『有島サクラの憂鬱』(KAC20211:おうち時間)

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『有島サクラの憂鬱』

 わたしの名前は有島サクラ。


 お母さんが喋っているのを聞いたところによると、どうやら生まれた季節が春だったからサクラという名前がつけられたらしい。音の響きが好きだから、わたしはとても気に入っている。


 わたしがこの家に来てからもうすぐ三年になる。その間、わたしは何ひとつ不自由することなく暮らしてきた。


 食べ物を望めばすぐにお母さんから与えられたし、好きなように遊べる場所も、身だしなみを整える物も用意してくれた。眠たくなったらいつでも、どこでだって邪魔されることなく寝ることができた。


 まさに楽園にいるような生活。こんな生活がいつまでも続いていくと思っていた。


 でも、わたしは知らなかった。幸福な生活というものは些細ささいなことで呆気あっけなく失われてしまうのだということを。


 そう。最近のわたしには頭を悩ませる憂鬱なことがあった。わたしの平和な日常を突如として崩壊させた出来事——。


 ——それはこのところが一日じゅう家にいるということだった。


 どうしてそれがわたしにとって憂鬱になるのかを理解してもらうためにも、まずはアイツのことを説明しておかなければいけない。


 アイツというのはわたしとお母さん以外にこの家に住む同居人のことだ。家の中でいちばん大きな体躯たいくを誇っているヤツで、わたしがここに来るまえからお母さんと一緒に住んでいるらしい。


 ずっと一緒に住んでいるのならどうして今頃になって憂鬱に? と疑問に思うかもしれない。


 でも、その答えは簡単。以前までなら別に問題はなかったということ。


 なぜならアイツはいつも朝はやくどこかへ出かけて、家に帰ってくるのも夜遅くになってからだったから、わたしの生活サイクルとは関わりがなかったのだ。


 もちろんアイツだって時々はどこにも出掛けず家にいることもあった。けれどその時だって、アイツは泥のように眠っているだけだったから、わたしに対して何かをするということはなかったのだ。


 だからこれまでのわたしにとってアイツの存在は無に等しく、精々がたまに体を撫でてくる存在という程度。害を与えてくるようなことはなかったから、わたしはアイツをいないものとして扱っていた。


 ところが最近になって事情が変わってきた。


 わたしがこの家に来てからの三年間、ずっと朝はやく家を出て夜おそく帰ってくるというサイクルを続けていたアイツが、なぜだか最近になって突然一日じゅう家にいるようになったのだ。


 まあ、それだけならいい。


 問題なのは、ずっと家にいることで有り余ったエネルギーをわたしに向けてくるようになったということだ!


 以前までのアイツは外に出ている間にすべての活力を使い果たしてしまうらしく、家にいる間はいつもぐったりとしていた。


 だけど外に出なくなってからのアイツは家の中でも生き生きと過ごすようになり、ついにはわたしにちょっかいをかけてくるようになったのだ。


 最近のアイツはわたしが昼寝をしようと窓辺に横になっているとすぐに脇腹をさわさわとくすぐってくるし、歩いているだけでいきなり体を持ち上げてくる。


 さらにはアイツの体の上に乗るように強要してくるし、果てはトイレにまでついてくるのだ!


 どんなにわたしが嫌だと声をあげてもアイツは喜ぶばかりで一向に止める気配がない。


 そのくせわたしが気まぐれに遊んでやろうとすり寄っていくと、アイツは邪魔だからあっちに行ってろと言うのである。そしてわたしを追い払った後、なにやら芝居の練習でもするかのようにひとりでぶつぶつと喋り始めるのだ。


 まったく意味がわからない。なんていい加減で自分勝手なヤツだ。


 それでもこれは一時的なもので、アイツもいずれ飽きてくれるだろうと、しばらくの間は我慢していた。眠気を押してアイツに付き合ってやったのだ。


 ——でも、もう限界。これ以上アイツの暴挙を許せば、いずれきっとわたしの精神は崩壊してしまう。


 なにしろずっと神経を張りつめらせてアイツの襲撃を警戒していなければいけないのだ。アイツがこの家にいる限り、もはやここは安寧の地とはならなくなってしまった。早急になんとかしないといけない。


