算法の村

黄黒真直

算法の村

 江戸から歩いて一日足らずの小山おやま村は、豊かで安穏とした村である。北に小さな山があり、そこから下る数本の細い川が、村を幾つかの集落に分けていた。

 豊かになったきっかけを高村は知らなかったが、ちょうどこの春日神社を建て替えた頃からだと、祖父は語っていた。やはり氏神様のおかげなのかと幼い高村が尋ねると、いや境内を広くして、年貢免除地を増やしたからだと祖父は笑った。

 代々神職を務めている高村家であるが、祖父がこの調子であり、どうやら他の世代も概ねこのようであるらしかった。父は神事よりも村民との交流を尊び、村民同士の結びつきを強くした。おかげで諍いは減り、皆で協力して山の開墾も行えた。いつかの大嵐のときは、周囲のどの村よりも早く復興できたほどだ。

 そして孫の高村は、より多くの作物を得る方法を考えていた。山は開墾したが、維持する人手が足りない。人手を増やすには、作物を増やさねばならない。しかし作物を増やすには人手が足りない。それがわからず開墾したのは、当時の父や百姓たちの考えが足りなかったためだ。

 しかしこれに関していえば、高村よりも、村の熱心な若者たちの方が、よい考えを持っていそうであった。高村に百姓の経験はないからである。

 祖父は、よく言えば要領がよく、悪く言えば狡猾だった。父にはその狡猾さが受け継がれず、手際の良さより皆で努力する方を選ぶ人間だった。

 自分はどちらかと言えば祖父に似ていると、高村は自己を認めていた。祖父ほどの切れ味はないが、正攻法よりは搦め手を好むのだった。

 いま若者たちは、正攻法で山の畑を育てている。高村は、搦め手を考えるべきだろうと、判断していた。


 父も祖父も逝ってしまったいま、高村はひとりで、この村の神社を仕切っていた。

 村には、集落ごとに小さな神社がある。それらを、この春日神社で代表していた。高村は日ごろ、春日神社で神事を行い、他の神社を訪れるのは時間のあるときか、特別な神事のあるときだけであった。

 その日は、特別な日であった。春に行う祈年祭の日である。春日神社での神事を終えた高村は、その足で隣の集落へ向かった。

「お久しぶりです、高村さん」

 鍵取を務める百姓の彦助の家へ行くと、彼が物腰柔らかに挨拶した。彦助は高村の父の頃から鍵取をし、高村を幼い頃から知っているが、いつも腰が低かった。

「お久しぶりです。いつも神社の管理、ありがとうございます」

 高村も頭を下げた。ひとりでこの村の全ての神社を管理することはできないため、各集落の神社は、その集落の百姓が管理していた。そのような者を、鍵取と呼ぶ。

 二人は大滝神社へ向かった。名前に似合わぬ小さな神社で、境内を流れる細い川が、高村の背丈よりも低い滝を作っている。いつもは絵馬も多くどこか華やかな神社であるが、神事を行う今日は、絵馬が少なく、殺風景であった。

 祈年祭であるから、集落の者の大半が揃っていた。みな元気そうである、と思ったが、一部の若者の顔色が悪い。何があったのか気にはなるが、今は神事が優先である。あとで機会を見つけ話しかけようと決めた。この性格は、父譲りであろう。


 神事を終え着替えを済ませると、彦助以外の村人は帰っていた。仕方なしに彦助に声をかける。

「今日は、万作や、竹五郎の様子が、普段と違いましたが、喧嘩でもしたのですか」

 いつも一緒にいる四、五人の若者達が、一斉に顔色を悪くしていた。あの仲間内で諍いがあったのかもしれない。

「それが、儂にはよくわからないことなのですが、なんでも、道場破りが現れたそうです」

「道場破り、ですか。彼らは武道をしていたのですか」

「いいえ、全く。百姓仕事の他にやっていたのは、算法だけです」

「算法……ですか」

 高村にも、いくらか算法の心得があった。

 この村には、万作たちを含め、算法を好む者が何人かいる。その者たちは、自らが解いた算法の問題や、作った問題を、算額と呼ばれる絵馬にして、神社に奉納するのである。江戸で流行っているというこの慣習を、村の若者たちが真似して始めたのだ。

