宿雪の記憶

 志穂子がロープウェイまで戻ってくる頃には雨は上がっていたが、空は鈍色の雲に覆われたままだった。千夏はロープウェイの傍にあり休憩所で、熱心に携帯電話をいじりながら志穂子を待っていた。志穂子が帰ってきたのを見ると、千夏はさっそく文句をつけようと立ち上がったが、志穂子がうち萎れた様子でいるのを見てぎょっとしたように身を引いた。

「なに?リュウさんと何かあったの?」

「…うん、ちょっとね。」

志穂子はそれ以上説明しようとしなかった。ひょっとして振られたのだろうか。千夏は事の経過を聞きたくてうずうずしたが、ここまで打ちひしがれた姉を前にしてはそれもさすがに憚られた。仕方がない。今日のところは見逃すことにしよう。一週間も経てば少しは落ち着くだろうから、その時に根掘り葉掘り聞き出してやる。千夏はそう決意したのだが、それから三日も経たないうちに別に気になる男の子が現われ、リュウのことはあっさり忘れてしまった。

 志穂子の方はそう簡単にはいかなかった。食事をしていても、テレビを見ていても、浮かんでくるのはリュウの顔ばかりだった。あの後も何度か一人で霜ヶ峰に登ってみたが、やはりどこを探してもリュウの姿は見られなかった。三月を迎え、雪代ゆきしろが生まれる季節に入ったとは言え、山のあちこちにはまだ残雪が見える。人の気配も相変わらずほとんどない。それなのにリュウが姿を見せないということは、リュウはもう、この山に存在していないと考えるしかなかった。

(リュウ…、どうして?どうして消えちゃったの…?)

別れはあまりにも唐突だった。せめて春が来るまでにもう何度か会えるかもしれないと思っていたのに、その機会は二度と訪れなかった。リュウは逝ってしまった。志穂子の前から、永遠にその姿を消してしまった。

(あの、雪のせい…?)

リュウと初めて会った日のことが思い起こされた。あの時自分は、リュウが精霊であることを証明するために何かしてみせろと言ったのだ。それでリュウは自らの力を使って雪を降らせた。何でもないような顔をしていたけれど、実はあれはとても痛みを伴うことだったのかもしれない。現に山頂まで登った時、リュウは苦しそうな顔をしていたではないか。志穂子のささやかな望みを叶えるために、自らの命を削っていた。そしてあの山頂で降らせた雪、きっとあの時、リュウは自分の力を使い切ってしまったのだ。

(あたしのせいで…、リュウは…。)

自責の念が何度も志穂子を苛んだ。初めて会った時、自分があんな思いつきを口にしなければ、リュウはもう少し長く生きられたかもしれない。それに山頂で、リュウに向かってあんな弱音を吐かなければ、リュウが命の灯が消えるまで雪を降らせることもなかったかもしれない。全て自分のせいだ。自分があんなわがままを言ったせいで、リュウは春を待つこともないまま消滅することになってしまった。

 志穂子はやりきれなかった。いつまでも山を愛し、山の持つ力を多くの人に伝えられるような山岳写真家になること。それがリュウとの約束だった。だけど、それを伝えるためにリュウが消えてしまったことを思うと、いっそ山になんか登らなければよかったとさえ志穂子は考えてしまうのだった。


 三月も下旬に差しかかった頃、自分の部屋で、志穂子は現像した写真を眺めていた。この冬の間に撮った霜ヶ峰の写真。そのうちの一枚を志穂子はじっと眺めている。初めて会った時、リュウと共に山頂で撮った写真だ。あの時は隣にリュウが映っていたはずなのに、今写真の中にいるのは志穂子だけだ。リュウがいたはずの場所には不自然なスペースが空いている。まるで誰かが後から消しゴムでリュウの存在を消したみたいに。

(リュウ…。)

