最期の魔法

 それから二人は無言のまま歩き続けた。しんと静まり返った雪原にさくさくと雪を踏みしめる音が響き、新しい足跡が白雪はくせつに刻まれていく。陽光が二人の姿を照らし、一つの長い影法師を作り出している。今まで何度となく歩いた道、だけど今日、志穂子の目に映るその道は、何だかいつもよりも眩しく見えた。

 やがて二人は山頂に辿り着いた。視界に広がる銀嶺、霧氷に覆われた細長い木々、頭上に広がる蒼穹そうきゅうと、地平線で溶け合う大地。随分久しぶりに見た気がするその光景を前に、志穂子は心がじんわりと暖かくなっていくのを感じた。

「…やっぱり、言ってよかったな。」

志穂子が呟き、リュウが志穂子の方を見た。志穂子はきまり悪そうに笑った。

「さっきのこと。妹に先帰ってって言ったでしょ?あたし、あんなこと言ったの初めてだったんだ。今までなら妹の機嫌損ねたくなくて、『なっちゃんも一緒に行く?』とか言ったと思うんだけど、今回はどうしても言えなかった。だってずっと楽しみにしてたんだもん。リュウと一緒に山頂からの景色を見ること。でもあの子が来たら台無しになっちゃうような気がして…。なんかひどい悪口言ってるみたいだけど。」

志穂子はそう言ってばつが悪そうに笑った。だが、リュウは目を細めて前方の景色を見つめたまま、静かに首を横に振った。

「いや、僕も同じ気持ちだった。君が彼女に帰るように言ってくれて、僕は正直ほっとしたんだ。でも不思議だね、彼女はどうして山に何の興味もないのにここまで来たんだろう?」

リュウが心底不思議そうに言った。その原因が自分にあるとは夢にも思っていないみたいだ。

「でも、本当来れてよかった。こっからの景色見てると、こう、すっと心が軽くなって、自分が悩んでたこととかどうでもよくなって、あー生きてきてよかったなーって思える。あたし、これからもずっとここに来たいな…。」志穂子がしみじみと言った。

「いつでも来ればいいよ。山はいつでも君を待ってる。もちろん僕もね。」

リュウが微笑んで言った。志穂子はふふっと笑みを漏らしてリュウの顔を見返した。憧れの雪山で、心を通わせた人と並んでその光景を見つめる。それは志穂子にとって何にも代えがたい時間だった。どうしても譲れないもの。決して失ってはいけない場所。

 だがそこであることに気づいたのか、志穂子が急に真顔になって尋ねた。

「…ねぇ、リュウってさ、春になったら、やっぱりいなくなっちゃうの?」

リュウが志穂子の方を振り返った。返答に困った顔をしている。

「…そうだね。少なくともこの姿ではいられなくなる。春になればもっと多くの人がこの山を訪れることになるからね。本当なら、今こうして君の前に姿を現していることだって褒められたことじゃないんだ。精霊は人間を見守るものであって関わるものではない。それは自然の摂理のようなものなんだよ。」

「そう…、なんだ。」

志穂子は消沈したようにうつむいた。永遠に続くかと思えた幸福、だがそれは邯鄲かんたんの夢に過ぎなかった。そうだ、リュウは精霊なのだ。本来なら出会うはずのなかった存在。こうして少しの間でも一緒にいられただけでも奇跡のようなものなのだ。それはわかっている。それなのに、どうしてこんなにも心がざわめくのだろう。

「…どうして、リュウは精霊なんだろうね。」志穂子がぽつりと言った。

「リュウが精霊じゃなかったら、あたし達、たぶん出会うこともなかった。それはわかってる。でも…、もしリュウが精霊じゃなかったら、冬が終わっても一緒にいられたかもしれないんだよね…。」

言葉にした途端、内から悲しみがこみ上げてきたようで、志穂子はそっと自分の胸に手を当てた。瞳がじんわりと滲む気配がしたが、必死にそれを堪えた。

「でも、来年の冬になったら、また会えるんだよね?あたしがロープウェイで登ってきたら、いつもみたいにリュウが待ってて、二人で山頂まで歩くんだよね?会わなかった間の話いっぱいして、今までみたいに…、また一緒にいられるんだよね?」