 はじめは高村も、意味の分からない絵馬だと思い無視していたのだが、数が増えてくるにつれ、気になり出した。春日神社に奉納されるものだけでも中身を理解しようと、若者たちに教わったのだ。

 それは、高村の性に合っていて、いくらかの問題は解けるようになった。誰にも解けないだろうと自信を持って奉納した若者の目の前で、それを解き、驚かせたのは一度や二度ではない。

 余談であるが、高村が自身を狡猾な、つまり祖父に似た性格だと判断したのも、そのようなときであった。若者が想定した正攻法は使わず、彼らが思いもよらなかった方法で(たとえば、線を一本書き足すなどして)解いてしまったからである。

「算法で道場破りとは、どういうことですか」

 高村の質問に、しかし彦助は首を振った。

「そこが儂にはよくわからないのです。ただ、それが原因で、算額を全部捨ててしまったそうです」

 言われて初めて気付いたが、境内に算額が一枚しかない。殺風景なのは、神事の準備のためではなかったのだ。

 その一枚は、見覚えのないものだった。大滝神社に来る機会は少ないので、見覚えのない絵馬があっても不思議はない。しかしこの算額は、筆跡がいつもの算額と違った。明らかに、他の者が書いた文字である。

「この絵馬は、誰のものですか」

「どうやら、それが、道場破りの絵馬らしいのです」


 高村は、万作にも話を聞きに行った。

「うちは道場なんかじゃないと、言ったんですが」

 万作も竹五郎も、暗い顔をして、その道場破りの男のことを語った。

「算術をやるからには、誰かの弟子になっているはずだと、決めつけるんです。俺達は、最初にちょっと江戸で算法を知ってからは、俺達だけでやっていたんですが」

「それで算法勝負を挑まれて、負けて、今後算法をやらないことと、神社の算額を棄てることを、命じられたんです」

 どうやら相手は江戸の出身らしく、地方を旅してまわり、算法の塾を荒らして回っているようだった。

「大滝神社の算額は、その者が書いたのですか」

「ええ、俺達が解けなかった問題です」

 算額を奉納する理由は様々だが、神への感謝が最たるものである。このような問題を解ける力を与えてくださり感謝いたします、という気持ちを込めるのだ。

 だがその男の場合、この問題で他人を出し抜けた、という感謝を表しているようである。

「近隣の村を荒らしているということは……」

「はい、もしかしたら、他の集落へもいくかもしれません」

 春日神社のある集落でも、算法をしている若者がいる。彼らが道場破りに狙われないとも限らない。

 高村は、急いで集落へ戻ることにした。


 集落へ歩きながら、高村は、道場破りが残した算額について考えていた。

 翦管せんかん術の一種のようだった。与えられた条件から、所定の数を求める問である。例えば次のようなものだ。

「碁石がいくつかあり、七ずつ引くときに、残る二つある。また五ずつ引くときに残る半一つある。三ずつ引くときに残る半二つあるという。碁石のかずをいうなり」

 答えは八十六となる。八十六から七ずつ引くと二あまり、五ずつ引くと一あまり、三ずつ引くと二あまる。このような数を求める術が、翦管術である。

 村の若者が得意とするのは、円の求積や規矩きく術(作図)だ。翦管術のような、数の計算が得意な者は少ない。道場破りは、神社の算額を見て、それを知ったのだろう。

 道場破りが、先に神社を見たのは、間違いない。彼は、万作たちに、算額の破棄を命じた。つまり、算額が奉納されていることを知っていたのだ。その村の算法家の得手不得手を調べてから、挑んでいるのである。