志穂子の瞳にじんわりと涙が浮かんだ。もう何度目になるかわからない悲しみが志穂子の心を覆い、悔恨の念がこみ上げてきた。どうして自分は山なんて好きになってしまったんだろう。もっと山以外のものに興味を持てなかったんだろう―、そんな思いが頭を駆け巡り、志穂子は机に突っ伏して泣き始めた。

 その時、遠くから誰かが志穂子を呼んだような気がした。志穂子は顔を上げた。窓の外から、誰かが自分を見つめているような気がする。志穂子はゆっくりと立ち上がるとベランダの方に近づいて行き、窓を開いて外に出た。

 外に出ると、冷たい風がそっと志穂子の頬を撫でた。その風に揺られるようにして、無数の粉雪が空から舞い降りている。闇の中に静かに浮かび上がるそれは、蛍の光があちこちで瞬いているように見えた。志穂子はその光景をじっと見つめながら、ゆっくりと天を仰いだ。空は雲に覆われて見えない。だけど志穂子には、雲の向こうから自分を照らす月の光が見えるような気がした。悲しみに沈んだ志穂子の心を慰めるかのように。

『志穂子』

自分を呼んだリュウの声が聞こえたような気がした。志穂子ははっとして街並みを見下ろした。夜の九時、マンションの五階から見える下界にはぽつぽつと人の行き交う姿が見える。もちろんそこにリュウの姿は見えない。あの茶色のロングコートと白いマフラーを身につけて、ポケットに手を突っ込んで自分を見上げているリュウの姿はどこにもない。だけど志穂子には、確かにリュウの声が聞こえたような気がした。霜ヶ峰で、二人で並んで山頂からの光景を眺めていた時、リュウが自分に向かって語りかけたように。

『僕は君に、この光景をいつまでも留めておいてほしい。写真じゃなくて、君の心の中にだ。そして忘れないで欲しい。僕がこんな光景を見せたのは…、君が、今の君のままでいてほしいと願ったからだと。』

リュウの最期の言葉が志穂子の中に蘇ってきた。それは志穂子の中で次第に大きくなり、志穂子の心をじんわりと暖かくしていった。そうだ、自分はリュウと約束したのだ。何があっても自分は自分のままでいると。たとえそのためにリュウが消滅してしまったのだとしても、それはリュウが望んだことなのだ。いつまでも悲しみに暮れているわけにはいかない。

 志穂子は部屋に戻ると、一眼レフカメラを掴んですぐに戻ってきた。そのままカメラに目を当て、シャッターを切る。何度も何度も、悲しみを振り切るように。そうして何枚か写真を撮った後、志穂子は再生ボタンを押して撮った写真を確かめた。夜の街並みに降りしきる粉雪、その中を慌ただしく行き交う人々、もちろんそこにリュウの姿はない。だけど志穂子には、確かにそこにリュウの姿を見出すことが出来た。この雪の降る街の中で、スカイブルーの瞳を細めて、自分を見守っているリュウの姿を。

 志穂子はもう一度再生ボタンを押すと、再びカメラに目を当てて写真を撮り始めた。その目にもう涙は浮かんでいない。悲しみが癒えたわけではない。だけど志穂子にはわかったのだ。姿は消えてしまっても、リュウと過ごした日々の記憶までもが消えてしまうわけではない。そうだ、写真には残らなくても、リュウは志穂子の中で生き続けている。その存在がある限り、志穂子はもう孤独ではないのだ。


 しんしんと降りしきる雪の中で、カメラのシャッター音が辺りに響く。部屋の机の上には、その冬の記憶を切り取った写真が何枚も並べられている。切り取られた写真では、そこであった出来事を全て伝えきることは出来ない。だが写真には残らなくとも、志穂子の心にはその冬の記憶がしっかりと刻み込まれている。いつまでも色を失うことのない、忘れがたい物語として。

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ウィンター・ロマンス 瑞樹(小原瑞樹) @MizukiOhara

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