揺るがぬ姿

 両手に握ったピッケルを地面に突き刺し、志穂子はゆっくりと雪道を歩いていく。千夏によってつけられた真新しい足跡が、ゆるやかな軌跡となって志穂子の進むべき道を示している。千夏の声はまだ聞こえない。近くにいれば何かと喋り続けるかしましい声が聞こえるはずだから、二人はかなり先に進んでしまっているのだろう。志穂子は逸る気持ちを抑えながら慎重に歩を進めて行った。

 そうして三十分ほど歩いたところで、ようやく前方から人の声が聞こえてきた。志穂子は足を止め、衾雪ふすまゆきの盛り上がったところに隠れてそっと様子を窺った。リュウと千夏が並んで一本の白樺の木を見上げている。雪原にぽつんと佇むその木は、どことなくうら寂しげな様相を見せていた。そしてそれを見上げるリュウの顔も。だが千夏はそんなことには気づいていないのか、木には目もくれずリュウの顔ばかりを見つめて熱心に喋っている。だがリュウは木から視線を外さない。そこに自分自身が投影されているみたいにじっと視線を注いでいる。

「…リュウさん、元気ないね。」ようやく気づいたのか、千夏がぽつりと言った。

「さっきからずっとぼーっとしてるし、こんなつまんない木ばっか見てるし。何、あたしといるの退屈なの?」

千夏が不満げに言った。リュウがようやく白樺の木から視線を外して千夏の方を見た。そのスカイブルーの瞳に捉えられ、千夏がどきりとして肩を上げたのが見えた。

「…ごめん。正直言って、僕はよくわからないんだ。見たところ君は、この山に何の興味もなさそうに見える。そういう人は初めてだから、どう接していいかわからないんだ。」

「どうって、普通に話せばいいじゃん。別に山にいるからって山の話ばっかりしなくたってよくない?学校のこととか、友達のこととか、話題なら何でもあるでしょ。」

それがリュウにはないのだ、と志穂子は思った。リュウに出来るのは山の話だけだ。今日の山の天候はどうか、雲行きはどうか、霧は出ていないか、そんな話は千夏にとっては退屈極まりないに違いない。

「…僕には君の言っていることがよくわからない。ただ僕は、せっかくこんな美しい光景を前にしているんだから、少しはそれに目を向けてほしいと思っただけで…。」

「まぁそりゃ、最初は綺麗だって思ったけどさ。でもずーっとおんなじような景色が続いてるから飽きてきちゃって。寒いし、荷物は重いし、わざわざ二時間もかけて来なくてもよくない?とか思っちゃって。」

リュウが悲しげに目を細めた。彼にとっては自分自身を否定されたも同じなのだろう。

「ねぇ、山の何がそんなにいいの?カラオケとか映画とか、もっと簡単に楽しめることがいっぱいあるのに、なんでわざわざ苦しい思いして山になんか登るわけ?」

リュウはすぐには答えなかった。千夏から視線を外し、再び白樺の木を見つめる。

「『山に登る』という行為が、人間にとってどれほど厳しいものなのか…、僕にはよくわからない。でも、この山に来る人達の様子を見て、彼らの気持ちを想像することは出来る。」

リュウはそう言うと脇に視線を向けた。志穂子がいるのとは反対側、頂上へと続く道の方だ。つられて千夏もその方を見やった。まだ誰にも踏み荒らされていない白銀の大地、それを照らす眩い日輪。

「彼らはきっと、山に登ることを苦しみなんて思ってはいない。彼らが山に登るのは、ここでしか見られない光景がいくつも広がっているからだ。何も山頂からの眺めだけじゃない。そこに至るまでの道のりで出会う、様々な草木や花、生き物、その一つ一つが山を形作っている。そこで目にする光景は日々移ろっていく。季節や天候、時間によって山は大きくその在り様を変えていく。彼らはそんな山の姿に魅了されているんだ。だから人間は山に登る。その瞬間にしか見られない光景を、その目に焼きつけるために。」