 それに、あの問は。

 高村は道場破りに、を抱いていた。

 あのような問を出す者は、自分に似ているに違いない。


 春日神社へ帰ると、集落で一番算法の得意な虎之介が、算額を抱えていた。新しい算額を奉納しに来たようだ。

「ああ、高村さん。遅かったですね」

「万作達と話し込んでいたんです」

「へえ、どんな話を」

 高村は包み隠さず、道場破りの話をした。すると、虎之介の顔がみるみる青褪めた。

「それじゃあ、今の男が、そうなのでしょうか」

「誰か来ていたんですか」

「旅装束の男が、算額を見ていたんです。俺が声をかけたら、この算額も見せろと言って」

 虎之介は持っていた算額を高村に見せた。円の中に三角や小さな円のある図が描かれている。

「この問いを、その場で解いちまったんです」

「弦は一寸五分ですね」

 高村もその場で答えてみせると、虎之介はますます顔を青くした。

「俺、どうしたらいいんでしょう」

 このままでは、村中の算法家が、潰されてしまう。しかし、高村よりも、この若者たちの方が、算法は得意なのだ。特に万作は、この村一番と言ってもよい。彼ですら負けたのだから、高村にできることは多くない。できるのは、助言だけである。

「では、ひとつ、まじないの言葉を教えましょう」

 高村は至極真面目な顔で、高村らしくないことを言った。だがそれが高村らしくないことは、高村しか知らない。村の者はみな、彼の家系を神職の一族とみている。

 虎之介は顔を輝かせ、高村の言葉を聞いた。しかし、それが明らかにまじないの言葉ではなかったので、困惑を隠せなかった。

「それが、まじないですか」

「はい。彼の問題がどうしても解けないときは、この言葉を言ってください」

 虎之介はしばらく悩んだが、

「高村さんが言うなら、そうします」

 と従った。高村はさらに、こう付け加えた。

「それと、もし勝負に勝ったら、その男をここへ連れてきてください」

「この神社にですか」

「そうです。私が直接、話をつけたいんです」

 わかりましたと答えて、虎之介は不安そうな足取りで帰っていった。


 さて、数日後のことである。

 虎之介が、ひとりの旅人を連れて春日神社へやってきた。

「高村さん。言われた通り、連れてきましたよ」

 高村は旅装束の男の前に、進みでた。男は不機嫌そうな顔で、高村を睨む。

「どうやら、まじないが効いたようですね」

「はい。『これは病題だ』と言ったら、すぐにうろたえ始めました」

 算法の問題は、実は作るのが非常に難しい。そして、不備のある問題は、「病題」と呼ばれる。

 病題には四種類ある。解が二つ以上ある「変題」、条件に従う解のない「虚題」、問題に不要な条件のある「繁題」、そして条件が足りず解が定まらない「転題」である。

 大滝神社で見た問題は、転題であった。つまり、解が定まらない問題である。素人が翦管術の作問をすると、しばしばそうなる。だが万作の問題を解ける者が、そんな間違いを犯すはずがない。彼はわざと、そうしたのだ。

 万作は、答えが求まらずに混乱したのだろう。正攻法しかしないような真面目な彼は、まさか意図的に解けない問題が出されているとは思わなかったはずだ。

 加えて転題の悪いところは、解は定まらないが、解そのものは存在することである。「この解はなんであるか」と尋ねられれば、出題した者は「これこれである」と答えられるのだ。しかも、その解が正しいことは、容易にわかる。

「あなたはそうやって、多くの道場を破ってきたのでしょう。だから今回も、そうすると思いました」

「俺をどうする気だ」

 道場破りは腹をくくっていた。刃物があれば切腹するのも厭わない様子だった。

「死ぬ必要はありません」と高村は穏やかに言った。「あなたには、この村に留まってもらいます。そして、この村の力になってください」

「村の力だと」

 彼も、虎之介も、困惑していた。高村は道場破りに顔を近づけると、他の者に聞こえぬよう(といっても、周りには虎之介しかいなかったのだが)、こっそりと告げた。

「協力してもらいたいんです。この村の更なる繁栄のため、私は、農作物の収穫量を増やすか、年貢の量を減らすかの、どちらかの策を練らねばと思っていました。私は百姓ではありませんので、農作物の方は、わかりません。ですから、もうひとつの方……」

 道場破りは、高村の意図を汲み取った。

「領主に、年貢の数が間違っているのに、合っていると思わせたいのか」

 高村は狡猾な表情になった。

「貴方のような人間なら、きっと、そのような策を思いつけるはずです」

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