志穂子がそう言ってすがるような眼差しをリュウに向けた。だけどリュウは志穂子と視線を合わさず、どこか沈んだ表情をしていた。それを見て志穂子は悟った。この冬が終わったら、リュウは永遠に自分の前からいなくなってしまう。ロールプレイングのゲームと同じだ。一定の期間が過ぎたら二度と会うチャンスはない。だけどこれはゲームとは違う。はじめからやり直すことは出来ない。

「ねぇ、リュウ、あたし嫌だよ。せっかくこんなに仲良くなれたのに、春になったらお別れだなんて…。リュウがいなかったら、あたしはまた一人ぼっちになっちゃうんだよ?山にしか興味がない変な子ってバカにされて、誰にも理解してもらえなくて…。」

「…そんなことはない。」

リュウが静かに言った。志穂子が当惑してリュウの顔を見返した。

「君は気づいていないだけだ。僕以外にも、ありのままの君を受け入れて、理解してくれる人はきっといる。たとえば君が撮った山の『写真』を見て、同じように山に興味を持って、一緒に山に登ってくれる人が現れるかもしれないじゃないか。ちょうど君が、お父さんの写真をきっかけに山に登り始めたようにね。多くの人にとって、山はただ遠くにあるものでしかないかもしれない。でも時に、山は多くの力を人に与えてくれる。志穂子、それは君が一番よくわかっているはずだ。君もまた山と共に生きてきた。山に魅了され、その姿を通して自分の中の揺るぎない支柱を培ってきた。だから君は、自分にとって一番大切なものを今まで失わずに生きていくことが出来た。そんな山の力を、僕は君からみんなに伝えてほしいんだ。」

「…でも、本当にそんな人が現れるのかな?あたし、それまで頑張れる自信ないよ…。」

志穂子がそう言って首からぶら下げたカメラを見下ろした。確かに自分は山岳写真家になることを夢見て今まで生きてきた。でも果たして、これからも同じようにそれを目指していくことが出来るだろうか。今までは孤独が当たり前だった。人から何を言われようと、自分の中に根差しているものを守って生きていくことが出来た。でもリュウと出会い、志穂子は誰かが隣にいる温もりを知ってしまった。一度それを知ってしまったら、再び孤独の中に身を置くことは難しい。自分はそれでもなお、自分の中にあるものを貫いて生きていくことが出来るだろうか。孤独を埋めようとするあまり、「普通の女の子」として生きる道を選ばないといえるだろうか。

 静寂が辺りを漂っていた。風がふわりと二人の間を吹き抜け、近くに会った白樺の木の枝がさわさわと音を立てた。志穂子は顔を上げなかった。別れを前にしても現実感がまるでなく、何をどう言えばいいのかわからなかった。

「志穂子。」

リュウが不意に名前を呼んだ。志穂子ははっとして顔を上げた。リュウはどこか思い詰めた、それでいて何かを決意した顔をして志穂子の方を見つめていた。

「間もなくこの山は雪解けを始め、新しい季節がやってくるだろう。僕が君に会うのは、今日が最後になるかもしれない…。だから僕は今ここで、とっておきの光景を君に見せようと思う。」

「とっておきの光景?」

「そう。君に前に見せたものよりも、もっと素晴らしい光景だ。これから他の雪山に登っても、こんな光景は二度と見られないんじゃないかと思う。僕は君に、この光景をいつまでも留めておいてほしい。写真じゃなくて、君の心の中にだ。そして忘れないでほしい。僕がこんな光景を見せたのは…、君が、今の君のままでいてほしいと願ったからだと。」

リュウはそう言って志穂子をじっと見つめてきた。その淀みのないまっすぐな瞳を見て、志穂子はようやくリュウの真意に気づいた。リュウは自分に別れを告げる前に、かつての志穂子を取り戻そうとしているのだ。初めて会った時と同じように、何があっても変わらずに山を愛し続けていた時の志穂子を。

 リュウはそっと片手を自分の胸に当てると、目を瞑って何度か呼吸を繰り返した。胸が呼吸に合わせて静かに上下する。しばらくそうしていた後、リュウは再び目を開けると、タクトを振るように片手をさっと振った。

