大好きな時間を、珈琲と共に

加瀬優妃

素敵なおうち時間

 サイフォンに入れた水がコポコポと音を立て、上へと上がっていく。

 この気持ちのいい音を聞きながら手帳に明日の予定を書き入れるのが、僕の夜の日課になっている。


 やがてプウンと炭焼珈琲のいい香りが僕の鼻腔をくすぐった。

 ちらりと視線を送ると、珈琲の抽出が始まり、ポタポタとサイフォンに少しずつ溜まってゆく。


 今日は仕事もはかどったし、帰りの電車も混んでなくて椅子に座れたし、本当にいい一日だった。

 ……あ、いや、まだ終わってないか。


 今日のページの余白に目が留まり、ボールペンを置く。時計を見ると、午後十時過ぎだった。

 思ったより長く休憩してしまった。急がなくては。


 慌てて手帳をバックパックにしまい、椅子から立ち上がる。台所にいって食器棚の下からステンレスボトルを取り出した。

 抽出を終えた珈琲をステンレスボトルに移す。一口味見しようか、と一瞬魔が差しそうになるが、我慢我慢。

 最高のシチュエーションでこの炭焼珈琲を味わいたい。


 バッグパックに財布を入れて背中に背負うと、僕はボトルを片手にアパートを飛び出した。



   * * *



 自転車を漕ぎながら、夜空を見上げる。今日は下弦の月だから、まだ昇り始め。東の空の住宅街の屋根のすぐ上のところに、半月が寝ている。


「は、は、くしゃん!」


 しまった、風邪をひいたかな。

 最近、急に気温が下がった気がする。歩いているときは何てことのない夜風も、自転車に乗っているときに浴びると妙に冷たく感じる。

 明日からはトレーナーにした方がいいかもしれない、と考えながらペダルを漕ぐ足に力を込めた。


 いつもの道を颯爽と走り抜けると、いつもの見慣れた景色が目に飛び込んだ。

 いつもの公園の脇に自転車を止め、いつものように白いU字型の車止めの上にお尻を乗っける。

 ステンレスボトルの蓋を開け、いつも飲んでいるアツアツの炭焼珈琲をカップに注ぐ。


 ああ、いい景色だ。連なる暗い屋根と、ひときわ輝く下弦の月。

 毎日見ていると月の微妙な変化は分からない。だけど確かに、一週間前はまんまるだったな。

 もう大半の人は寝静まっている。明かりの点いている家は殆どない。だから余計に、月が綺麗に見える。


 炭焼珈琲の香りを存分に楽しみながら、カップに口を付ける。

 ああ、あったまるなあ。


「……はくしょん!」


 しまった、またくしゃみが出てしまった。

 やっぱりこの格好じゃ寒かったか、と少し後悔したけれど、僕はこの場を離れる訳にはいかない。

 喉を通っていく珈琲の渋みを楽しみながら、もう一度目の前を見上げる。


 下弦の月のすぐ右手には、二階建てのアパート。こちらも殆どの部屋が真っ暗だったが、二階の一番右側だけは電気がついている。

 ――マリコさんの部屋。


 飲み終えたカップを振り、一度ボトルに蓋をする。バックパックを身体の前面に持ってきてチャックを開き、手帳とボールペンを取り出した。


 マリコさんの帰宅は、いつも夜の十時過ぎだ。特に金曜日は仕事が立て込むことが多いのか、0時近くになることもある。

 何しろ、昨日はずっと部屋の明かりが消えたままだったのだ。帰ってきていないのかそれとも僕が来るより早くに寝てしまったのか判断がつかなかったから、僕は3時間ほどずっとこの場所にいてマリコさんを見守っていた。

 おかげで風邪をひいてしまったみたいだけど、マリコさんのためにひいた風邪だから全然辛くはない。


 自分の部屋でゆっくりと時を過ごすマリコさんとともに、僕もここで同じだけ時を過ごす。

 そうすれば、ほら、まるで二人だけのおうち時間をまったりと堪能していることになるだろう?


 それもあって、今日は絶対にマリコさんに会いたかったから仕事も頑張った。いつもなら二日はかかるデータ処理を一日で終わらせ、きっちり定時に上がってマリコさんの会社の前にある喫茶店に行った。

 いつも飲んでいる炭焼珈琲は、そこのマスターからお裾分けしてもらったもの。マリコさんに会うときはいつもこの珈琲を飲んでいるから、これがないと落ち着かない。


 そして、マリコさんが八時過ぎに会社を出るところを、この目でちゃーんと確認した、という訳さ。

 そのあとも、マリコさんは真っすぐに駅に向かって電車に乗り、真っすぐこのアパートまで帰ってきた。

 ……となると、マリコさんの今日の就寝時間は十一時頃だろうか。レンタルショップにも寄ってなかったから、DVDを見て夜更かしすることも無いだろう。


“予想:十一時二十三分”


 手帳の今日の日付のところにそう記し、顔を上げる。マリコさんの部屋のカーテンが少し揺れた気がした。

 同時に、僕の心臓の音も跳ね上がる。


 ま、まさかカーテンを開けてくれるんだろうか? 頑張った僕に、そんなご褒美が? どうしよう、ドキドキするな。

 いつもピシッとしたスーツを着ているマリコさんだけど、部屋では何を着ているのかな。パジャマかな。それともスウェットかな。

 僕の好みとしては……いやいや、そんなことを考えるのはおこがましい。マリコさんなら何を着ても似合うはずさ。


「あー……ちょっと、君?」


 何だよ、僕はマリコさんのことを考えるのに忙しいんだ、と思いながらしぶしぶアパートから視線を下ろす。

 濃い藍色の制服を着たお巡りさんが、僕の顔をじっと覗き込んでいた。


「ちょっといいかな?」

「何ですか?」

「怪しい人間に付きまとわれている、と通報があってね」

「怪しい人間? 僕は見てませんが」

「いや、君だから」

「え?」

「通報されたの、君は」

「え? え?」

「ちょーっと一緒に来てもらおうか」

「え? え? え?」


 僕はお巡りさんに腕を取られ、強引に立たされてしまった。

 そのまま引きずられるようにパトカーへと連れていかれる。


 待って、待って。僕はアパートの傍から昇る月を見上げて珈琲を飲んでいただけの人だよ。

 どうしてこんなことに?


 ああ、マリコさんは今日は何時に眠りにつくのだろう。いや今日だけじゃない。明日も明後日も、その先もずっと。

 マリコさんをそっと陰で見守るのが、僕の生きがい。僕の大事な使命だったのに。

 僕とマリコさんだけの、大切な時間だったのに。

 僕は絶対にここに居続ければならなかった。なのに、もうマリコさんに会えないんだろうか。


 いや、大丈夫だ。そんなことにはならない。僕が絶対に、そうはさせない。

 だからマリコさん。少しだけ、待ってて。ごめん。本当にごめんなさい。

 僕、すぐに戻って来るからね。そして、ちゃんと見守り続けるから。

 不安がらないで。


 ああ……でも、そうなると。今度はマリコさんが待つ番なのか。

 僕が帰ってきたら、どんな表情を見せてくれるだろう。

 夜の闇、月明りの下、きれいな瞳を潤ませてくれるのだろうか。それとも涙を堪えて健気に微笑んでくれるのだろうか。

 ああ、想像するだけで楽しいな。離れた時間が愛を育てるっていうものね。


 だからマリコさん。

 僕が帰ってくるのを、ちゃーんと待っててね。

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