「でも、そんなの別に写真で見ればよくない?山の写真なんて検索すればすぐに出てくるし、わざわざ自分で登らなくたって…。」

「確かに、『写真』というのは素晴らしいものだね。あれほど鮮明にこの光景を残せる技術があるなんて初めて知ったよ。でも、『写真』に写った光景は切り取られたものでしかない。視覚的な美しさを伝えることは出来ても、そこに漂うひんやりとした空気や、踏みしめた土や岩の感覚、吹き抜ける風の音―、そういったものを余すところなく伝えることは出来ない。だから山を本当に知るためには、山に登るしかない。『写真』はきっと、そのきっかけに過ぎないんだよ。…そうだよね、志穂子?」

急に名前を呼ばれ、志穂子は思わず飛び上がりそうになった。千夏がぎょっとした顔をしてこちらを振り向いた。志穂子はばつが悪そうな顔をしておずおずと姿を現した。リュウは静かな眼差しを志穂子に向けると、言った。

「君は前に言っていたよね。お父さんが撮る写真は、山がそのまま生きてるみたいだって。それはきっと、本来は伝わるはずのない、そういった空気や音の感覚までもが伝わってくるからなんじゃないかな。君はその写真に魅せられてこの山に登った。そして初めて山の本物の姿を知った―。君がお父さんのような写真を撮りたいと願うのも、もっと多くの人に山を知ってほしいと思うからなんだろう?」

志穂子はぽかんとしてリュウを見つめていたが、やがて大きく頷いた。そうだ、リュウの言う通りだ。今になってようやくわかった。なぜ自分があれほどまでに山に焦がれ、山岳写真家になりたいと強く願っていたのか。志穂子にとって、山はただ美しいものとして眺める対象ではなかった。それは生きる活力そのものだった。長い年月の中で、山はいつまでも変わることなく屹立している。その力強い姿は志穂子に勇気を与えてくれた。変わる必要などない。自分の中心は確かに自分の中にある。だったらそれを支えに生きていけばいい。孤高でたくましい山の姿は、志穂子の生き方にも影響を与えていた。志穂子が写真を通して伝えたかったのは、単なる山の美しさではなかった。それは生きる上での示唆のようなものだ。

 リュウは静かに笑みを浮かべて志穂子を見つめると、再び白樺の木を見上げた。志穂子もつられてそちらを見た。その木はもう孤独ではなかった。風に吹かれ、志穂子の方に枝を伸ばすその姿は、まるで志穂子の背中をそっと押してくれているように見えた。志穂子はその木に向かってふっと微笑んで見せた。大丈夫、私はもう、自分のことを諦めはしない。

「…あのね、なっちゃん、一つお願いがあるんだけど。」

志穂子が千夏に向かって言った。千夏が怪訝な顔をして志穂子の顔を見返した。

「ここから先は、私とリュウだけで行かせてほしいの。そんなに時間はかからないと思うから、なっちゃんはここで待っててくれてもいいし、何なら先にロープウェイのとこまで戻っててくれてもいい。」

「え、でも…。」千夏は明らかに不満そうな顔をした。

「お願い、この人のことだけは、どうしても譲れないの。」

志穂子はきっぱりと言うと、千夏に向かって手を合わせた。千夏はそれでも納得いかないように下唇を突き出していた。

「…わかったよ。」

やがて千夏がぽつりと言った。志穂子が顔を上げた。千夏はふてくされた顔をしてそっぽを向いている。

「もう雪も飽きたし、こんなとこで待ってても寒いだけだし、先に降りてるから好きなだけ景色眺めてれば?この人逃しちゃったら、志穂、一生彼氏できないかもしんないもんね。」

千夏はそう言って大きく伸びをすると、さっさと元来た道を引き返していってしまった。志穂子はぽかんとしてそのショッキングピンクの背中を見つめた。失礼な捨て台詞、だけどそれは、初めて千夏が志穂子にチャンスを与えてくれた瞬間でもあった。

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