 しばらくは何も起こらなかった。白い連峰、霧氷に覆われた木々、さっきまでと変わらない光景がそこに広がっている。だが志穂子は知っていた。これは魔法だ。リュウは自分に、最後の魔法を見せようとしているのだ。

 その効果は間もなくして現れた。しばらくして、蒼天そうてんは間もなく鈍色の雲に覆われ、そこから白いものがちらちらと舞い始めた。雪だ。花弁のように大粒で、まるで天上から天使の羽が零れ落ちるように、淡く瞬きながらゆっくりと落ちていく。その一つ一つが生命の輝きを放ち、祝福の雨のように志穂子の頭上に降り注いでいく。辺りはあっという間に純白のヴェールに覆われ、このかけがえのない瞬間を守ろうとするかのように、山頂を優しく包み込んでいる。

 志穂子は言葉が出なかった。目の前に広がる光景はあまりにも美しくて、どんな言葉でもその感動を言い表すことは出来ない気がした。それは幸福に満ちた光景だった。宙を舞う綿雪が、空中を駆け踊る妖精のようにステップを踏んでいる。吹き抜ける風の音が、歌を聴いているように心地よく耳に触れる。あふれる生命の息吹を、ほとばしる生きる喜びを、山は全身全霊をかけて伝えようとしていた。それは志穂子に対する山からのメッセージでもあった。山は志穂子の中に、決して忘れることの出来ない光景を残し、彼女が守ってきたものを再び目覚めさせようとしているのだ。

 知らないうちに、志穂子の頬を涙が伝っていた。これがいったい何の涙なのか。志穂子にもわからなかった。ただはっきりとわかったのは、自分はやはり山を忘れて生きることなど出来ないということだ。リュウと別れ、再び孤独の中に身を置くことになったとしても、リュウと過ごした時間までもが無に帰してしまうわけではない。リュウの存在はずっと志穂子の中にあり続ける。そして霜ヶ峰に、いや、あらゆる山に登るたびに志穂子は思い出すのだ。かつて山を愛する自分を受け入れてくれた人―、いや、精霊がいたことを。「普通」でないからといって、眉をひそめたり陰口を言ったりせず、ただ笑って隣にいてくれる存在があったことを。

「…リュウ、あたし、忘れない。」志穂子が静かに言った。

「今日ここで見た光景も…、今までリュウと話したことも…、絶対忘れない! 忘れちゃいけないんだよ。山が好きで、山岳写真家になりたくて、そんなあたしだったからリュウに出会えたんだってこと。あたしは何があってもあたし。この先もずっと変わらない。…それでいいんだよね?」

志穂子はそう言ってそっとリュウの顔を見上げた。リュウは柔らかい笑みを浮かべて微笑んだ。初めて会った時と同じ、雲間から差す陽光のような微笑み。だがその姿は少しずつ色を失い始めていく。茶色のロングコートも、白いマフラーも、スカイブルーの瞳も、光の粒子となっておぼろげに消えていく。

「リュウ…!」

志穂子は思わずリュウの方に手を伸ばしたが、その手は何も掴むことが出来なかった。

「リュウ…、いや、行かないで…!」

リュウが消えかかった手を上げ、そっと志穂子の頬に触れた。すでに実体はないはずなのに、そこには確かな温もりがあった。

「リュウ…!待って…!」

志穂子はがむしゃらに手を伸ばしてリュウに触れようとする。彼の残像がわずかに見える空間を必死になって掴もうとする。だけどもちろん、その手は何にも触れることが出来ない。

「リュウ…!」

その時、不意に何かが志穂子の唇に触れたような気がした。志穂子ははっとして動きを止めた。さっきまでリュウの姿があったところには何もない。リュウがつけたはずの足跡すら残されていない。志穂子は途方に暮れたように手を下ろし、呆然と目の前の光景を見つめた。

 いつの間にか雪は止み、空からは白雨はくうがぽつぽつと降り始めていた。それはまるで、片割れを失って悲愁に暮れる、山が流した涙のように見えた。

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