隣の庭

悠井すみれ

第1話

 今の部屋を決めるにあたって、気に懸けることは色々あった。最寄り駅からの距離はもちろん、スーパーやコンビニ、ドラッグストアが近くにあるかどうか。病院も口コミを確かめたし、同じアパートの住人についても、車やバイクや自転車の感じやポストにチラシが入れっぱなしになっていないかとかをチェックした。三階にしたのは、まだしも虫が出る可能性が低いと聞いたからだった。


 でも、部屋から見える景色については気にしなかったと思う。不動産屋は、建物で遮られていないから洗濯物がよく乾きますよ、なんて言っていたっけ。男のひとり暮らしで、ベランダに干す機会なんて休日くらいだろうに。そして実際のところ、寝坊したり予定があったりで太陽の世話になることはまれで、夜にこっそりと洗濯機を回して部屋干しにする、が俺のルーティンになっていた。


 だから、南向きのベランダから見える隣家の庭がとても手の込んだものだと気付いたのはこのご時世になってやっと、だった。つまりは、在宅勤務が増えて、平日の昼日中に、目の休息を求めて窓の外に目をやる機会ができたから、ということだ。


 最初に目に入ったのは、梅雨明けころに咲いていた白い花だった。というか、鼻に入った、というか。冷房をつけるのもまだ早い時期のこと、開けていた窓からふわりと優しい香りが漂った、気がしたのだ。艶やかな緑に映える、大きな花弁のその花はタイサンボクというそうだ。今まで興味もなかったのに、なぜか調べようと思い立ったのは、多分退屈だったのだろう。家に閉じ込められて、刺激が減った毎日に、嫌気が差し始めたころだったのだろう。


 夏の間は、百日紅さるすべりやタチアオイがピンクのグラデーションを描いた。秋には紅葉もみじとキキョウで和の趣。冬には椿が咲くだろうと、その頃には俺の知識でも予想することができたし、当たった時には密かにガッツポーズを決めたものだ。


 そうやって四季折々の彩を勝手に楽しんでおきながら、隣家の住人について知っていることは何もないのだが。隣とはいっても接しているのは敷地のいわば裏同士な訳で。普通に歩いていて挨拶を交わすような位置関係ではないのだ。

 だから、俺は隣人を遠目に見下ろすだけだった。古びた家にひとりで住んでいるらしい、老婦人。マダムとでも呼ぶのが似合いだろうか。銀色の髪を陽に輝かせて、ホースを握ったり土を弄ったりしている。時節柄なのだろう、ひとりでの作業中でもマスクをしているのは苦しそうだ、とも思うけれど。真面目な人なんだな、とも思っている。結構な広さの庭に、四季を通じて見どころを作るのはずぼらな人間にはできないだろう。こんな状況でなかったら、花を見に友人が訪れたりするのかもしれないのに、もったいないことだ。


「桜もあるのかな……? その前に沈丁花じんちょうげかな」


 軟禁のような生活もそろそろ一年近くになる。代わり映えのしない毎日に、隣家の庭はちょっとした楽しみを添えてくれていた。次はどんな花が咲くのかな、と。柄にもなく調べてしまったり、デスクを窓に寄せてしまったり。老婦人とたまに目が合うこともあって、会釈したり手を──ごく控えめに──振ったりすることもある。同じアパートの、本当の隣人にもしないようなことをしてしまっている。名前も、何なら顔でさえはっきりとは知らない──遠目に見るだけだから──相手なのに、ご近所さん、になってしまっている。


 敷地をわざわざ回り込んで声を掛けるなんて、気味が悪いと思われるだろうと、ずっと考えていたのだが。そうしない方が、居心地が悪いかも、なんて思い始めている。


(綺麗な庭ですね……いつも頑張っていらっしゃいますね……楽しませていただいてて、ありがとうございます……? あ、まずあのマンションの者ですが、って言わなきゃか)


 最近では、老婦人にかける言葉を考えている自分がいたりもする。次の休日は、あの庭を同じ目線で覗いてみようか。その時ちょうど彼女が庭に出ていたら、良い。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

隣の庭 悠井すみれ @Veilchen

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