エミル 4
私は寒さで震えていた。
風の強い夜だった。森は静かだが、時折、地鳴りのような体の芯に響く音が聞こえてきた。獣の唸り声か、あるいは本当に大地が揺れているのか。
木の幹にもたれかかり、赤子のように体を丸める。根元に生えた草や落ちた枝が、ちくりと手に刺さり、土が足の皮膚に食い込む。痛みはあったが、だからなんだという気持ちだった。この夜の寂しさに比べれば、大したことではない。
私には使命があった。
人間の行く末を見守ることである。そのための力をクラウンから授かり、この世界に生を得た。
魔女とは、本来、クラウンに掲げられた願いをもとにして生み出される。だが、誰が願ったわけでもなく、この世界が誕生した時に、私は生まれた。ただの監視役として。世界側がそう判断を下した。
人間の欲望を監視する役目が、私にはあったのだ。
近くの茂みが、揺れた。
獣か。私の気配に気づいたのだろう。しかし音を立てて近づいてくるとは、よほど狩りが下手なのか、それとも不慣れなのか、と思う。
命の危険は感じていなかった。死ぬことについて実感がないといえばない。私にとって「死」とは、特別な意味を持たない。命あるものは、いつか必ず終わりを迎えると知っているからだ。私の予知は、それを見通すためでもあった。
それに、魔女は並大抵のことでは死なない。だから、私は焦りもしなかった。茂みから何が飛び出してくるのか、興味本位でじっと見ていた。揺れが大きくなる。近い。
――姿を現したのは、人間だった。
黒い髪をした子どもだ。一人だろうか。私を見るなり、びくっと体を震わせ、のけぞるようにした。危ない。言いかけたが、言わなかった。
「一人なの?」
おそるおそると少年は、私の目を見ながら言ってきた。
私は頷く。この森に住む静寂を味わうかのように、ゆっくりと首を動かした。
「家族は?」
いない、とだけ答える。嘘ではなかった。彼は私が魔女であるということに気づいていないようだった。私の外見から判断して、歳の近い女の子を相手にしている感覚で喋っていたのだろう。
彼が表情を変える。ころころと、この世界の空模様よりも頻繁に、そしてたくさんの顔を見せた。困ったり、悲しんだり、嘆いたり、迷ったり――私は笑い出しそうになる。人間と直接、話をするのは初めてだったが、とても愉快な少年だな、と私は思った。
そのうち、彼は逡巡の顔を見せたのを最後に、決心を固めたような目つきになった。私は訝しげに目を細める。何を考えているのか。人間の思考は読めない。
けれど、彼の目に宿る輝きだけはたしかに感じとった。
「君さえよかったらさ、うちにおいでよ」
彼がどういうつもりで言ったのか、わからなかった。
「どうして?」
「寂しくないの?」
寂しくはない、と嘘をつく。魔女にはそんな感情はないのだが、私は、それを感じていた。生まれ方が特殊だったからだろうか。
「じゃあ、言い訳にしよう」
「言い訳?」
私は首を傾げた。
「俺に気を遣ってるんでしょ」
そういうわけではないけれど。
しかし彼の目には、きっとそうだ、と決めつけている強引さがあった。それは親切心からきているものなのだろうけど、浅慮なのは、まだ子どもだからか、と思う。
「実は俺、村の大人から、夜は危ないから外に出るなって言われてるんだ」
「ここは村の外じゃない?」
周囲の木々を指差しながら、私は言った。どう見ても、村と呼べる景色ではなかった。
「うん。だから困ってる」
「どうして?」
「怒られるから。うちの村長、普段の顔も恐いんだけど、起こると、もっとおっかないんだ」
私は、彼の言っていることが理解できなかった。
「あなたは、自分の意志で村から出てきたんじゃないの?」
「そうだよ」
「それなのに、困ってる」
「『発見』をしたくて」
「発見?」
「ちょっとした好奇心だったんだ。子供らしくて、いいでしょ?」
子供らしいといえばそうだが、子供がそれを口にした途端、胡散臭くなるのはなぜだろう。
面白い少年だと思った。気づけば、顔がほころんでいた。
「とにかく、俺一人だと、村には帰りづらいから、ね。君も一緒においでよ」
少年が私の手を取る。一瞬、驚いたが、すでに彼に興味が湧いていたので、気にしなかった。
手を引っぱられるままに、森の中を進む。この少年の行く末を見てみたい。そう、私は思った。
「君、名前はなんて言うの」
少し進んだところで、少年が振り返り、訊ねてくる。純粋さに満ちた美しい目をしていた。
私が名乗ると、少年は嬉しそうに口を開く。
「俺は、ユウトだよ。よろしくね」
空を見上げると、月が世界を明るく照らしていた。
寒々しい空気は消え、私の心には温もりがあった。いつまでもここにいたいと思える、心地よさだった。
――ユウト。
繰り返すようにして、名を呟く。私の世界を変えてくれた、その少年の名を。
クラウン・スラッシャー 東泉真下 @ndam_
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