噂を反芻し。


(老夫婦が住んでいた。――そこに息子夫婦がやってきて、孫を預けて消えた)


 死体はそれなりの重さである。ぼたぼたと滴り落ちる血が草むらを点々と汚す。どれだけ血が抜けても死の重さは増す一方である。


(今あそこには子供が住んでいる。きっと置き去りにされた孫の幽霊だろうという話だ)


 男は足早に玄関前まで行くと乱雑に死体を放り捨てた。すでに辺りは真っ暗であった。草むらの中を蠢く生命たちが、まずは打ち捨てられた死体に群がっていく。まるで弔うかのように。それが済んだら、敵意は男へ向く。

 男は素早くノックした。少し間があった。その数瞬の内に男は許可なく押し入ることを決意した。早くしなければ己の身が危険になる。魔物の殺意は今や男の背中に集中している。それでドアノブを掴んだ。


「でっ」

「わあっ」


 押す力と引く力が重なって思いがけぬスピードが生まれた。男は扉の縁に額をぶつけてうめき声をあげた。まろび出る格好になって驚きの声を上げたのは年端もいかぬ少年である。

 少年は目を瞬かせて男を見上げた。


「大丈夫ですか、郵便屋さん」


 男は額をさすりながら応答する。


「大丈夫だ。すまないが中に入れてもらえるか。今にも襲われそうだ」


 少年は闇に沈んだ草むらの中に無数の目が光っていることを見て取った。細い肩をぎゅっと縮めたのは恐怖ゆえに。そしてそっと脇にのけて男のために道を開けた。


「ありがとう」


 暖かな光の中に入る。

 男は少年に示されるまま暖炉の前のテーブルについた。

 質素な家である。そこらの木を組み合わせただけのような四人掛けのテーブル。椅子も同じく。ランプは魔導式だが三世代くらい前の姿で、橙色の光をチラチラと揺らしている。簡素な調理場はほとんど使っていない様子である。大きめなベッドはシーツが破け、藁が飛び出ている。

 少年は暖炉にかけていた小さな鍋を片手に男の向かいに座る。


「すみません。一人分しか用意してなかったからちょっと少ないと思いますけど」

「俺はいらない」


 男は斜めがけにしていたバッグからスキットルを取り出しテーブルに置く。少年は何度か頷き、二つあったマグカップの片方にだけホットミルクを注いだ。

 少年はちらちらと男を窺いながら、両手に包んだカップをちまちまと傾ける。警戒、というよりは不審、そしてそれ以上に好奇に満ちた眼差しである。

 男はスキットルに直接口を付けて水を流し込んだ。べたついていた口内がすっきりする。


「ここに住むものへ手紙を届けに来た」


 男は前置きというものを知らない人間であった。唐突な語り出しに少年は慌ててマグカップを置く。


「君以外に人はいないな?」

「いません」

「それなら君ということで間違いないな」

「たぶん。だけどいったい誰が。ぼくに手紙をくれる人なんていないと思うんですけど」

「それは自分で確認してくれ」


 少年はうろんげな面持ちで男から封筒を受け取る。宛先に『星降る平原の一軒家へ』とあるだけで、差出は空白。封筒も便箋も劣化して黄ばんでいたが、黄ばむだけで済んでいるのは品質の高さの証である。少年は真っ赤な封蝋を物珍しそうに眺めてから、爪で無理やり引き剥がした。