 というか、そもそもアイツはいったいなぜこの家にいるのだろう。


 アイツは何もこの家のためになるようなことをしていないじゃないか。


 お母さんは昼のあいだ食べ物をとってきたりと忙しく動き回っているのに、アイツはわたしを追いかけ回すか、誰もいないところでひとり奇妙な芝居に興じているだけなのだ。


 それに、だ。以前アイツが朝から出かけていたときだって、あの大きな体を活かして外で食べ物をとってきていたのかというと、そんなことはない。


 アイツはいつも手ぶらで家に帰ってきた。一度だってわたしたちに食べ物を持って帰ってくることはなかったのだ。


 まったく、いったいアイツは何のために外へ出ていたのだろう。きっとどこかで遊び呆けていたに違いない。


 そう。結論として、アイツはなにもわたしたちに貢献していないのだ。外から食べ物をとってくるのはいつもお母さんだし、わたしに分け与えてくれるのもお母さんだ。


 アイツはこの家にとってただの穀潰し。それでも空気のような存在だったから、わたしはアイツをこの家に置いてやるのを許してきた。


 だけどそうでないのなら話は違ってくる。


 差し当たってわたしはお母さんに嘆願することにした。


『ちょっとお母さん! なんなのよ最近のアイツは! わたしにちょっかいかけてきてウザいし、もう出てってもらってよ!』


 けれどお母さんはわたしの頭をやさしく撫でながら微笑んでいった。


「ふふ、オトウサンが家にいてサクラも嬉しいのね。今のうちにいっぱい遊んでもらいなさいよ」


 ああ、まったく話が噛み合っていないみたい。それどころかひどい勘違いをされている。


 アイツ——オトウサンというのがアイツの名前らしい——の存在をわたしはまったく喜んでなどいないのに。


 それと、なんとなく伝わってきたのは、お母さんがアイツに親しみを持っていて、追い出す気はないということ。


 いったいどうして……。


 寄るべを失ったわたしは絶望にも似た感情を抱きながらアイツが家にいる日々を過ごしていった。


 そんなある日のことだ。わたしが隙を見て日向ぼっこに興じていると、ひとり芝居を終えたらしいアイツがいつものようにやってきてボール遊びをしようと言った。


『いやよ。どうしてわたしがアンタなんかとボール遊びしなきゃなんないのよ』


 けれどそんなわたしの言葉など聞こえていないかのように、アイツはボールをわたしの元へと投げてくる。アイツの手から放たれたボールは、転々とわたしの横を通り抜けていった。


「ああ、ダメじゃないか、ちゃんと取らなきゃ。ほら、もう一度行くよ」

『だからしないって言ってるでしょ!』


 わたしの怒りの声を頑なに無視して、アイツはボールを自分で拾うと、再度わたしに向かって投げてくる。


 ころころとわたしの足もとまで転がってくるボール。


 わたしが動かないでいると、アイツはうっすらとした笑みを浮かべて言った。


「どうしたんだサクラ。ほらほら、こっちこっち」

『ああもうっ、うっとうしい! わたしは眠たいのよ!』


 どうにもならない怒りを目の前のボールにぶつける。わたしの蹴り返したボールは寸分の狂いもなくアイツの元まで転がっていった。


「おお、すごいぞ。その調子だ。よし、もう一回行くぞ」

『ふんっ、もういいわ。くるならきなさいよ! 消し炭にしてやるわ!』


 そうして結局、三十分ほどボール遊びを続けてしまった。


 ボールを持って去っていく間際、アイツは清々しい笑顔を浮かべてわたしに言った。


「またやろうなサクラ」

『バーカ、二度とやるもんか! あっちいけ!』


 けれど、わたしがいくら言っても次の日になるとアイツはまた誘ってくるのだった。それで仕方なくわたしもやることになる。


 そんな日が一ヶ月も続くとわたしもだんだんと諦めの境地に至っていた。


 いつのまにかアイツとのボール遊びが日課に組み込まれることになっていた。


 惰性の付き合いが続くなか、わたしはひとつ良いことに気がついた。


 アイツとのボール遊びは良いストレスの発散になるのだ。


 知らない間に蓄積されていた日々のストレスをボールにおもいっきり蹴り込んでいく。そうするとなんだかスッキリとした気分になれた。


 そのことに気がついてからのわたしは、知らず知らずのうちに、アイツとのボール遊びが密かな楽しみとなっていた。


 それでわたしも、アイツもなんだかんだ使えるヤツだと思い始めていた。


 ……だけど、それからしばらくして、アイツはまた朝から出かけるようになった。


 早朝に家を出ていき、深夜に帰宅して泥のように眠る生活に戻ったアイツは、わたしをボール遊びに誘うことはなくなった。


 でもべつに悲観することはない。代わりにお母さんに遊んで貰えばいいだけの話だ。


『ねえお母さん。わたしとボールで遊んでほしいなぁ』

「あらあら、どうしたの? かまって欲しいのかな? でもごめんね。いま手が離せないのよ」


 そう言って、お母さんは行ってしまった。後に残されたのはショボくれたわたしと、苦労して運んできたボール……。


 なんだか……寂しい? 


 ——バカ。なにを寂しがることがあるのよ。


 いいじゃないか。これでまた誰にも邪魔されない悠々自適の生活が戻ってきたのだ。


 ボール遊びができなくなったって、前みたいにほかのことをして遊べばいいのだ!


 ……。

 …………。

 ……。


「——お、ここにいたのかぁサクラ。きょうからまたしばらく自粛だし、一緒に遊ぼうな」


 ああ、まったく。ホントに勝手なヤツだ。あれから何ヶ月経ったと思っているのか。


 そんなふうにニコニコとボールを投げてきてもわたしはもう絶対に遊んでなんかやらないんだから!


「おーい、どうしたサクラ? ほら、蹴り返してこいよぉ」 


 ……はぁ、でもまあ仕方ない。ここで無視してまたトイレにまで付き纏われるのも面倒だし、ボール遊びぐらい付き合ってやるとするかにゃ♫

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