 便箋は一枚のみ。ランプの光がちらりとそちらへ向くと、円形の緻密な模様が便箋の背に浮かぶ。

 読み終えた少年は便箋を元通り封筒に収め、しばらくじっと固まっていた。そしておもむろに立ち上がると、暖炉に手紙をくべる。

 パチパチと炎が弾ける。

 男は少年の行動に立ち入れる立場にない。だから手紙を燃やされたことに不快感を覚えても、それを口に出しはしない。


「ええと、この時間に外へ出るのは無理ですよね」

「ああ。悪いが、床を貸してもらえると助かる」


 男がバッグから毛布を引きずり出すと、少年は安堵の息を吐いた。

 暖炉を消す。ランプを消す。完全な暗闇が家を満たす。目が慣れてくると、窓の向こうに広がる星空が見える。しかし壁へ額を付けるようにして眠る男の目には映らない。

 男は夢の中でかすかな歌声を聞いた。それは幼い頃、母が好んで歌っていた子守歌。星を数え過ぎて星になってしまった少女の歌である。


 ――可愛い小さな女の子、お星さまが大好きな女の子

   小さな指がイチ・ニィ・サン、夜空を数えて線を引く。

   可愛い小さな女の子、お星さまを数える女の子

   飽きもしないでセンとイチ・ニィ、数え終わるまで眠れない。

   可愛い小さな女の子、その子がぐっすり眠れるように

   おうちも時間を止めました。

   数え終わるまで朝は来ない、眠りに就くまで朝は来ない

   おうちの時間は進まずに、まだまだ数えるマンとイチ・ニィ

   さいごに自分を数えたら、これでおしまいおやすみなさい――


 夜明けとともに男は目を覚ます。

 朝の陽ざしが直接目に入る。草原の風が頬を撫でる。周りを見ると、石壁は崩れ、屋根は落ち、暖炉だけがかろうじてその形を保っていた。

 廃墟と比べれば男とその持ち物は真新しい。

 男は立ち上がり、体に積もった埃を気休め程度に払う。紺色の制服が真っ白になっている。小さな舌打ち。


(帰ったらまず風呂と洗濯だな。まったく、厄介な仕事だった)


 悪態は胸の内。男はバッグを肩にかけ直し、帽子を被る。


「えっ、なんで?!」


 少年の声。

 男は無感情だった瞳に驚愕と動揺をありありと浮かべて少年を見た。少年は玄関があった辺りに立ち尽くし、呆然としている。彼の手には今獲ってきたばかりとおぼしき小型の魔物の死体がぶら下がっている。


「なんで……ぼくの、家が……」

「君は幽霊じゃなかったのか」

「え? 幽霊?」

「いや、なんでもない」


 すっかり噂を鵜呑みにしていた男は慌てて首を振る。


「俺が起きた時にはこうなっていた。君にとっても、これは不測の事態なんだな」


 少年は噛み切れない肉を無理に飲み込んだような顔で頷いた。


「手紙が原因か?」

「手紙には『ひとりで生きていけるようになったなら、この手紙を燃やしなさい』って書いてあった。だから燃やしたんだ」

「差出人に心当たりは?」

「ない。郵便屋さんは、誰から受け取ったの?」

「ポストに投函されていただけだから分からない」

「……もしかしたら、あの人かな」


 少年は仕留めてきた獲物をさっきまで床だったはずの地面に置いた。死体は二つ。少年は細腕を気だるそうにさする。


「ぼくはこの家に住んでいたおばあちゃんに育てられたんだ。おばあちゃんは……何年か前に、消えてしまったけれど」

「消えた?」

「うん。消えた」

「そうか」

「それでね、ぼくが覚えている限りで一番昔のことなんだけど、おばあちゃんが窓越しに誰かと話していたんだ。内容はよく分からないけれど、でも、星がどうとか、数が何だとか、独り立ちするまで、とか……そんなことを言っていた気がする。その人の顔はよく見えなかった。けど、なんだかすごく不思議な感じの人だった」

「そうか」


 男は他に言うべき言葉を持っていなかった。


「そうか」

「うん」


 少年はふとマグカップの破片をつまみ上げた。力を込めたようには見えなかったが、それは簡単に砕けて風にさらわれていった。少年は廃墟となった家の真ん中で空を見上げる。


「町まで送ろう」

「うん」


 家であった場所から二人連れ立って出る。廃墟に残された死体へ魔物が群がる。平原はただの平原になる。幽霊はもういない。

 星は数え終えたのだ。



      おしまい

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